第22話 昭和16年12月8日


 冬も深まりつつある12月。

 妙な胸騒ぎがして夜中にふと目が覚めてしまった。けれど心当たりはない。ため息をついてそのまま寝ようと思ったけれど、なぜか夏樹も目を開けて天井を見つめていた。


 自分だけじゃなかったんだと思いつつ、私が起きていることに気がついていない夏樹に、わざとらしくギュッと抱きついた。


 うん? と言いたげな表情でこっちを見る夏樹と、暗闇の中で目が合う。いつもなら、えへへとごまかし笑いをするところだけど、なぜか今日はそんな気にならなかった。


「もしかして起こしちゃったか?」

「ううん。そうじゃないけど、目が覚めちゃった」


 さっきから胸の奥がざわざわしている。得体の知れない緊張感ともいうべきだろうか。空気が張りつめているような嫌な気配を感じる。


 時計を見ると、午前2時42分だった。


「なんか変な空気だな」

 思わずつぶやく夏樹にうなずき返して、

「目が冴えちゃったね」

と言いながら身体を起こした。


 とたんに冷気が身体を包む。ぬくもりの残る肌に突き刺さるような寒さ。

 12月だから寒いのは当然だけれど、ちょうど夜中の今くらいの時間から、さらに一段と冷え込むんだよね。


「う~、寒い。……すぐに火を入れてくるよ」


 この感じだとどうせ朝方まで寝られそうにない。

 すぐに下に降りて火鉢の炭に火を点ける。密閉空間での炭の使用は危険だから、暖まってきたら窓を少し開けないといけない。


 そこへ夏樹が掛け布団を肩に抱えて、器用にハシゴを下りてきた。

 火鉢を前にして、1枚の掛け布団に2人一緒にくるまった。


 裸電球の明かりに照らされながら、炭の断面が赤く輝いている。滑らかで真っ黒な炭の表面で、チリチリといいそうな灼熱しやくねつの赤い色が、まるで呼吸をしているかのようにゆっくりと明暗を繰り返していた。


「こうしていると野宿してるみたいだね」

「……確かに」

 野宿の時はもちろん炭じゃなくて薪だけれどね。


 数えてみると、日本に戻ってきてからもう15年になろうとしている。その間に野宿は一度もしていなかった。

 今まで旅をしてきた年月に比べれば、15年なんてちりみたいな年数だけど、それでもこうして一緒にくるまっているのが懐かしく思う。


 人類は火を手に入れて急激に進化してきたという。食べ物を焼いたり暖をとるためだけではない。

 ランプを手に、洞窟の闇を火で照らして、居住空間を広げていくのにも火を使用したのだ。

 実際に夏樹に連れられてラスコーの洞窟に行ったときに、石でできた大きなティースプーンのようなランプを見ている。


 こうして暗がりの中を、家族が寄り添い、夫婦が寄り添い、火を見つめる。人類が歩んできた悠久の歴史で、幾たび繰り返されてきた光景だろうか。


 けれど、その火も時には恐ろしい猛威となる。かつてロンドンの夜を真っ赤に染めたあの火事も、江戸の大火も……。

 この炭と同じ灼熱の赤。建物からは炎が吹き出して巨大な火柱が空を焼き、火の粉が舞い上がる。モクモクと黒い煙が立ち上り、焼け焦げたにおい、そして、人の焼ける例えようもなく嫌なにおいが漂っていた。

 叫ぶ声。避難しようと逃げ惑う人々。火炎地獄のまっただ中にいるような悪夢の光景。


 もし空襲で焼夷弾しよういだんが家に落ちたら、同じようにすべてのものが焼けてしまうのだろうか。

 ……しかも原子の火すら、人類はまもなく手に入れることだろう。豊かさと破滅の両面をもつあの強大な炎を。


 急に腕がぞわりと泡立ったように悪寒が走った。自分の身体を抱きしめるようにして、手のひらで腕をこする。

 するとすぐに夏樹が腕を肩越しに回してきて、私の身体をぐいっと抱き込んでくれた。

 夏樹のぬくもりに包まれる。ずっと傍にいてくれるこのぬくもり。温かく、私を守ってくれるそのぬくもりが、安らぎをもたらしてくれる。


「……ありがとう」

 正直にお礼を言うと、私を抱く腕に力が込められた。

 言葉少なにそのまま二人で炭を見続ける。この無言の時間が心地よい。


 時おり意味もなく目配せをすると、向こうもニコッと笑ったり、お返しで目配せを送ってくる。もちろん意味なんてない。他愛もないじゃれあいだけどそれが楽しかった。


 そんなことをしていると、いつの間にか部屋も暖まってきてあの予感じみた嫌な感覚が綺麗さっぱり無くなっていた。

 時計を見るとすでに午前5時。仮眠程度ならできるけれど、それよりも朝ご飯を作ってしまった方が後が楽だろうか。


「――よし!」

 立ち上がって、朝食を作ると宣言してお台所に向かった。


 この時期の日の出は遅く、畑仕事もないために農家の朝は遅めだ。けれど、役場は決まった時間に開けないといけない。

 私が朝ご飯を作っている間に、夏樹も準備を済ませるという。

 今日という一日が、これから始まる。


 目玉焼きに、昨夜の残りの豚汁もどき。おひつに残ったご飯でじゃこ飯のおにぎり。

 他の家庭に比べて豪勢な方だと思うけど、うちは朝はきっちり食べる派です。


 できたご飯を居間に運ぶと、すでに夏樹が座って数日前の新聞を読み直していた。


「おまたせ――」

と言いかけたとき、ラジオから滅多に聞かれないチャイムの音が、ポンポポ、ポンポポ、ポンポポ、ポンポンポ――と聞こえてきた。


 一瞬、2人で顔を見合わせて、同時にそのままの姿勢でラジオを見ながら耳を澄ませる。


「臨時ニュースを申し上げます臨時ニュースを申し上げます。

 大本営 陸海軍部、12月8日午前6時発表。

 帝国陸海軍は、ほん8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

 帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

 今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました」


 え?


 思わず夏樹の方を見ると、眉をひそめて真剣な目で私を見つめ返し、黙ってうなずき返した。


 もしかして今日は、――真珠湾攻撃の日?


「始まった」


 緊迫した短い一言。


 どこか遠くから万歳の声が聞こえてきた。村ではかなりの騒ぎになっているようだ。

「早めに役場に行かないと――」


 そっか。それもそうだね。


 慌ただしく準備をする夏樹と相談して今日は畑仕事もお休みすることにして、お寺で恵海さんと美子さんと一緒にいることにした。

 どうにも今日は気もそぞろになっちゃって、何も手に付きそうにない。それなら美子さんと一緒にいた方が落ちついて過ごせそうだから。


 ニット帽にマフラーをして、半纏はんてんを着込んで、夏樹と一緒に蔵を出る。

 鍵を掛けて、霜柱をざくざくと踏みながら庫裡くりの玄関に向かった。

 寒いけれど今日は風もない。それだけに村のざわつきが空にこだまするように、ここまで伝わってきているようだった。


 庫裡の玄関の所で、役場に向かう夏樹をお見送りをして、私は中に入った。

 うどんでも打とうかな。

 チマチマした作業をしているより、そっちの方がいいかも。



◇◇◇◇

 春香の見送りを受けて、俺は寺を出た。

 冬のもの寂しい空。道ばたにある用水路の端の方は氷が張っていた。


 今年は正月に東条英機陸相が『戦陣訓』を発表してから、一気に戦争の気配が深まった年だった。尋常小学校は国民学校に名前を変え、教科書も変わったと聞く。

 10月には東条内閣が発足。それとほぼ同時に、ドイツ人のリヒャルト・ゾルゲらがソビエトのスパイだったことがわかって特高に逮捕されている。

 その影響もあって、今は防諜ぼうちよう、防諜とうるさくなっていた。


 国民服も制定されて、俺は良い生地があるうちにと、春香のもんぺも一緒に作っておいた。空襲くうしゆう時の道具として、頭巾や肩掛けカバンの雑嚢ざつのうなども常備している。


 那須野の埼玉の方で陸軍が土地を買収したと聞いた。何らかの施設ができるんだと思うが、軍事施設ができるということは、このあたりも空襲の危険性が高まるということでもある。だから備えはしっかりしておかないとマズいんだ。


 2ヶ月くらい前に、全国一斉に大規模な防空訓練があった。あれはもしかして、この開戦を想定してのことだったのかもしれない。


 役場に到着するや、宿直だった鈴木先輩が緊張した表情で訊いてきた。

「夏樹君。さっきのラジオを聞いたか」

「はい。いよいよですね」

「ああ。アメリカと戦争だ」


 まもなく職員が全員揃った。村がざわついているので、みんな何があってもいいように早めに出てきたようだ。

 そのまま朝礼となり、村長さんから訓示があった。


 ほどなくして駐在さんもやってきて、村長さん、助役さんとともに村内に異変がないか巡回をするという。俺たち書記は通常業務として待機することになった。


 書き仕事は沢山たまっている。けれど誰もが集中できなくて、手が止まってしまっていた。川津先輩も鈴木先輩も無言のままに、灰皿を前に煙草をくゆらせていた。

 コッチコッチと時間が過ぎていく。

「駄目だな……。仕事になりゃしねえ」

 吐き捨てるように川津先輩がつぶやいた。


「夏樹君は今いくつだったっけ?」

 問いかける鈴木先輩に、

「今年で33ですよ」

 途端に顔を見合わせる先輩2人。そう。2人とももう40を越えている。役場職員の中で、召集の可能性があるのは俺だけなのだ。

「俺がやっている兵事係だが、夏樹君に担当してもらおうかな」

 冗談交じりの口調でそうつぶやく川津先輩に、俺はかぶりを振って断った。

「いいえ。今まで通りに先輩がなさってください。俺は大丈夫ですよ」

「そうかい」


 冷静に考えれば、このタイミングで兵事係になんてなったら、徴兵忌避ちようへいきひと捉えられるだろうに。


「ドイツは快進撃をしているみたいだが、我らが皇軍はまだ蒋介石しようかいせきを駆逐できていないんだよな」

「援蒋ルートを塞がないと駄目だろうよ」

「そのための仏印進駐なんだろ? 次はビルマかねぇ」

「すると、まだ南に戦線を広げるわけだ」

「そりゃあ、大東亜だから、インドやオーストラリア辺りまで行くんだろ」

「それはわかるが、アメリカとまで戦争か。交渉が難航してるとは新聞に書いてあったがなぁ」

「我慢も限界だったんだろう。物資は心配だが、東亜の平和のためだ。正義はこっちにある。日本が立ち上がらなかったら、いつまでも列強諸国に支配されたままになっちまう」

「そうだな」


 二人の会話を聞き流す。どれくらい時間が経っただろうか。

 やがて村長さんたちが戻ってきた。村内ではどこかしらで人が集まり、興奮状態にあったようだが、それほど大きな混乱はなかったようだ。


 ただ出征兵士の家だけは、ひっそりとしていたという。

 そういえば、香織ちゃんの旦那の秀雄君は、弓6823部隊の所属となった。宇都宮の兵営に入営して直に大陸に渡ったようだが、どうやら今は中国中部の中原あたりにいるらしい。手紙が来たと香織ちゃんが言っていた。


 秀雄君が入営する時、俺と春香も黒磯駅まで見送りに行ったが……。入営してから4ヶ月後だったか、1泊2日の外出許可をもらって帰ってきたけれど、こっそり聞いたところによると支那へ渡るということだった。

 その話を聞いているときの香織ちゃんが、健気けなげに我慢しているのがわかって、見ているのが辛かった。


 子供はまだ2歳になったばかりだ。うまく言葉もしゃべれないけれど、どっちに似たのか元気よく走り回っていた。

 秀雄君に抱っこしてもらい、香織ちゃんと家族3人の写真を撮ってあげた。もの寂しげな笑顔で子供を見ていた秀雄君。やがて時間が来て、和雄君を香織ちゃんに預け、一礼して改札口をくぐっていった。

 その背中に向かって、和雄君は香織ちゃんに抱っこされながら、父親が出征する意味も分からずに手を振っていたのが印象的だった。

 あの時、出発した列車が見えなくなっても、香織ちゃんは線路の先をずっと見つめていた。


 2人には俺と春香の加護を与えてある。和雄君には弾が当たらぬように、爆弾に巻き込まれないようにと。しかし、この凄まじい戦争の中でどこまで彼の身を守る力になるのかは自信がなかった。


 ただ、軍事郵便の手紙が来ているということは、無事だと言うことだ。香織ちゃんから話を聞いた俺と春香も、ほっと胸をなで下ろしたもんだ。

 もっとも検閲があるので軍事機密に当たる内容はなく、居場所も大まかな場所だけで具体的地名は書いてなかった。今も無事でいて欲しい。そう思う。



 日本の方は今年の初頭から、アメリカとの間で交渉が続いていた。

 新聞によれば、アメリカは中国と北部仏印からの撤退を要求。日本はソビエトのコミンテルンに対する防共協定や満州国に対するアメリカの承認を求める。

 この両者の主張がぶつかり合っていたらしい。

 だが日本は防共協定といいつつ、そのソビエトと日ソ中立条約を結んでもいるわけで……。


 日本とアメリカの交渉が続いている間に、ドイツとソビエトが戦争に突入。

 それに乗じて日本は南部仏印にまで軍隊を進めてしまった。


 当然、それはアメリカの態度を硬化させ、交渉は完全に暗礁に乗り上げてしまう。アメリカは全侵略国に対する石油の輸出を全面的に禁止した。日本も含めて。

 今まで中立国として日本と貿易を続けてくれていたアメリカだったが、この輸出禁止によって、日本に対する経済封鎖のABCD包囲網が完成してしまう。


 それでも交渉を続けようとする近衛内閣だったけど、陸相であった東条大将が強硬意見を述べたのだろう。

 結局、閣内不一致で内閣は倒れ、替わって立ったのが東条内閣だった。かつての連隊長殿だけに複雑な気分だ。


 正午、ラジオからは天皇陛下の宣戦のみことのりが発せられた。

 一同立ち上がり、ラジオに向かって頭を垂れる。


天佑てんゆうを保有し、万世一系いっけい皇祚こうそめる大日本帝国天皇は、あきらか忠誠勇武ちゅうせいゆうぶなる汝、有衆ゆうしゅうに示す。


 ――ちんここに米国及び英国に対してたたかいを宣す。


 朕が陸海将兵は、全力をふるって交戦に従事し、朕が百僚有司ひゃくりょうゆうしは、励精れいせい職務を奉行ほうこうし、朕が衆庶しゅうしょは、各々、の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦せいせんの目的を達成するに遺算いさんなからんことをせよ――。


 皇祖皇宗こうそこうそうの神霊、かみり、朕は、汝、有衆ゆうしゅう忠誠勇武ちゅうせいゆうぶ信倚しんいし、祖宗そそうの遺業を恢弘かいこうし、速に禍根かこん芟除せんじょして、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全ほぜんせんことを期す」



 つづいて東条大将の懐かしい声が流れてきた。しかし、内容は重大だ。


「ただ今、宣戦の御詔勅しょうちょく渙発かんぱつせられました――


 過般かはんらい、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力してまいりましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、

 かえってイギリスオランダフィリピンと連合し、支那より我が陸海軍の無条件 全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました――


 事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります」


 ああ、満州は確かに日本の生命線になった。……それも命取りという悪い意味で。


 加えて外交交渉中になぜ軍事行動を起こしてしまったのか。そんな相手を信頼する国などあり得ないだろう。なぜ仏印に進駐してしまったのか、悔やまれる。


 結局、その後も役場のなかは仕事にならず。何度か日本の同盟通信からのニュースが流れ、真珠湾攻撃の成功や各国の対日宣戦布告の見込みが報じられるのを聞くばかりだった。


 世界は必ずどこかでつながっている。地球の裏側で起きた独ソ戦が、陸軍の仏印進駐につながり、外交で行き詰まりを見せたように。

 なんてタイミングが悪いんだ。戦争を回避しようとする一方で、戦争に突入しようとする勢力も。いくつもの船頭がせめぎ合っているうちに、引き返すことのできない一線を越えてしまったのだ。


 しかし、それも歴史の姿なのだろうか。……いや違うな。それが人間の、社会のすがたというべきだろう。


 ラジオや先輩たちの会話を聞き流しながら、俺はそんなことを思った。



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