第20話 昭和14年11月、止まらぬ戦争、変わりゆく生活

 昭和14年の11月、夜9時ごろに突然、誰かが蔵にやってきて俺の名前を呼んだ。

 そろそろ寝ようかと思っていたんだが……。玄関に向かおうとする春香を手で制し、自分が出ることにした。


「鈴木さん、こんな夜ふけに何かあったんですか」


 そこにいたのは役場の書記で先輩の鈴木さんだった。たしか今晩は宿直当番だったはず。緊急事態、というわけでもなさそうだが、妙に緊迫した空気を漂わせている。……熊でも出たか?


「慌てないで聞いてくれ。……先ほど駐在さんから連絡があってね。今晩は重大な用件があるから兵事係へいじがかりを待機させておくようにということだ」


 心の中で、雷に打たれたような衝撃が走った。

 巨大な何かが俺の前に立ちふさがっているような、平穏な日常が今まさに、どす黒い影に飲み込まれようとしている。そんな強迫観念にも似た緊張に、思わず息を潜めてしまう。


「……わかりました」


 うちの村で電話があるのは駐在さんのところと清玄寺だけだった。対外的な公の電話は、駐在さんのところに行くことになっている。

 兵事係はもう一人の先輩の書記、川津さんなんだが、こういう場合は村長さん以下、役場職員が集まることになっている。


 そう。

 兵事係を待機させておくということは、召集令状が役場に届くということだ。役場に届いた令状は、3時間以内に宛先へと届けなければならない規則になっていた。


 急いで役場に向かわなければならないが、こんなに静かな夜では車を出すことができない。防諜にも気を使わないといけないからだ。やむなく徒歩で向かう。


 後ろから心配げな顔をしてやってきた春香に近寄り、その耳元で、

「召集令状が役場に来るみたいだ。……先に寝ていてくれ」

と小さい声で告げると、黙ってうなずいていた。


 さっそく鈴木先輩と一緒に蔵を出て、寺の裏口から村道に出る。途中、昨年作ったばかりの厩には3匹の挽き馬がいるが、この時間は眠っているようで静かだった。


 夜の冷気に包まれながら空を見上げると、秋の寒空に明るい月が浮かんでいる。いつもよりも光が寒々と冴え渡っているようだ。


 道脇を流れる用水路が、月の光を反射しながら澄んだ水の音を響かせている。他に聞こえるのは、俺と鈴木先輩に足音だけ。足元には2つの影法師が落ちている。


 途中で、俺と同じ在郷軍人の家に寄り、もしかしたら動員の令状が来るかもしれないから、急使として3人ばかり集めてもらうようにお願いをしておいた。


 暗がりの中を役場の明かりがぽつんと点いている。

 到着すると、先に連絡を受けていた川津先輩が待機をしていた。

「おう。来たか」

「はい」

「まず間違いなく。赤紙だろう」


 もしかしたら俺の番かもしれない。

 その言葉を飲みこんで、いつもの席に座る。


 静寂の中を、壁に掛けた時計がコッチコッチと、妙に大きな音を立てている。


 この地方の大きな警察署は黒磯になるから、召集令状はその黒磯署から運ばれてくる手はずになっている。ただし、そこにはまだ自動車がないので、おそらく自転車で運ばれてくるのだろう。

 やがて闇の中を複数の走ってくる足音がして、在郷軍人の仲間たちが役場に入ってきた。


 俺が、

「まだですよ」

と言うと、ふうと肩を下ろして銘々が手近な椅子に座る。

 それからしばらくして村長さんや助役さん、収入係が到着し、これで徴兵事務の準備は整った。

 9人も人が集まってはいるけれど、誰一人としておしゃべりをしようという人はいなかった。



 2ヶ月前、わざわざ三井の松本先輩が新聞の号外を送ってくれたんだが、ヨーロッパではとうとうドイツがポーランドに攻め入り、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告をした。

 第二次欧州大戦がはじまったのだ。

 1ヶ月後にポーランドは占領されてしまったが、こちらではいまだに中国での戦線が安定していない。



 待ちくたびれたころに、2台の自転車の音が聞こえてきた。油が切れているのか、キーキーともの悲しい音を立てている。


 役場の前で音は止まり、2人の警察署員が和紙の包みを持って来た。動員番号と松守村の名前が書いてある包み紙。令状は2枚と書いてある。


 村長さんの立ち会いの下で封を切る。川津先輩が中から朱に染められた紙を取りだした。紙を開く動作が妙にゆっくりに見える。


 召集されたのは――。


「鈴木貞夫、松本俊郎」


 ……俺ではなかった。しらず安堵の息をついていた。名前を呼ばれた2人は、根古と中郷の青年だった。


 すぐに在郷軍人名簿を取り出してきて、召集令状の記載内容に間違いがないかどうかを確認する。氏名の文字に誤りがあると届けられないし、間違いがあったらそれを正当な理由として召集を拒否できることになっている。


 しかし、今回も間違いはない。

 記録をする台帳に記入した後で、来てもらった在郷軍人2人に使い番をお願いすると、神妙な顔で赤紙を受け取り、夜道を走り去っていった。


 沈黙が室内を支配する。

 そのまま30分ほどで2人とも帰ってきた――。


 それから幾つかの手続きをして応召事務が終わったところで、川津先輩は駐在さんのところへ報告に、他の人は宿直の鈴木先輩を残して解散となった。助役さんは令状を届けた2軒の様子を窺ってから帰るという。


 そんなわけで俺は夜道をとぼとぼと一人戻る。静けさに眠る村を月が見守っていた。

 今回は自分じゃなかったことに安堵しつつも、自然と春香のことを思い、ひどく切なくなる。


 気がつくと蔵に帰り着いていた。

 春香が行灯あんどんを玄関先に出して置いてくれたようだ。その優しさが心に染み入る。

 きっともう寝ているだろう。明かりを消して、起こさないように静かに蔵に入った。


「おかえり」


 暗闇の中で声を掛けられて、ドキンと心臓が鳴った。

「脅かすなよ。……ただいま。先に寝ていればよかったのに」

「寝られるわけないじゃん」


 それもそうか。

 春香も心配していたのだろう。火鉢をつけて部屋を暖かくして、俺の帰りを待ってくれていたようだ。ありがたい。


 時計を見るとちょうど深夜1時を回ったところだった。


「2人召集されたよ」

 コートを脱ぎながらそう言うと、

「そう」

とだけ返事をして、春香は黙ってしまった。


 戦争が長引くにつれ、この村にも赤紙が届くようになってきた。同時に生活の方も急速に変わりつつある。

 国民精神総動員運動の名の下に、国家のために働くことが当然とされ、戦争に反対するようなことを言うと、非国民だとか国賊だなんてと呼ばわれてしまう時代になってしまった。


 今年の1月には『国民職業能力申告令』というのが出され、新聞報道によると技術者や高学歴者のみならず、運転免許所持者も該当するらしく、俺も春香も登録することになった。


 そのほか、昨年には革製品と鉄製品の使用と製造制限が始まり、ランドセルやバッグ、財布、つり革から野球のボールやグローブに至るまで牛皮などを使うことができなくなった。

 鉄製品の方も、まだ供出の話や使用禁止が出たわけではないけれど、鉄製の机、ストーブ、五徳や鉄瓶、パーマネントの機械などの製造が禁止。


 今年に入ってからも、米穀や肥料の配給統制、自動車のタイヤやチューブの配給統制、羊毛の購入制限、繊維製品製造制限だのと。

 もう数えるのもうんざりするほどの規則や統制令ができている。だけど、これからも品目が増え続けるだろう。


 すっかり身体が冷えてしまった。できれば温かいものが飲みたいけれど……。


「お風呂の用意もしてあるわよ」

「え? お風呂?」

「うん。身体冷えたでしょ」


 時間が時間だけれど、せっかくだから湯船だけでも入るかな……。そう思って、礼を言いながら俺は服を脱ぎはじめた。

 ズボンを下ろしていると、春香もおもむろに寝間着のボタンを外し出す。


「お前も入る?」

「うん」

「そんなに気をつかわなくても大丈夫だぞ」

「ううん。私が、そういう気分なだけ」


 そうか。上手くいえないけど。帰り道に俺が春香のことを思ったように、1人、蔵にいる間に、俺のことを思ってくれていたのだろう。それがうれしい。


 2人して浴室に入り、手桶で身体を流してさっそく浴槽に身体を沈める。

 本日2度目のお風呂だから洗うことはしない。


 春香が俺の方を見て急ににっこりと微笑むと、背中を向けて俺の方に身体を寄せてきた。そのまま俺の肩を枕にするように頭を乗せてくる。後ろから春香を抱きかかえるような体勢になった。


 ちらりと顔をのぞき込むと、少し伏せた目もとがほんのり赤く染まっている。この表情は幸せに浸っている時の顔だが、今日はどこか寂しげに見える。

 そのままお腹に手を回すと、むき出しの肩越しに、ちらりを俺を見上げてきた。……こいつめ。期待しているな。


 肩を抱き込むようにして顔を寄せると、春香は自分から目をつぶって唇を上に向けた。ついばむように3度キスをすると、満足したようで再び俺にもたれかかってきて、小さく鼻歌をうたいだす。


 腕に柔らかい胸が当たっている。お腹はまるで上質なシルクのようになめらかだ。腕の中にある、この確かな重みが愛おしい。


「あなたじゃなくて、本当に、よかった」

 つぶやくような声に、抱きしめる腕に力がこもる。


 ふと春香が思い出したように、

「そういえばさ。香織ちゃんのところ、今8ヶ月だって」

「ということは出産は年末ごろになるのか」

「そうだね。まだそんなにお腹は目立たないみたいだけど」

「これから大きくなるんじゃないか」

「そうなのかな」


 まだ俺たちは子どもの出産を経験していないから、よくわからないんだよな。母親と胎児の成長具合とかは。

 お腹に回していた俺の腕の上に、春香がそっと手を重ねた。

「ここに命が宿るってどんな感じなんだろうね。お腹の中で赤ちゃんが動くと、どんな気持ちになるのかな」

「……春香」

「あ、ごめん」

「いや、俺もその日が来ることを楽しみにしてるしな」

「うん」


 俺たちの修行の終わりはいつなのか。帝釈天様ははっきり仰らなかったけれど、それはそんなに遠い未来じゃない予感がしている。おそらく春香も薄々感じていると思う。最近はこうして子どもの話をすることも多くなってきた。

 子どもをお腹に宿すこと。新しい命を産むということ。それは俺たちが神通力を使う以上の神秘だと思う。


 後ろからぎゅっと抱きしめ、耳元に口を寄せる。

「愛してる」

 クスッと小さく笑った春香はコクンとうなずいた。

「私も。愛してる」


 そんな風に抱き合っていたら、寝る気分じゃなくなってきてしまった。

 お風呂から出て寝巻きに着替え、梯子はしごを登ってロフトに敷いた布団に入ったはいいが、仰向けに並んでおしゃべりの続きをして、その夜は更けていった。



◇◇◇◇

 夏樹が夜に役場に行って帰ってきてから、一週間が経った。

 国防婦人会の会員でもある私は、割烹着をきてたすきを掛け、今日出征する貞夫君の壮行会に来ていた。


「祝出征 鈴木貞夫君」と書かれた大きなのぼりが立っている。

 家の前に壇を設け、その上に立つ貞夫君は日の丸を畳んでたすきにしていた。今年で26歳だという。


 その後ろには年老いたご両親と、奥さんが顔をうつむかせて控えていた。


 在郷軍人会会長の福田さんが大きい声で、

「鈴木貞夫君の出征を祝して、万歳を三唱します」

と宣言する。

 集まってきた人たちで、

「ばんざーいっ」「ばんざーいっ」「ばんざーいっ」


 三度の万歳の声が響いた後、貞夫君は腹に力を入れ、

「名誉の召集であります。お国のために、この命を捧げて戦ってまいります!」

と大きな声で挨拶をした。


 それを聞いた福田会長が一呼吸置いて、

「しゅっぱーつ!」

と指示をする。楽隊役の在郷軍人の人が太鼓を叩きながら行進を始める。壇から貞夫君が降りて、その後ろについた。


 私は、他の国防婦人会の奥さん方と一緒に、日の丸の小旗を振りながら『海かば』を歌う。


 海かば

  かばね

   山かば

    くさかばね

 大君おおきみ

  にこそなめ

   かへり見はせじ


 歌っている私たちの目の前を貞夫君が通り過ぎていく。その横顔は無表情だった。

 その後をご家族がうつむいたままで続き、次いで福田会長、そして、私たち国防婦人会が付いていく。


 いずれ夏樹にも赤紙が来るだろう。その時が無性に怖い。

 だから、普段はその事をなるべく考えないようにしていた。けれど、こうして壮行会に出ると、どうしても来たるべきその日のことを考えずにはいられない。


 村道の両脇の畑には、赤とんぼが飛び交っている。頭上には、抜けるような青空が広がっていた。






――――


「海ゆかば」JASRAC 010-2456-6 


詞の権利者:大伴家持(PD)


※PD=権利消滅。奈良時代の人ですから……。

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