第19話 昭和13年、香織の結婚式

 ここは清玄寺の控え室の一つ。ふすまの前にある桐の箱には、この日のためにあつらえた、黒引きのそでたたんで入っている。その隣には婚礼小物の箱も並べてあった。


 今日は昭和131938年11月の19日。香織ちゃんと秀雄君の結婚式だ。

 もうしばらくしたら、香織ちゃんがご家族と一緒にやって来るだろう。


 私は長襦袢ながじゅばんを広げ、用意してあった衣桁いこう衣紋掛えもんかけにかけた。

 床の間には、今日の日のために届けられたお祝いが並んでいる。新婦が寒くないようにと、片隅に置いてある火鉢ひばちでは鉄瓶てつびんがゴトゴトと音を立てていた。


 昨年、香織ちゃんと秀雄君から相談を受けた際に確認したところ、2人はお付き合いしていることすら、それぞれの両親に伝えていなかった。

 この時期、恋愛結婚としては、まずはお付き合いの報告と許可を得て、それから年数を経て婚約へと進むのが筋道すじみちだろう。けれど、そのやり方では数年単位の時間がかかってしまう。

 そこでもう1つの方法をることにした。つまり、第3者からの仲介、お見合いのやり方だ。


 つまり、仲人なこうどを立てるってことだけれど、その役目は村の新参者である私たちにはふさわしくない。

 そこで恵海さんにも相談して、まずは恵海さんが仲介役となって、ご両親に2人の結婚を勧めることにしたのだ。


 結論からいえば、2人の付き合いはご両家ともに歓迎された。香織ちゃんの所は小作農だけれど、秀雄君の所は違うので少し心配していたが、特に問題は無かったようだ。

 ……内実は、どうもお付き合いのことは、前から薄々感づいていたらしい。

 ま、それもそうだよね。自分の子どものことなんだから。


 ただし2人とも17歳という若さなので、せめてあと1年は待つようにということだった。その条件を飲んだところで、お仲人さんを村長さんにお願いして結納を済ませたのだった。


 あれから1年。香織ちゃんは秀雄君の家で見習い兼花嫁修業をすることになった。

 だから、私たちの畑仕事の手伝いはもう終わり。それまで毎日のように会っていたのに、同じ村の中とはいえ、会えない日が続くとどこかもの寂しい気持ちになったものだ。

 ともあれ、今日、2人は結婚式を挙げる。


 この辺りでは、結婚式を新郎の家で行う風習なんだけれど、家の事情は様々なので、できない場合は今日のようにお寺でその場所を提供しているらしい。

 これも村人がすべて、清玄寺の檀家だからできることだろう。


 庫裏くりの玄関の方からざわめきが聞こえてきた。どうやら到着したようだ。

 廊下を歩く音が近づいてきたので、出迎えのために部屋の前に出ると、タイミング良く香織ちゃんとそのご両親がやって来るところだった。


「香織ちゃん。今日はおめでとう」

 満面の笑みを浮かべた香織ちゃんが、全身から強烈な幸せオーラを振りまいている。

「はい。奥様も今日はありがとうございます」

 後ろのご家族にも一礼をして、

「皆様も、今日はおめでとうございます。新婦はここで、皆様は隣の部屋でお控え下さい。すぐに美子さんが落ちつき餅お汁粉をふる舞われると思いますから」


 香織ちゃんのお父さんとお母さんは、私に深く頭を下げた。

「奥様には本当に、本当にお世話になりました」

「いえいえ。頭をお上げになって。私たちの方こそ、香織ちゃんには色々やってもらって、ありがとうございます」

とまあお礼合戦になりかけたけれど、時間には限りがあるので、強引に隣の部屋に行ってもらう。私は香織ちゃんと控え室に入った。


 久し振りに香織ちゃんと2人きり。

 中に入った彼女は、衣装ケースの花嫁衣装や小物、そして、床の間に並んでいるお祝いの品々を見て、もう胸が一杯になっているかのように少し泣き笑いの表情を浮かべた。

 その様子に私も胸が熱くなる。けれど、式までに着替えを済ませないといけない。

「さあ、香織ちゃん。着替えをはじめるよ」

「はい」

 振り返った香織ちゃんの笑顔がまぶしかった。


 着ている服を脱いでもらい、長襦袢を後ろから掛けてあげる。前をあわせて下帯で固定をして、それからイスに座ってもらった。

 衣裳を着させる前にお化粧をしてしまわないといけない。だからまずは髪を調えないとね。

 香織ちゃんの髪は文金高島田ぶんきんたかしまだを結えるほどボリュームは無いから、お化粧の後でカツラをかぶせる予定。髪をまとめ終えたら、次はお化粧だ。


 緊張している顔にはまだ少女の面影が残っている。

「目をつぶって」「はい」


 無言のうちに化粧下地を塗り広げて肌に馴染なじませる。化粧皿けしょうざらにおしろいを水でかし、筆をつける。ひたいからそっと、ムラにならないように丁寧に色を塗る。


 少しずつ白くなっていく香織ちゃんの顔。筆を動かすたびに、一緒に過ごしてきた時間が思い出される。


 初めてうちに来た日の幼い姿。半纏はんてんを着て緊張していて、おでんを食べていたあの顔。


 学校に行きだして、友だちができて、き活きとしていた制服姿。


 わからないところがあるといって、居間の電球の下で夏樹から勉強を教わっていた姿。


 割烹着かっぽうぎをきて一緒にご飯を作ったり、青空の下でたらいで洗った洗濯物を干したりした。


 畑仕事の合間に木の下で休憩きゅうけいを取ったときの、あの木漏れ日の顔。


 雨にれて走って帰った後で、お互いのびしょれ姿を見て、腹を抱えて笑ったこと。


 そして、秀雄君を応援していた、あの祭りの夜に見た一生懸命な姿。


 色んな事を思い出すと、自然と目頭が熱くなり涙がにじんできてしまう。

 お化粧をされるがままの香織ちゃんに、気取られぬように、筆を持ったままで右の腕で目もとをぬぐう。


 大きくなったなぁ……。

 本当に。本当に大きくなった。


 再び筆をとっておしろいを塗る。それが終わったら、眉墨まゆずみを載せていく。次第に凜々りりしい乙女の姿になっていく。

 新しい絵皿を取り出し、朱の口紅に細筆をひたす。


 きゅっと引き結んでいる香織ちゃんの唇に、筆を当てる。


 幸せになるのよ。必ず。絶対に幸せになりなさい。


 祈りを細くしなやかな筆先に託して、そっと朱をひいていく。


 この先、困難な時代が来る。

 けれど、折れぬように、くじけぬように、がらぬように。

 願わくば、いかなる悲劇もこの小さな身に降りかからぬように願いながら――。




 ひと通りのお化粧を済ませ、そっと息を吐く。


「もういいわよ」


 そっと目を開いた香織ちゃんに姿見を向けてあげた。


「……わあ。まるで自分じゃないみたい」

 そうつぶやく香織ちゃんに、

「この後、振り袖を着て、かつらをかぶせるとまた変わるよ。……かつらは重いから、屈みすぎたりしないように注意してね」

「はい」


 再び立ってもらい。着付きつけの続きをする。振り袖に腕を通し、下帯、上から私の持って来た金銀の刺繍ししゅうの施された帯を結って帯締おびじめをむすぶ。


 そして、いよいよかつらをかぶせ、正面から位置を調整した。

「お、おも……」

 うめく香織ちゃんにくすりと笑いかける。「でしょ」


 最後に飾りなど全体を確認して、姿見の前に椅子を運んで再び座ってもらった。

 隣の部屋に、新婦の準備ができたことを知らせると、今度は自分の番だ。急いで奥の部屋に向かう。私たちも新婦側の下座に座ることになっている。

 はやく着替えないと……。



◇◇◇◇

 お寺の本堂には、昨夜の内に準備しておいたように新郎新婦の座布団の後ろに、参列者用の座布団が並んでいた。

 すでに両方の家族は着席しており、残りは新郎と新婦、そして、お仲人さんだけだ。


 やがて恵海さんを先頭として、新郎と新婦が入堂してくる。香織ちゃんは、村長さんの奥さんに左手を支えられながら、ゆっくりと歩いている。向かって左側の座布団に着席した。

 お仲人さんが着席したのを確認して、恵海さんのお導師で結婚式がはじまり、やがて式は三々九度に移っていく。


 夏樹とともにすっと立ち上がり、御宝前の方に用意されている朱塗しゅぬりの儀式用酒器を取りに行く。

 お給仕きゅうじは私と夏樹なのだ。


 最初は夏樹の番なので脇に座って待機をすると、私の目の前を、小盃しょうはいを載せた三方さんぼうと飾りを付けたお銚子ちょうしを持った夏樹が通り過ぎていく。

 無言のうちに。聞こえるは、外でそよ風が木々を揺らす音と、夏樹のずり足の立てる衣擦きぬずれの音だけ。


 まずは新郎のもとへ。夏樹がズ、ズ、ズ、ズズーと独特の足さばきに次いで、ふわりと座った。キリッとした姿勢が美しい。

 私の位置からは夏樹の背中しか見えないけれど、身体の動きで何をしているのかはわかる。今は新郎の持つ盃にお酒を注いでいるところだ。

 新郎が緊張した面持ちで、両手で盃を持ち3口みくちにわけて飲み干した。

 次は香織ちゃん、また秀雄君のところに注ぎ、夏樹が戻ってきた。


 私の番だ。立ち上がって御宝前に進み、中盃ちゅうはい三方さんぼうに載せて左手で、お銚子を右手で持つ。振り返り、夏樹と同じようにずり足で香織ちゃんのもとへ。

 みんなの視線が集中するけれど、表情を変えないように口を引き結び、新婦の正面に座る。


 対面した香織ちゃんが、私をまっすぐに見つめる。けれどこれは無言の儀式。口を開かずに三方さんぼうを前に出して盃を取ってもらう。

 飾りを付けたお銚子ちょうしふたに左手を添え、3度にわけて盃にお酒を注ぐ。朱塗しゅぬりのさかずきに、同じく朱塗りのお銚子の口から、清水のようなお酒がツーッと流れていく。


 香織ちゃんはこぼさないように、慎重に、かすかに手を震わせながら盃を口に近づけていった。3口めにスウッとお酒を飲み干す。

 盃のしりに添えられた香織ちゃんの手。畑仕事で日に焼けた指だけど、とても美しく、また可愛らしく見えた。


 飲み干す仕草に魅入みいっていると、いつのまにか空になった盃が差し出されていた。三方を持って盃を受け、再び香織ちゃんと目を合わせる。


 角隠つのかくしの下の白い顔。朱を引いた口元がキュッと引き結ばれている。少女だった女の子は、すでに一人前の女性の顔をしていた。


 その後、新郎、新婦とお酒を注いで御宝前に戻る。

 三献さんけんめのお給仕は夏樹。それが終われば、引き続いて親族盃しんぞくはいの儀となる。夏樹と2人で立ち上がり、お銚子を持って御神酒おみきを参列者の手元に用意した盃に注いでいく。

 私たちが元の席に着いたところで、恵海さんが仲人なこうどの村長さんに目配めくばせをした。


「我が国が一致協力して未来を築くべき今日こんにち。このき日に清玄寺の本堂にて新郎・井上秀雄君、新婦・大島香織さんの婚姻こんいんの儀がおこなわれました。ご両家の皆さま、まことにおめでとうございます。

 それではお盃をお取り下さい」


 村長さんの声に、誰もが手元の盃を手に取る。


「新郎と新婦の幾久いくひさしいお幸せと、ご両家の益々ますますのご発展をお祈りいたしまして、乾杯いたします。――乾杯」


 盃に口を付け、すっと飲み込む。

 一呼吸置いたところで恵海さんがお祝辞を述べはじめ、そして、式は如法にょほう相整あいととのった。


 ご住職が退座の後、村長の奥さんの介添かいぞえを受けて、香織ちゃんが秀雄君のご両親の元へと行き、一人正対せいたいして座る。


 そっと指先だけを付ける礼をして、

「今までおじさん、おばさんとお呼びしておりましたが、本日、この時をもちまして、私は秀雄さんの妻となり、お二方ふたかたの娘と相成あいなりました。年若く未熟者みじゅくものの私ではございますが、幾久いくひさしくお願い申し上げます」


 その挨拶を聞いた途端、香織ちゃんのご両親が目にハンカチを当てた。


 新郎のご両親はニッコリ微笑んで、

「今日はとてもい日だ。うちの秀雄に、こんなに立派な嫁が来てくれる。そして今、私たちの娘となったんだ。

 ご近所同士、昔から知っているとはいえ、こんなにうれしいことはない。なあ、大島の。本当にありがとうよ」


 香織ちゃんのお父さんに呼びかけた声には、娘を嫁に出す親に対する思いやりが込められていた。


 香織ちゃんのお父さんはうるんだ目のままで、

「ああ、井上の。香織を、頼むぞ」

と一言だけいうと、深々と頭を下げた。


 思わず、もらい泣きをしそうになる。なんてあったかいんだろう。人と人とのきずなというか、今この場は、まだ若い2人を中心とした思いやりに満ちている。


 ――結婚式は優しさに包まれる日。


 かつて誰かから聞いた言葉が胸に響いた。




 さてその後、お寺の客間に移動した。綺麗きれいにおぜんが並び、食事の用意ができていた。

 松守村では、こうしてお寺の客間で宴会をする場合が結構あるんだよね。今日はもちろん披露宴ひろうえんになるわけだけど、お料理はお寺の奥さんの美子よしこさんが指揮をして、2人のいる中畑なかはた地区の人たちが作っていた。


 昨年の11月にとうとう大本営だいほんえいが設置され、12月には南京なんきんを占領した。国内ではこれで支那事変が終結するとお祝いムードになった。南京では汪兆銘おうちょうめいを首班とする中華民国国民政府が樹立し、そして日本政府は、蒋介石しょうかいせき側を交渉の相手とせず、汪兆銘おうちょうめい政府と国交を結ぶと宣言。

 しかし、蒋介石は重慶じゅうけいに本拠を置いて抗日戦を展開していて、長期戦に陥っていた。


 こうした戦争の長期化のせいか、この前の4月にはとうとう国家総動員法が公布され、すでに施行状態となっている。他にも、こんな田舎ではあまり関係ないけど、軍事機密を保護する軍機保護法ぐんきほごほうというのが制定された。

 国際連盟からは、かつてワシントン会議で結んだ支那の主権を尊重する条約に反すると批判をされたが、自衛権を行使したまでとして主張し、国内では、かえって蒋介石へ援助しているイギリス・フランスへの不満がまってきているらしい。


 今はまだこうして宴会もできるけれど、やがて配給時代になればそれも厳しくなるだろう。


 一同がそろい、再びお仲人さんにより祝い膳が始まる。お酒が回っていくうちに、いつしか2人の子供の頃の暴露ばくろ話になった。

 その話に笑ったり怒ったりする主役の2人。そして、それを見て笑う参列者一同。


 宴もたけなわになったところで、新郎の親戚の男性が手をパンと打ち、

「おさかなげをしよう」

と言い出した。

「おう!」といらえを返す男衆おとこしゅうが歌をうたいだす。


「見よ東海の空あけて~ 旭日高く輝けば~」


 今年の2月にレコードが発売された愛国行進曲だ。女衆おんなしゅう手拍子てびょうしを打ちながら聞いている。

 見ると夏樹も一緒に歌っていた。私と目を合わせて微笑んでいる。


 軍国調の歌詞だけれど、祝いの席で歌をうたうという行為自体が楽しいのだろう。お酒が入っていることもあって、誰もが笑顔になっている。


 男衆の歌が終わると、次は女衆の番。曲目はもう決まっている。伝統の「めでたぶし」。


 めでた、めでたの この酒盛りは

  鶴と亀とが 舞い遊ぶ

 さかなあげましょ せんすへのせて

  せんすめでたく いよ~えひらく


 手拍子をしながら香織ちゃんも歌っている。この時は年頃の明るい笑顔になっていた。

 歌が終わると、みんなが一斉に拍手をした。「いよっ、ご両人!」


 笑顔があふれる酒宴は、こうして夜ふけまで続いたのだった。




――――

『愛国行進曲』……JASRAC無信託だが一部は管理している場合がある#区分。wikiには内閣情報部により著作権フリーとあり。問題があれば、歌詞は削除します。

ゆるゆる展開はもう少し続きます。

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