第18話 昭和12年、春香、買い出しの帰り
「よっこらせっと」
我ながらおばさんくさいと思いながら、買ってきた荷物を車の後ろの座席に入れる。
反対側のドアからは、香織ちゃんが同じようにシートの上に運び込んでいた。中身は、ここいらで手に入らない作物の種や木綿の布、ガラスペンやインクなどの筆記具、そしてお酒だった。
外はもうすっかり暗くなっていて、ここから見える黒磯駅の明かりがもの寂しげに見えた。
香織ちゃんと二人、夏樹に頼まれて宇都宮に買い出しに行ってきたんだけど、さすがに日帰りだときついね。
本当は荷物もあるから車で行ってしまえれば良かったんだけれど、木炭自動車ってのが登場しているから……。木炭で自動車って動くんだね! 初めて聞いたときは目が点になったよ。
まだまだ普通の自動車も走ってはいるけれど、早めに自重しようということで黒磯の駅に出るまでを精々の範囲としている。
自分たち用のガソリンはそれなりの量のストックがあるとはいえ、村で自動車はうちも含めて3台しかないので、注目されていると思う。
「もうすっかり暗くなっちゃいましたね」
助手席に乗った香織ちゃんも今年で17歳。まだ幼さが残っているものの、だいぶ大人びた表情も見せるようになってきたと思う。
運転席に座ってエンジンを掛ける。
ライトを付けて、ゆっくりと車をスタートさせた。
まだ私だとスムーズにギアチェンができなくて、その度に車がガクンと揺れてしまう。でもまあこれにも慣れた。坂道発進だって余裕だよ。
時間は夜の9時。酔っ払いすらも、もう家に帰ってしまったのだろう。駅前通りも街灯がついているだけで、ほとんど人の通りはない。
そんな静かな街を通り抜け、田舎道を一路、松守村に向かって走らせる。
暗い夜道を2つのライトが照らし出している。夜の林道もそうだけれど、こうした農道も何か出てきそうで怖い。
私の視界の端っこで何かが飛んでいるようだけれど、あれはきっとコウモリだと思う。この時期は夕方になると、あちこちで飛び始めるんだよね。
しばらくは2人とも無言で、ただ路面の
さっきから黙りこくっているけど、疲れて寝ちゃったかな。
そう思って横をチラリと見ると、香織ちゃんはじいっと前を見ていた。
「もしかして怖い?」
夜の真っ暗な道だから……。
「いえ。ただ街がすごく賑やかだったなって思って」
「なるほどね。北支事変がはじまったからだろうね」
7月7日に
まるでギリギリまで水を湛えていたダムが決壊したかのように。
「喫茶店でもその話題ばっかりでしたね」
「まあね」
今回のお使いは、あらかじめ注文していた品を宇都宮の三井の支店で受け取るだけだったんだけど、せっかくだから香織ちゃんとブラブラと街を歩いてお店めぐりをしたんだ。
服や布を扱っているお店では、すでに化学
喫茶店に入ると、我が日本こそがアジアを植民地から解放するんだとか、皇軍の快進撃を
思えば、あの2.26事件から時代の変化が早いように感じる。
満州への大規模な日本人移住計画が発表されたし、日本とドイツの防共協定が結ばれた。
今年の4月には防空法が制定。『国体乃本義』という本も出版された。
そして、先日の
ぽつりと香織ちゃんがつぶやいた。
「秀雄と、その、もし結婚しても、いずれは支那に行っちゃうのかなって思いまして……」
そっか。秀雄君も今年で17歳。
おそらく兵営に入っても教練が終わり次第、すぐに中国に行くことになるだろう。そうなれば香織ちゃんは……、一人きりになってしまう。
確かに不安だよね。
単なる海外出張じゃないんだよ。爆弾や機銃を持った相手と、命がけで戦いに行くんだ。
戦死する可能性だって高いと思う。
「気持ちは分かる。私だって、夏樹にいつ召集令状が来るかわからないから」
「あ……、すみません」
「いいのよ」
そして、ごめんなさい。
夏樹は戦場に行っても絶対に死ぬことはないの。だから、そういう意味では香織ちゃんとは状況が違う。自分たちがズルをしているようで心苦しいけど。
「もし、このまま戦争になって。もし……、そのまま――」
ぶつぶつと不安を漏らしはじめた香織ちゃん。
秀雄君との未来が心配なんだろう。
好きな人を失うことが、怖いんだろう。
――でもね。
「香織ちゃんはその秀雄君が、誰よりも好きなんでしょ?」
「はい」
「一緒になりたいんでしょ?」
「はい」
「香織ちゃん。今はこういう時代なの。でもね。だからこそ。――一緒にいられる時を大切にするべきだと私は思う」
「そう……、ですか」
人は生まれてくる時代を選べない。
生まれてくる国を選べない。
生まれてくる家を選べない。
だけど、それだからこそ。たとえ短い間だとしても、精一杯の幸せをつかむべきだと私は思う。
……ただ、私は永遠の時を夏樹を歩む
「ですね。奥様と旦那様はそういう感じがします。……そっか」
「私たちは送り出すしかない。ほとんどの人は戦争よりも、とにかく生きて帰ってきて欲しいっていう気持ちだと思うよ。……貴女も
駅前に何人もの女性が白いさらしの布を持って、道行く婦人に赤い糸で一針縫ってもらっていた。
虎は千里を行き千里を帰る。
1000人の女性に縫ってもらった布を腹巻きにすれば、家族のもとに帰ってこられるという。出征家族の、そして人々の祈りの結晶だ。
道行く女性たちに一針を
奥さんか母親か、はたまた妹さんかわからないけれど、どこか思い詰めたような必死な顔が脳裏から離れない。
励ましを受けて、表情こそ微笑みを浮かべていたけれど、無理をしているのが透けて見えた。
今の時代、下手なことを言うと非国民と指をさされてしまう。本心では戦争に行って欲しくないと思っても、それを外に出すことはできないんだ。
「はい。……そういえば、奥様も私と一緒で
「あはは。すごい偶然だよね」
思い出したように言う香織ちゃん。今年29歳の設定だから、明治41年の
とはいえ私の場合、本当は違うけど、そんなことは言えないし言う必要もない。
「そっか。奥様と一緒なんだ。私は……」
そうつぶやいて、また香織ちゃんは黙り込んだ。夏樹も
自動車は川沿いの道に出た。ここまでくれば村までもうすぐだ。
山間から流れてくる唯一の川だけど、長い年月で大地を削ったせいか、畑とかのある平野部よりも低い場所を流れているんだよね。
「あ、ホタル……」
その声にスピードを緩めて、ちらりと川の方を見ると、たしかに小さな光が飛び交っているようだ。
……うん。よし。
「ちょっと見ていこっか」
「え? はい」
そのまま道ばたに車を寄せてエンジンを切る。ライトを消すと途端に真っ暗になった。
携帯電灯を持って足元を確認しながら土手を降りていく。
川のそばまで行ってから、危ないから念のために手を繋いで電灯を切る。再びあたりは暗闇に包まれた。
耳を澄ませば、川のせせらぎが聞こえてくる。その澄んだ水の音に誘われるように、闇の中をぽわり、ぽわりとホタルの光が浮かび上がった。
7月も下旬だというのに、まだ結構な数のホタルが空を舞うように飛んでいる。この時期だとヘイケボタルだろうか。
「きれいだね」
「はい。本当にきれいです」
飛び交うホタル。その軌跡が、まるで滑らかな墨のように、漆黒の川面に映り込んでいて美しい。
「知ってる? ホタルってね。卵からかえって、ずっと川の中で幼虫のままで暮らすんだよね」
「はい」
「時期が来るとサナギになって羽化して成虫になる。大人になると、こうやって光りを放ちながら空を舞う」
「はい」
「でもね。成虫になってから、たった一週間くらいしか生きられないんだよ。その短い期間にオスとメスが出会って卵を産むの」
「……はい」
「ほんの
「……」
ふと一匹のホタルが香織ちゃんの服にとまった。
ぽわりぽわりとそのお尻が光っている。香織ちゃんはその光をじっと見つめていた。
「後悔しないように、今を大切にしなさい」
「はい」
そうして私と香織ちゃんは、しばらくホタルを見つめ続けたのだった。
◇◇◇◇
数日後、私と夏樹は香織ちゃんに相談があると言われ、清玄寺の応接間をお借りしていた。
目の前には香織ちゃんと、彼女がお付き合いをしている秀雄君が緊張を
実は以前にも何度か会っているので、彼の人となりはそれなりに把握はしていた。
なかなかの人見知りのようだけれど、香織ちゃんと楽しそうに話をしているところを何度も見ていた。
日に焼けた顔に青年らしい
香織ちゃんに「秀ちゃん」と声を掛けられ、秀雄君が意を決したように、がばっと顔を上げた。
「今日は旦那様と奥様にお願いがあってまいりました。――僕たちが結婚するためにお力添えをいただけないでしょうか」
私の目には、並んで頭を下げる2人が妙にまぶしく見えた。
そっか。とうとう決意したんだね。
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