第15話 昭和8年、夏祭り
松守村での暮らしが始まってから、早や3ヶ月が経とうとしている。季節は春から夏に変わり、今日はお盆の7月15日だ。
引っ越ししてすぐのバタバタとした日常もようやく落ちついて、最近は村の中に出かけるようにしている。少しでもコミュニティに融け込んでいけるように。
普段は何をしているかっていうと、夏樹の退職金で土地を購入し、野菜や果物を育てて暮らしている。
かつてはもう少し人がいたこの村も、都会に出て行く人もいて村民が少し減っているらしい。そうした人たちの持っていた畑や未耕作地を購入していったところ、
さすがに2人では管理しきれない広さなので、当面の耕作地を
残念ながら、水の
……ただ自分たち用にと乳牛2頭と山羊を3頭手配している。牧草地とする場所の選定もおえて、地主さんから購入済み。目処が立ったら柵を作ったりする予定だ。
作っている野菜は、とりあえず枝豆のほかにカボチャ、サツマイモ、トウモロコシ、大根なんかの野菜と、いずれ果樹園にするつもりの区画ではリンゴや梨、ブルーベリーなどの苗を植えている。
あまり色々と育てると多種目少量の収穫量となってしまい、流通に載せるのが難しくなる。そこで出荷用と自宅用とで分けて区画割りをしてみた。
もっとも今年は試験栽培が主なので、食べる分が収穫できればいいと判断している。あとは温室も作る予定と、……こうして考えてみるとまだまだやることがあるね。
さてそれはともかく。――今晩はお盆の夏祭り。
1年のうち、正月と並ぶ大イベントの日だ。
数日前から清玄寺の広場に
普段は私たちと一緒の香織ちゃんにも、お盆の期間はお小遣いを渡して実家に帰らせた。所謂お盆休み。というわけで、今の時期は2人暮らしなのです。
外から太鼓の音が聞こえる。人々の歌う声や笑う声が混じっていた。
その雰囲気に気が
電球の下で
朝顔の柄の浴衣に紺色の帯。公称25歳のまだ若い時分だからまだこの柄でも大丈夫だよね。髪を洋風に巻き上げて、
後ろで待っている夏樹はかつての七夕の時と同じく市松模様の浴衣だ。手には
「どう?」
夏樹に尋ねると、ぐっと寄ってきて私の腰に手を回してきた。
「色っぽいな。すごく。うなじなんて特に」
「えへへ。2人でお祭りなんて久し振りだもんね」
真っ正面から見つめられるとちょっと恥ずかしい。
夏樹の背中に手を回してつま先を伸ばし、そっと唇を伸ばす。夏樹も優しく微笑みながら私の背中を支え、そっと唇を重ねてくれた。
ぶっちゃけ、私はキスが大好きだ。
唇と唇を重ねる、あの柔らかい感触が好き。長く重ね合って息
ちなみに今の夏樹は、今日の祭りでワクワクしているのが半分、そして私の浴衣にちょっと興奮しているのが半分といったところかな。
身体を離して見つめ合う。
「……じゃあ、行くか」「うん」
キスで上機嫌になった私は、左手に巾着を持って、右手の指を夏樹の指と絡め合うように手を繋いだ。
電灯の明かりを落として蔵の玄関に向かう。真っ暗になってしまうけれど、私たちの
引き戸を開けると、途端に夜の暗がりの中を人々の
「太郎の勝ちぃ!」
行事の名乗りの後で、わあぁぁぁという歓声が聞こえる。
そう。江戸の昔から、お盆のお祭りでは相撲大会をやるのだ。
男たちにとってはいいところをみせるチャンスとあって、意気込みは相当のものなんだよね。
夏樹が蔵の鉄扉を閉めている間に、私は
薄暗い道。
昼間の熱気がまだ残っていて、それがまた祭り気分を盛り上げてくれる。
ゆっくりと喧騒に向かって歩く。この雰囲気が、妙に心を
本堂の脇を抜けると、そこはもう会場の入り口だった。中央には
数日前から
土俵と
まわりの屋台とはいっても、さほど大がかりなものがあるわけではない。それぞれの地区の青年団が出している屋台だ。
お酒、ビール、ラムネのコーナーが一番人気で、次が炭火コンロを利用した焼き串や飴玉かな? だれがやっているのか、どんどん焼きの屋台まである。
割り箸を挿したキュウリの一本漬け、五平餅、トウモロコシもあって松守村らしいと思う。
村中の人たちが集まっていて、結構な人混みだ。家族連れ、年配のお爺さん同士が集まってタバコを吸っている。
「まずはビールを持って恵海さんに挨拶に行こうか?」
「差し入れもね」
「じゃあ、焼き鳥でも持って行くか」
いいんじゃないかな。肉食禁止ってわけじゃないし。ここの宗旨は。
さっそく屋台で自分たちの分も含めてビールと焼き鳥を買う。お盆に載せて、土俵を横目に回り込んでテントに向かった。
「どうも。盛大ですね」
夏樹が恵海さんに声を掛けると、恵海さんはニカッと笑った。
「御仏使様。ぜひ楽しんでいってください」
……この人、いくら言っても、ふとしたときに御仏使様って呼ぶんだよね。
「はい。これ差し入れです」
私はそう言って、恵海さんや村長さんたちにビールを配った。焼き鳥は紙皿のままでテーブルの上に置いておく。
「奥さん。ありがとう」
声を掛けてくれたのは在郷軍人会会長の福田さんだ。一礼して、
「いつも主人がお世話になってます」
「あ、こりゃどうも」
とどこか照れたように頭を掻いた。こういうところは田舎の人らしいよね。ふふふ。
他にも駐在さんにも挨拶をする。制服姿だけど、ビールで良いのかな? ちょっと思ったけど構わずに渡すと受け取ってくれた。
恵海さんからは、
「御仏使様も座られてはいかがです」
と言われたけれど、私たちはもうちょっと会場を歩きたい。
丁寧に辞してテントを離れようとしたとき、視界の端に香織ちゃんの姿が入った。
見ると兄弟に
「秀雄ぉ。がんばれーっ。
根古っていうのは地区の名前。他に
今は青年の部のようで、どうやら香織ちゃんの応援している秀雄君は15才くらい。対戦相手はもうちょっと上の大学生くらいだ。
体つきはやはり相手の方が良さそう。
ここからでは秀雄君の背中しか見えないけれど、普段は農作業をしているのだろう。年齢の割には、それなりに引き締まって見える。
行事をしている神主さん、この人も清玄寺の総代、が名前を呼んだ。
「ひがーしぃ、根古、達郎くん。にーしぃ、中畑、秀雄くん」
両選手が手にした塩を
強い照明に2人の若い肉体が照らされている。中央で対面し、身体をかがめ、両の拳を下げていく。緊張が高まっていく。
「見合って見合って、……はっけよい、のこった!」
次の瞬間、組み付こうと立ち上がった秀雄君に、達郎君の張り手が次々に決まる。「きたねえぞ」とヤジが出た。
突進の勢いを殺され、それでも秀雄君は張り手を返しながら組み付こうとジリジリと前に出る。顔が歪んでいるが、一歩も引かない。
バシバシっと筋肉と打つ音。打たれて赤くなっていくお互いのからだ。
ふっと一瞬の隙をついて、秀雄君が頭を低くしてガシッと組み付いた。左手が相手の回しをがっしりつかんでいる。
相手もすぐに秀雄君の回しに腕を伸ばした。さすがに体格の違いがあるから、簡単にまわしを取られてしまうが、秀雄君の右手もがっしりとつかんでいた。
がっぷり四つに組んで、いよいよこれからが本当の勝負だ。
「いけー! 秀雄!」
香織ちゃんは必死に声援を送っている。
一緒にいるときは少し大人びて見えるときもあるけれど、今の横顔を見ていると年頃の女の子そのものだ。
土俵上の二人は力を入れながらも、タイミングを計っているようだ。
先に仕掛けたのは達郎君だ。足をがっと掛け、秀雄君を投げようと身体をよじる。
秀雄君はすばやい足裁きで相手の足をかわした。しかし、その姿勢を崩したところを達郎君に押され、見る見るうちに土俵際に追い詰められていく。
苦々しげな表情。でもまだ目は諦めていない。
「達郎。やれ!」「秀雄ー、負けるな!」
土俵際で踏ん張っている秀雄君。達郎君も最後の押し出しができないでいる。必死の攻防に二人の顔が赤くなっていた。
不意に秀雄君がくるっと回って、達郎君を投げにかかった。力のベクトルを流しつつも、達郎君も土俵際で堪える。そこを秀雄君が押し出した。堪えようとする達郎君だが、抗しきれずに一歩、足を外に踏み出してしまう。
「やったー! 秀雄! やったー!」
香織ちゃんがすごい興奮して飛び跳ねている。
最後に、秀雄君が達郎君に手を差し出して握手をした。互いに礼をして、達郎君が土俵から下がっていく。
行事から勝ち名乗りを受けてから、秀雄君も土俵から降りていった。降り際に香織ちゃんの方を見てガッツポーズを取っていたのが印象的だ。
……ふふふ。これは何か匂いますな。恋の香りが漂っているような。
どうやら地区対抗だけあって、相撲大会はかなり盛り上がっているようだ。
次の選手が土俵のそばに進んできたところで、不意に私のお腹が鳴る。「あ」と声が漏れた瞬間、今度は夏樹のお腹が鳴った。
互いに顔を見合わせ、
「何か食べるか」「うん。そだね」
と意見が一致。私たちは土俵から離れて屋台めぐりに向かった。
屋台で料理を作ったりしながら話し合っている男女。買い食いをしながらおしゃべりしている子供たち。
年配の人も思い思いに過ごしていて、なかなかいい夏の祭りだと思う。
◇◇◇◇
ドンッ。ドンッ。ドン、カツカッツ。ドドン、ド、ドン。
軽妙な太鼓の音に合わせて、みんなで輪になって踊る。数百年ぶりだけど踊り方はすぐに思い出せていた。
隣で踊る夏樹が微笑んでいる。きっと楽しいんだろう。もちろん、私も楽しい。
踊りの輪の反対側では、ちょうど香織ちゃんが家族と一緒に踊っていた。その隣には声援を送っていた秀雄君とその家族らしき人たちがいた。
きっと近所のお兄さんなんだろうね。
内側を向いたときの香織ちゃんの笑顔が、ニコニコしていて凄くうれしそうだった。
楽しかった夏祭りも終わりの時間がやってくる。
最後に恵海さんが挨拶をして、お開きとなった。けれど、お店をやっていた青年団や、まだまだ残って宴会をする人々もいるようだ。
もちろん私たちは帰るけれども、来年は私たちもお手伝いをすることになるだろう。
帰り際に、さあっと香織ちゃんがやって来た。
「旦那様。奥様。明後日からまたよろしくお願いします」
お盆休みもあと1日だから挨拶に来たのだろう。
「こちらこそ、よろしくね。……今日の
「あ、本当ですか」
うん。その浴衣、きっとお母さんが用意してくれたんだろうけど、よく似合っている。
夏樹が微笑みながら太鼓判を押す。
「ああ、似合っているとも」
「ありがとうございます。旦那様と奥様も、その。素敵です」
ふふふ。なかなか言うようになったじゃない。
「ありがとうね。さ、ご両親が待っているわよ」
「あ、はい。じゃあ、これで」
一礼をして去って行く香織ちゃん。お父さんとお母さんが私たちに向かってお辞儀をした。軽く頭を下げて返礼をする。
「さてと、じゃあ帰ろうか」
「そうだな。……ほれ」
夏樹が左腕を少し浮かせた。はいはい。わかってますよ。
私は右腕を絡め、わざと胸を押し当てた。
今晩はね。祭りの熱気に当てられたこともあって、お互いにごにょごにょするつもりなのです。
というわけでこの先は2人だけの時間。だから内緒。
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