第16話 昭和11年2月。夏樹、東京へ
ドサッという音で目を覚ました。
2月ということもあって、部屋の空気は寒いなんてものじゃない。おそらく先ほどの音は屋根から雪が落ちる音だろう。
俺に抱きついている春香が、急に頭をぐりぐりと動かした。乱れた髪が俺の首筋をくすぐってくる。
Fカップある彼女の胸は中学生の頃からバストアップ体操をしていた努力の成果だ。目的はもちろん俺に好かれるようにだったそうだが、きっと他の女子に視線が行かないようにという作戦もあったんだろうなって思ってる。
今日からしばらく東京に出るということもあって、昨日は特に甘えていたと思う。お互いに。
春香はよく「私もあなたを守りたい」って言っているけれど、俺にとってはこうして一緒にいること。傍にいて、そのぬくもりを感じることが喜びだし、そこに春香がいるという事実そのもの、その実在が俺を幸せな気持ちにさせてくれるんだ。
だいたい、この幸せを守りたいと思うのは当然だろう。結局、俺は常に彼女に守られているんだと思う。
そもそも霊水アムリタを俺が飲んだのは、かつて手を離して無くしてしまった春香と、再びやり直したいと思ったからだ。たとえその結果、人から神になったとしても。
もし再び巡り会えた彼女が俺を受け入れてくれなければ、この広い世界を俺は一人でさまよい歩くことになっただろう。果てしない孤独の旅に。
けれど彼女は俺を受け入れてくれた。同じようにアムリタを飲んで俺の眷属となることを望んでくれたんだ。
まだ夢の世界にいる春香。その額にそっと口づけをして、起こさないように気をつけながら俺は蒲団から抜け出た。
あれから2年が経ち、村での生活も3年目に入ろうとしている。
今日は昭和11年の2月23日。久しぶりに松本さんに会うために、これから東京に向かう列車に乗らなければならない。
一年で一番冷える
「あれぇ……。夏樹……。どこいった?」
背後から寝ぼけた声が聞こえてきた。いつもなんだけど、不思議と俺が蒲団から出るとわかるらしい。掛け布団からぴょこんと出した寝ぼけ顔が
……まあ、相手にベタ甘なのは俺も同じっていうことだな。
ともあれ、俺は朝ご飯を食べて済ませて清玄寺を出発。春香の見送りを受けて、黒磯駅から東北本線に乗った。
列車の中はそれなりの人が乗っているとはいえ、この時期はそれなりに冷える。春香の編んでくれたニットの帽子とマフラーが温かかった。
すっかり曇ってしまっている窓を手でぬぐう。流れていく外の景色。今年は50年に一度の大雪ともあって、林や畑には分厚い雪が積もっている。遠くに見える関東山地の山々も白く染まっていた。
あの夏祭りからの事を少し話そう。
昭和8年の秋に俺は春香と出かけ、村から20キロメートルほど東の山中に向かった。そこの山の一画に、火山性ガスが吹き出して岩場となっている場所があって、そこが目的地、世に殺生石と呼ばれているところだ。
実は江戸の昔からそこに、人々の伝承から生まれた土地神の九尾の狐がいるのだ。もちろん人の目には見えないけれども。
再会の挨拶をしたときに次の年は冷害となると聞き、戻った俺たちはすぐに松本さんを通して余剰分のお米を買い取り、古米として保管しておいた。
さすがは土地神。案の定、昭和9年は再び東北は冷害の年となり、かつてと同じく農家は食べるものに困り、娘の身売りが行われる年となってしまった。
畑作をして2年目に過ぎなかったが、幸いに俺たちの畑では冷夏にもかかわらず作物が例年通りに成長して想定通りの収穫をすることができた。……無意識下で何らかの力が働いているんだと思う。
それにたまに春香と2人で山に入って、鹿や猪を狩って
けれども松守村ではそうもいかず、俺たちは保管していた古米を清玄寺を通して放出した。それでも借金の申し込みがあり、結局、身売りする娘さんを4人も引き取ることとなってしまった。
今年で奉公期間が終わる香織ちゃんも入れて、今や合計5人である。
ただこれだけ人がいれば畑を広げることができる。そんなわけで全員で作物を植え付けた結果、ジャガイモやカボチャなどはかなりの収穫となった。食べる分以外は三井の物流網に流してしまったが、収支的にはややマイナスといったところかな。
たまに帳簿を見ながら、春香がパチパチとそろばんを弾いている。
女の子を引き取ったこともあって、また青年団での活動に参加するようになったためか、それなりに村にも融け込んで行けていると思う。
ともあれ、あの古米に随分と助けられたわけで、格安で流してくれた先輩にお礼を言うとともに東京の状況を見に行くのが、今回の東京行きの目的だ。予定では10日間ほどは東京にいることになると思う。
◇◇◇◇
上野駅に着いたのは、すでに夕方で暗くなっている時間だった。
地下の車寄せから外に出ると、街には雪が積もっていてまるで別世界のように見えた。
タクシーに乗り込んで、滞在予定の日本橋の
そのままチェックインを済ませて、その日は早めに休むことにした。そして、翌日、あらかじめ連絡していた時間に合わせて、三井本館に向かう。
かつての職場に入ると、たちまちにデジャブに襲われる。まだ警備員も受付も顔見知りの人たちだ。
簡単に挨拶を交わして松本先輩を呼び出してもらった。
再会した先輩は3年前より貫禄がついていたが、2人きりで話ができるようにと応接室に案内してくれた。
「どうだい? 久しぶりの職場は」
「懐かしいですね。……自家製のものですけどお土産にどうぞ」
俺は手作りの
「おう。こりゃまた
「自家製だから販売するほど量はないですからね」
「ははは。それがいいんじゃないか」
好みがあるかも知れないけれど、味は俺が保証しよう。
女性事務員が珈琲を出して部屋から出て行こうとする。その背中に先輩は、
「悪いが、次に声を掛けるまで、誰もこの部屋には入れないでくれ」
と言った。女性はわかりましたと返事をして一礼をしていく。
それを見届けて、俺はまず古米の件のお礼を言った。すると先輩は「いいって」といいながら灰皿をテーブルに出した。
ポケットから煙草を取り出して自ら一本取り、俺に向かって差し出そうとして、
「そういえば煙草はやらないんだったな」
「一本いただきますよ」
と言うと、ほれと言うように差し出される。一本いただいて互いに火を点け、煙をくゆらせた。
もちろん、普段は煙草なんてやらない。ただこういうお付き合いで吸うときが
「まあ、なんだ。やっぱり君がいなくなったのを惜しいと思ったな。正直に言うと」
「急にどうしたんです?」
「なにしろ君のお陰で、あの村はこのまえの凶作も大丈夫だったろ」
「ああ、まあ、そうですが……」
先輩はふぅぅと煙を出した。
「……夏樹君は不思議な奴だよ。まったく」
とつぶやいた。
そして、煙草をぐりぐりと灰皿に押しつけて火を消し、珈琲を一口飲んだ。俺もそれにならう。
「君がいなくなってから、かなり世の中は変わったよ」
そういって今、政府や軍部の中央がどうなっているのかを教えてくれた。
俺たちが松守村に行った昭和8年。
日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラーが首相になった。
例の犬養首相が射殺された五・一五事件の裁判が始まり、彼らの主張が報道された。
彼らは現在の社会は
農村の
冷静に見れば裁判を利用した戦術ともいえるが、この主張は人々の胸を打った。全国から嘆願書が続々と届いたらしい。
「しかしだ。クーデターの連鎖は終わらなかった。その年の7月に明治神宮で、11月で川越でそれぞれ露見している」
そこまで話した先輩は何かを思い出したようで、急に身を乗り出した。
「そういえば君は歩兵第一連隊だったな。……栗原という男を知っているか?」
「はい。連隊の旗手をされていました」
「そうか」
それっきり先輩はしばし黙り込んだ。
「先輩?」
「君は今の社会をどう思う? この非常時にあって国家改造をせねばならないと思うか?」
「……なるほど」
俺の経歴から思想に影響がないか疑っているのか。もちろん、そんなことはありえない。
「俺は彼らに同調するつもりもなければ、自ら物事を動かすつもりはないですよ」
まっすぐに目を見てそう言い返すと、先輩は苦笑して頭をががぁっと掻いた。
「それもそうか。あんな田舎に引っ込んだわけだしな」
そもそも俺がいた時には、そんな思想を持った人は誰もいなかったと思う。おそらく俺が除隊した後に何かあったんじゃないか。
「ただ、あの時」
「あの時?」
「ええ。一度、東条連隊長殿から幹部候補生の推薦があった場合、それを受けるかどうか尋ねられたことがあって、もしあれを受けていたら今ごろはどうなっていたことか」
「……そうか」
「まあ、家内から離れる期間が長くなるんで、きっぱり断りましたがね」
「はははは。そうか。夏樹君はそういう奴だったな。そういえば。……だがいいタイミングで除隊になったかもしれないね」
ただほとんどの人が、今の日本は行き詰まっていると考えている。そして、やれ政治機構を改造せねばならないとか、教育機構を改造しなければならない。あれを改造、これを改造と、改造説が巷にあふれかえっているのも事実だ。
その後、先輩が内緒の情報だと教えてくれたのは軍部の動きだった。
驚くべきことに、俺が除隊した次の年である昭和6年。3月と10月に陸軍内でクーデターの動きが早くもあったらしい。
当時の陸軍大臣
もともと天皇陛下のもとで政治は内閣が、軍事が軍部が取り仕切ってきた。
軍部にとっては軍事
さらに満州事変への対応が国内からは弱腰に見えたわけで、軍部内に政府への不満が高まっていたことは確かだろう。
この3月事件、10月事件は未遂に終わったが、それに農村の凶作や不況による失業者の増大が加わり、井上の血盟団、五・一五事件に発展したという。
その後、結局政権が交代し、荒木陸軍大臣が誕生した。荒木大臣は急進派に人望の厚い真崎大将を参謀次長にして要所を押さえ、逆に宇垣一派を中央から駆逐したらしい。
この急進派は
「あの年は、裁判所の判事まで
「ああ、そういえばそうでした」
「
「特高の……」
かなりひどい拷問だったと聞く。
「そうだ。だがあれから時を同じくして、今度は右翼側というか……。ほら、陸軍でパンフレットを出したろう」
「2年前ですね。国家総動員体制の奴で」
「そうそう。それだ」
荒木陸軍大臣が体調上の理由で退き、後継の林陸軍大臣となったが、その補佐として永田鉄山氏がなったんだ。
この林・永田コンビで出されたパンフレットで新聞にも掲載された。
かつては戦争は武力と武力の戦いとされていたけれど、このパンフレットでは武力だけでなく生産力や経済力などすべてを統制することが説かれていた。
確実に太平洋戦争につながる内容で危機感を覚えた記憶がある。
ただあれは……。
「批判も多かったがな。軍が政治介入することを公言したんだから」
「それでもクーデターよりは、まだパンフレットの方がいいですがね」
「ははは。それもそうだ」
松本先輩は立ち上がり、窓から外を眺めた。そのままの姿勢で、
「去年は天皇機関説の批判が起きた。もう30年以上前から主張して受け入れられてきていたのにな」
憲法学の見地から、
たしか憲法に規定されている天皇大権とは、天皇陛下の御一身の
あれは立憲政治の法律解釈からすれば、そのようにならざるを得ないだろう。でなければ、支配者が誰かという違いだけで、結局は前近代の封建社会に逆戻りしてしまう。
昨年2月の新聞で美濃部博士は一身上の弁明を掲載し、俺の目にはさして問題ないように見えた。
しかし、世間ではそうでないようで、あれから機関説への
ただあれから西欧思想に対する日本思想とか、日本精神という言葉が目に付くようになってきた。
「あの排撃運動は影響が大きいな。特に軍部では真崎教育総監が機関説排撃を全軍に指示をしたことが、どうもあちこちを刺激したようだ。噂では
「ああ、それで教育総監を罷免に……」
「だがそれを外で口にするなよ。危険だ」
「それはわかっています」
「永田軍務局長はそれが理由で殺されたからな。……どこにどんな目があるか分からないんだ」
あれから真崎派というか皇道派が怪文書をばらまいている。それは俺の手元にも届いた。統帥権干犯だというんだ。軍部の動きに不案内な俺には、何がどうなっているのか判断はできなかったが……。
「林・永田ラインに対する皇道派の反撃だろう。……いや、犯人は怪文書に踊らされた哀れな男と言えるかもしれないが」
「そうですか」
「その裁判がようやく始まったばかりだが、まだまだ怪文書が飛び回っているようだから、夏樹君も踊らされないように注意した方がいい」
「はい。……気をつけます」
俺たちが松守村で暮らしている間に、こんなにも色んな事件が起きていたのか……。
残念ながら新聞だけではわからないことも、報道されないことも多く、やはり田舎に住んでいると情報に
ただその分、春香の身の安全はしっかりと守れるだろうから後悔はない。
振り返った先輩がニィッと笑う。右手の親指を立てて、くいっと外を指す。
「じゃあ今晩は俺のおごりだ。銀座の鳴門にふぐを食べに行こうぜ」
「はい。ごちになります!」
こんな時代に高級料理かよって思うかもしれないけど、実はこの時代はまだ庶民の食べ物的な位置づけだったりする。
俺も先輩も、そんなランク付けより味優先だから関係ないけどね。この憂うつな気分を、酒で洗い流そうじゃないか。
◇◇◇◇
先日来、降り続いていた雪が止んでいた。けれど吹き抜ける風は妙に冷たい。
どういうわけか雪があると、たとえ東京であっても夜は静寂に包まれてしまう。
風の音すらも雪が吸収してしまっているかのようで、この静けさがどこか不気味だ。
今日は26日。
時計を確認すると、今は午前4時30分。
日の出はまだ先。暗闇が支配する時間。
今、俺は虎ノ門近くの路地に潜んでいる。
先ほどから遠くで騒然とした空気が伝わってきていた。……そう。俺の所属していた歩兵第一連隊の方角だ。
そのまま外堀通りの西側を見ていると、やがて小銃を持った部隊が行軍してきた。
俺には気がつかないままに彼らは2手に分かれ、1隊は首相官邸の方へ、1隊は六本木通りを宮城の方へと進んでいった。
多いな。総勢800名ほどだろうか。
「――始まったか」
銃声が聞こえだした。俺はそっと目を閉じる。
離れたところを見る能力、天眼で官邸を
警官との銃撃戦……、そして、中庭で一人の老人が撃たれた。けれど老人はまだ生きている。ずりながら壁により掛かるように正座をしている。
そこへ兵士たちが近づいていったが、一定距離からは近づかずに今は遠巻きに見ている。すぐに一人の将校が何かを命じると、命じられた兵卒が2発の銃弾を撃ち込んでトドメを刺した。
一団は老人の遺体を屋内に運んでいく。そして、壁に掛けられていた写真と照らし合わせ、身元を確認したのだろう。万歳をした後に乾杯をしていた。
天眼を切り、肉眼を開く。
――いよいよ暗黒時代が始まる。
不意に風にまぎれて粉雪がふりはじめた。哀しげに舞い散る。暗闇の東京に。
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