第14話 昭和8年、松守村での暮らしが始まる

 玄関を開けてくれたのは小柄な初老のご婦人だった。きっとこの人が奥さんの美子よしこさんだろう。

 私をひと目見て、

「まあ、たいへんっ。ちょっと待って!」

と言って、すぐに奥に走り込んでいってしまった。


 そんなに濡れてたかな?


 思わず自分の服を見下ろしてしまう。

 ――うん。確かに少しはブラウスも濡れてるけど、放っておけばすぐに乾く程度だから問題はないはず。

 雨のお寺ともあって誰か来ているような気配はなく。うっすらとほの暗いけれど、とても落ちついた空気が漂っていた。

 まもなく奥からドタドタドタと足音がして、ご婦人がタオルを持って帰ってきた。

「ほらほら。これで拭いて!」

 お礼を言って受け取りつつ、

「連絡していた春香です。……今、夏樹も来ますから」

「はい。美子です。いま住職も来ますけど、荷物下ろすの手伝いますよ」

「いえいえ。そんなに多くはないですから、大丈夫です」


 大型家具とかは処分したし本当に身の回りの物だけなんだよね。それにこんな雨の中だから運んでもらったら悪いよ。

 実はドラえもんのポケットのように空間収納の力もあるので、大切な物から食料やら、結構気軽に色んなものを突っ込んでいたりする。


 タオルで髪を抑え水気を取っていると、廊下の奥から「ようこそ」という声がした。顔を上げると恵海さんがこっちに向かってくるところだった。よっぽど私たちが来るのが待ち遠しかったのか、前にお会いしたときよりもうれしそうだ。


 けれど、私をひと目見て、

「む。こりゃ、いかん! わしは後で御挨拶しますので……」

といって、急にきびすを返してそそくさと奥に戻って行ってしまわれた。


 一体どうしたんだろう?


 疑問に思っていると、美子さんが笑いながら、

「そりゃあ、御仏使様。少しけてますから……」


 え?

 あわてて見下ろすと、白いブラウスだったせいか、確かにうっすらと下着が透けて見える、かもしれない。


 そこへ夏樹がやって来た。

「ほらよっと」

 手にした薄手のコートを私の肩に回してくれる。

「あ、ごめん」「……傘もささずに飛び出すから。まったく」

 呆れたように笑う夏樹に、何も言えなくなる。

「もしあれだったら、ちょっと着替えさせてもらえ。……俺は香織ちゃんを起こして、荷物もこっちに運んでくるから」

「うん」


 こうして私は近くのお部屋で着替えさせてもらうこととなった。終わって落ちついたところで皆で本堂に御挨拶をして、美子さんの案内で奥の応接間に通される。

「はい、どうぞ。少しお待ちになってくださいね」

と言われて入った応接間は8畳の和室で、中央には漆塗りのテーブルが置いてある。

 障子しょうじが開いている窓からは雨に包まれた村が見えた。


 下座しもざの方で3人で座っていると、しばらくしてから、

「失礼します」

と声がかかり、すっとふすまが開いて恵海さんが一礼をして入ってこられた。その後ろからは先ほどの美子さんが、早くもお盆にお茶を載せて待機している。


「はるばる、お越しいただきありがとうございます」

 恵海さんの挨拶に、夏樹がいやいやと手を振りながら、

「こちらこそ、今日からお世話になります。……事前にお伝えしたように、例の蔵をお借りしますので」

「あそこは口伝で御仏使様の建物だから触れぬようにと戒められております。鍵もありませんで、周りだけは掃除は欠かしませんでしたが、ちょいと中の状態はわかりかねますども、どうぞご自由にお使いください」

「ありがとうございます」


 話に出てきた蔵はね。奥の離れのそばにあるんだけれど、中にお宝とか書物があるってわけじゃないんだ。外見こそ蔵の形だけれど、中は私たちが住むための住居になっているんだ。

 ……ほら、長い旅でそれぞれ拠点にしたところを確保してあるから。その一つなんだよね。


 前に来たときも、当時の住職さんは中を知っているはずだけれど……。長い年月で失伝したか、えて言いのこさなかったのだろう。

 ぶっちゃけると、神力での封印を施してあるのでセキュリティは万全だし、中は時が止まったように当時の状態のままになっているはず。だから、改めて掃除の必要もほとんどないと思う。


 生活に必要な家具もそのままにしておいたけれど、さすがに江戸は元禄げんろくとか宝永ほうえいの頃のものだから、作りは古いだろう。衣類も当時のものを着ていると目立つだろうから、今風の物を持って来てある。


 それから少し村の近況をお話しいただいた。

 今年の3月3日に東北で大きな地震があって、三陸の沿岸部には悲惨な津波の被害が出ていた。松守村はそこから距離があるとはいえ少し心配していたけれど、それほどの被害も無かったらしく安心した。

 後は香織ちゃんのことかな。問題は。


 恵海さんから聞くところによると、前に清玄寺で引き受けた4人の娘さんは、借金の金額もそれほどでなかったため、すでに奉公期間を終えてそれぞれの実家に戻っているという。

 戻ってすぐに結婚した子も2人いるそうだから、ちょうど良い花嫁修行になったのかもしれない。


 話し合いの結果、香織ちゃんはお寺の方で寝泊まりをして、決められた時間に来てもらうことになった。

 なぜ今まで通りに一緒に住まないかって?

 蔵は狭いし、きちんと部屋が分かれているわけでもないんだ。……それにさすがに夜は夫婦2人きりにして欲しい。

 漆喰の壁で防音性に優れてはいるけれど、声は内に籠もっちゃうだろうし、色々とね、支障があると思うんだ。


 その日は雨が降っていることもあり、蔵ではなくお寺の離れに泊まらせてもらうことになった。

 お夕飯の準備のお手伝いをと思ったけれど、美子さんが香織ちゃんとやるので荷物の整理をしておいてくださいとのこと。それならということで、夏樹と恵海さんと3人で蔵を開けに行くことにした。


 傘を差して雨の中に出て、そのまま蔵のある奥の方へと向かう。

 お寺は本堂から廊下でつながって、大きな広間のある2階の建物、さらに住職さんの家族が暮らす庫裡くりの棟、そしてその奥に離れがある構造だ。

 こんなに田舎の寺院としては結構な大きさだと思う。


 蔵は建物群から少し離れたところにある。白い漆喰のいわゆるオーソドックスな蔵だ。湿気を避けるために石造りの基壇きだん部の上に建っている。ひさしが張り出しているので、入り口の石段を上がれば濡れる心配もない。


 夏樹から傘を預かって水気を切っている私の背後で、夏樹がカチャカチャと正面の鉄扉の鍵を開けている。

 こうして久方ぶりに、かつての住居を訪れることに少し胸が高鳴っている。こう。不思議とワクワクしているような。きっと恵海さんはそれ以上だとは思う。初めて蔵に入るんだから。


 ガタリと音が鳴った。夏樹は鍵を引き抜き、さらに取っ手をぐるりと回して重い扉を開いた。ギギィと音を立てて鉄扉が開くと、今度は目の前に木製の引き戸が現れる。


 うわぁ。懐かしい。


 この引き戸は玄関の扉代わりなんだけど、脇に「夏樹 春香」と書いた表札がある。

 ……っといけない、いけない。今は恵海さんがいるんだった。素知らぬ風を装わないといけない。


 入ってすぐの所は、土間ならぬ石床になっていて、江戸時代の長屋の部屋と同じように、壁際に水瓶みずがめと流し台とかまどが並ぶ調理スペースがある。

 その奥が玄関の上り口になっていて、その向こうが8畳の和室。一番奥には狭いけれどお風呂もある。

 和室にはハシゴがあって、そこから2階のロフトスペースに上がる寸法になっている。そこはかつて寝室にしていた。


 恵海さんは物珍しそうに見回しながら、中に入っていく夏樹の後をついて行った。私はその場に残ってお台所用品のチェックをする。


 水瓶、良し。洗い場、良し。調理道具も包丁、まな板、ざる、おろし金、鉄瓶てつびん鉄鍋てつなべ、フライパンと揃っている。状態もあの時のままだ。

 かまどの周りも変わりはない。端っこに置いてある特製氷室ひむろもちゃんと使えるようだ。


 この氷室はね。杉並で使っていたもの以上に見つかるとやばいんだ。なにしろ見た目は氷室だけど、これ神力駆動で普通の冷蔵庫機能を持たせているわけ。

 さすがに大きさは小型冷蔵庫のサイズだから、それほど多く入るわけじゃないけどね。


 そこまでチェックしてから、私もくつを脱いで上にあがる。

 先に行った2人は2階に行っているようだ。1階の一間も畳が傷んでいるでもなし、箪笥たんすも、その上の小さな引き出しのある小物入れも、窓際の机も、すべてがここを出たあの時のままだ。

 引き出しを開けると、昔着ていたかすりの着物や帯が入っていた。夏樹のものもある。


「……」


 このかんざしなんか見ていると、脳裏にここに住んでいた頃の思い出が蘇ってくる。

 あの頃は夏樹の頭もちょんまげになっていたし、私も頭を結っていたからなぁ。ふふふ。


 でも思い出にひたるのは後で二人きりの時にしよう。心を引かれるけれど、引き出しを閉めて奥のお風呂場を確認に向かう。そこも綺麗なまんま。念のため、晴れた日に全体をざっと掃除するつもりだけれど、さすがは神力封印といったところでしょう。


 2階から2人が降りてきた。

「本当に住居になっているとは……。驚きました」

 恵海さんがまだキョロキョロしながら言った。

「普通は書物や宝物を管理するための蔵なんでしょうけど、ここには何にも置いてないんですよ」

「ええ。しかも家具などもまだ使えそうなほど状態が良い。なるほど、これはすぐに住み込めるわけですな」

 多少は宝物に期待していたのかもしれないけれど、妙にすっきりした表情になっていた。


 いちおう寺の離れの方も住めるように用意してくれたあったみたいで、少し申しわけなかったけれど、蔵の状態も確認できたので当初の予定の通りにここで住むことにした。

 ただ離れはいつでも住めるように空けておいてくれるらしい。

 普段は使うこともないのでお気になさらずと笑った恵海さんに、二人ですみませんと頭を下げる。

 やっぱり住み慣れたところの方がいいしね。


 ――とまあ、こうして私たちの松守村での生活がスタートしたわけです。

 次の日にさっそく住職さんに連れられて村役場に行き、本籍移動の手続きをすると同時に、お寺の筆頭総代そうだいでもある村長さんや助役じょやくさんたちに挨拶をした。

 そのまま、3つある大きな地区の地区長さんや、村にある分校の校長さん、駐在さんと順番に挨拶を済ませたところで、恵海さんと分かれた。


 私たちはあと一箇所寄りたい所があった。そう。香織ちゃんの両親のところだ。


 今日は幸いに晴れたけれど、昨日までの雨で村道はグズグズのぬかるみになっている。

 普通はこうした挨拶回りって、それなりに服装に気を使うものだけれど、この地面じゃどうにもならない。

 それにおめかししていくのは逆効果の時もあるんだ。こういう村の場合は。村人との間に他所者よそもんという壁を作っちゃうから。


 そんなわけで、普通の木綿地もめんじの股引の上から着物を着て、素足で下駄を履いている。汚れることは気にしても仕方がない。


「こっちです」

 香織ちゃんの案内で、転ばないように注意しながら道を歩いて行く。麦の畑を迂回うかいして伸びている道の先に何件かの家があった。どの家も茅葺かやぶきの古そうな建物だった。


 ちょうど学校が終わって少しした時間帯のようで、家の前の通りで子供たちが集まっていた。

 これからどこかに遊びに行くのかな? 小学校低学年から下の子供たち。

 ……きっとそれより大きい子はお手伝いなのだろう。


「誰か来るぜ」「外の人?」「あの子だれ?」

 小さい声で話し合っているんだろうけど、私の神さま仕様の耳にははっきりと聞こえる。


 なかで一人の男の子が不思議そうな顔をして、「あれってひろしの姉ちゃんじゃねえ?」と言い出した。その声に、みんなが一斉に香織ちゃんを見る。


 香織ちゃんが手を振った。

「やっぱそうだ!」

 誰かが言い出して、一人の男の子が近くの家に走り込んでいった。


「近所の友だちです」

 その様子を見ながら、私たちに言う香織ちゃん。その横顔はどこかうれしそうだ。


 男の子が入っていった家から、数人の人が飛び出してきた。あの男の人と女の人は香織ちゃんのご両親だろう。

 こっちを見た男の人と女の人が動きを止めた。見定めるように香織ちゃんを見て、すぐに顔がほころんだ。


 私は夏樹の手をギュッと握る。すると夏樹はうなずいて、香織ちゃんの背中をポンと叩いて押し出した。

 振り向く香織ちゃんの目が「え?」と言いたげに私たちを見た。私は微笑んでうなずきかける。「行ってきなさい」


「はい」

と小さい声で返事をした香織ちゃんは、お父さんとお母さんのところへゆっくりと歩いて行く。少しずつスピードを上げながら。

 向こうのご両親も香織ちゃんのところに駆け寄っていき、がばっと親子で抱きしめあっている。


 そんな親子の再会を見ていたせいか、いつの間にか私は、夏樹の左腕に自分の腕をからめていた。ぎゅっと抱きしめて。


 ――やっぱりあの子の居場所はここなんだ。


 少しは親代わりをしてやれていたと思ったけれど。この光景。本当の親とは重ねた年月も違うし、私たちじゃ力不足だったなぁ……。


 子供か。


 正直、うらやましい。でもいつかは、私も夏樹の子供をこのお腹に宿すことができる。今はまだその時じゃないだけ。

 そうは分かっていても、この光景はうらやましい。


 でも、この村に来て良かった。そう思った。

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