第8話 昭和5年、夏樹、サラリーマン

「夏樹君。お昼に行かないか?」


 そう声を掛けてくれたのは、上司の松本さんだ。

 年は俺より5つ上の27歳。ブラウンのスーツを着こなしてなかなかやり手の人だ。


「あっ、お疲れさまです。……ええっと、俺は弁当があるので」

「愛妻弁当って奴か。かぁーっ、うらやましいね。……まあいいや。じゃあ、帰りにでも食事していこう」

「了解です」


 いやいや、松本さんだって結婚してるじゃないですか。お子さんだって、男の子と女の子が一人ずついる。


 それはともかく、除隊した俺は「善行証書」が評価され、三井物産で松本さんの下で正社員として働くことになった。こうして、たまに飲みに誘われたりしており、春香には悪いが、遅くならない範囲でご相伴にあずかっている。

 まだ交換台の時代で自宅に設置するにも許可がいるけれど、こういう時のために電話が無いと困るわけで、贅沢かもしれないけど自宅に電話を設置してある。



 もう10月に入ったが、昼間はまだ暖かいのでスーツのままで行くようだ。室内を見回すと、他にも外に食べに行く人たちがいるようだ。不景気が続いてうちの社も給与がさがったが、今のところはまだ、弁当組はそれほど多くないらしい。


 そう言えば、さっき時報のサイレンが鳴っていたな。時計を見ると12時を少し回っている。……俺も一旦切り上げて、お昼にするかな。


 机の上を片づけて、鞄から2段重ねの弁当箱と水筒を取り出した。

 ふたを開ける。1段目には俵型のおにぎり、2段目は卵焼きに肉団子、ゆで卵、ジャガイモにピーマン、ニンジンの素揚げが入っていた。その脇にはマヨネーズが添えられている。


 水筒からほうじ茶をコップに注ぎ、ひとり、両手を合わせ、

「いただきます」

と言ってから箸を取る。


 まずは卵焼きからだ。


 春香のお弁当は、その時代や地域に合わせてメニューが変わるけど、概して俺好みの味付けをしてあって安心して食べられる。

 やはり食は生活の基本だからな。おいしく食べられるに越したことはない。


 おいしくいただいてから、みんなが戻ってくる前に自宅に電話をして、帰りは遅くなると伝えておいた。


 さて三井物産だが、ここでは国内だけでなく海外との商取引がある。流通路を開拓して、海外との輸出入も活発だ。

 品目では鉄などの重工業品や機械から、生糸などの繊維、米・小麦粉・大豆などの食料品まで実に幅広い。

 アジアには中国関東州の大連、そして台湾に現地支社があり、そのほか、ニューヨーク、ヨーロッパ、オーストラリアなどにも支社を置き、かなり広く貿易の手を広げている。


 俺はまだ若く責任ある役職に就いているわけではないが、このまま勤務をすればいずれ海外出張や海外勤務も増えるに違いない。長期の時は春香も連れて行きたい。


 松本さんの担当はヨーロッパとアメリカ。したがって、俺も欧米支社とのやり取りや輸出入関係が多くなる。

 去年の世界恐慌で、今まで金本位で行われていた世界経済が崩壊し、各国では、他国の貿易品には関税を掛け、本国と植民地との流通を活発化させることで対応しているようだ。

 いわゆるブロック経済って奴だが、まだまだこの状況は続いていくと思われる。

 それに対応していかないと利益を上げられないばかりか、深刻なダメージを負うことになるだろう。


 事実、他の商社は世界恐慌の影響を受けて、軒並み業績を下げているのだ。


 とまあ、難しい話はここまでにしよう。コンピュータなどないこの時代。アナログの、それも数字を扱う仕事は集中しないといけない。


 午後の仕事が終わり、約束通りに松本さんと銀座に出た。肌寒い風が吹くようになった途端に、どこか秋の気配を感じてしまう。

 二人でのらりくらりと歩きながら、時折、立ち止まっては貼られているポスターを眺めたりした。


「見ろよ。ハーレーのポスターだ」

「ああ、今は舶来物が人気ですからねぇ。……いいなぁ。ハーレー。俺も欲しいな」

「なんだ、夏樹君はバイク乗れるのか?」

「ええ。いちおうは」


 自動車だって免許証持ちだから運転できる。駐車場があれば自動車通勤なんてのもいいかもしれない。アメリカのハドソン社になるが、エセックス・コーチとか、なかなかお洒落だと思う。

 いやそれともサイドカー付きのバイクもいいな。そういえばSunBeamのカタログに、モデル6、ロングストローク・コンビネーションっていうのがあったっけ。


 ……いいな。休日に2人でドライブとか。

 どこかのお嬢さまのように白のワンピースを着た春香を隣に乗せて。雨上がりの林間道路、木漏れがキラキラと輝く道路を走る。

 バイクのブロロロという音と振動。そして、通り過ぎていく爽やかな風。


 それって、すごく妄想が広がる。今度、ぜひ検討してみよう。いやするべきだ。

 もちろん、多分に俺の願望が込められているのは否定しない。


「じゃあ後ろに奥さんを乗っけてと。うらやましいね」

「松本さんだって結婚してるじゃないですか」

「そうはいうけどよ。最近はおばさん化してきたからなぁ」

「いやいや。まだ20代半ばでしたよね」

 そう突っ込むと、乾いた笑いを浮かべていた。「ま、子供もいるしな」


「しかしビールは各社とも、随分とポスターに力を入れてるな」

「たしかに。季節ごと、和装、洋装とバリエーションが多いですね」

「俺なんか、これ好きだな」


 松本さんが立ち止まったのは、まだ若い16~18歳くらいの美少女が、華やかな和服を着て日本酒の瓶を持っている絵だった。


「この眉に、はにかんだ笑顔が、こう、キュンとこないか?」

「それって日本酒造のじゃないですか。ビールのじゃない。……でも、確かにかわいいですね。笑顔も自然で、これはモデルもいいし、絵師もいいですね」

「だろ? もっと大人の女の絵もいいけど、やっぱこれくらいの少女のがいいな。鬼も十八、番茶も出花ってところか」

「それってめてないような……。花の16歳とかどうです?」

「おっ、夏樹君、上手いな。花の16歳いいね」


 仕事帰りの時間帯。

 銀座では道路の街灯がともり、カフェーのネオンが輝いている。通りには多くの人々が歩いていた。

 オールバックにロイドメガネの若い男性。それに髪を短く切り、洋装で颯爽と歩く女性たち。

 流行の最先端を行く、モダンボーイにモダンガールたちだ。こうした繁華街の雰囲気は、いつの時代も変わらない。


 俺たちの脇を助手席に女性を乗せたタクシーが走っていく。

 それを見送った松本さんが、

「銭タクか。……不景気だな」

とつぶやいた。

 どういう意味かっていえば、あの助手席の女性は客引きなんだよ。お客が乗ると、運転手から客引き代を貰って降りるという寸法になっている。不景気になると、色んなサービスが増えるもんだ。


「さてと松坂屋のレストランってのも男同士じゃ、ちょっとな。黒猫亭に小夜子って女給がいるらしいが……。君はカフェー・タイガーとかユニオンも駄目だったっけ?」

「はい。嫌いじゃないですけど、確実に家内にバレますしね」


 あそこはちょっとね。若い女給さんが体を寄せてきたりするからなぁ。それに一部過激なサービスの所もあるから要注意なんだよ。

 意気地なしと言うなら言ってもらってかまわない。だが、俺は入る気がしないというか。

 ユニオンなんて、今年、大阪から進出してきたところだけど。話に聞くだけでも、俺は苦手だ。

 そんなことより、春香に色んな格好してもらった方が……。春香もノリノリでやるだろうし、絶対に楽しいと思う。


「ははは。確かにあの奥さんは敏感そうだったね。それに君もどこか潔癖けっぺきなところがあるよ。……じゃあ、グリル銀座にしようか」

「はい」


 また二人で銀座を歩く。大震災でかなりの被害を受けた銀座だが、こうして歩いているとすでに復興を遂げたといっていいと思う。

 西洋建築の建物も多いが、中には「大新」のような町屋風というか和風の建築もあって、そういうところは平成の京都に近いかもしれない。


 グリル銀座は装飾のないあっさりした建物だが、正面上に「GRILL GINZA」とアルファベットの文字が、看板として壁から浮かして取り付けてある。その両サイドのポット照明が、入り口を照らしていた。


 中に入って席に案内をしてもらい、早速、料理の注文をした。俺はビーフシチューを、松本さんはカツレツだ。


 照明に照らされた店内は、まさに洋食屋さんといった風情で落ちついた雰囲気だった。他にも数組のお客さんがいて、お店の入りは5割といったところか。和服にエプロンの女給さんが動き回っている。


 さきにビールを持って来てもらって乾杯をすることにした。

「お疲れさま」「お疲れさまです」

 ぐいっとグラスに口をつけた。

「ふぅ」

 グラスを置いたあと、さっそく松本さんが本題に入ってきた。


「さて、もう仕事にはだいぶ慣れたようだね」

「ええ。お陰様で」

「それはよかった」

 そこで松本さんの雰囲気が変わった。


 真剣な眼差しになり、

「昨年の世界恐慌の影響はどこまで把握している?」

ときいてきた。俺はおしぼりで手を拭きながら、

「そうですね……。実際は恐慌前にすでに慢性的不況となっていたようですね」

「ああ」

「うちは、同業者との協調や地方市場への進出、外国間貿易の促進を次々に展開したようですが、結果的にそれが良い影響を与えているようですね。

 アメリカで絹業界が活況となれば、日本産だけでなく上海や広東の生糸を輸出する。……これって松本さんの主導でしょう?」


「ほお、そこまで把握していたか」

 松本さんは感心感心といいながら、

「……ただそれでも今度の恐慌は厳しそうだ」

と言う。

 それには俺も同意する。実際、海外からの報告を見ると、どんどん影響が広がって行くのがわかる。


「生糸の価格が下がって来ていますし、国内でも地方問屋が力をつけてきていて、中央市場での我々の影響力も弱体化しているようですね。

 海外も中国市場、南洋・インド方面も購買力が低下してきているようですし、アメリカの大規模市場も当面は落ち込むでしょう」


「俺も同意見だ。他社の知り合いに探りを入れたが、他社はかなり利益が落ち込んでいるみたいだ」

「そうですか……」

「三菱で、株式で集めた資本金に対して、利益率が19.5%から2.6%に大幅下降。日綿なんて、13.9%だったのが、今年上半期で一気に赤字148%を越えたとか」

「ちょ、ちょっと。どこからそんな数字を……」


 やばい、この人。そんな内部の数字をどうやって手に入れたんだ。


 少し戦慄せんりつを覚えながら、松本さんを見ると、

「まあ、色々とな」

と軽い調子で手をヒラヒラさせていた。


 さすがは若手のホープ。上層部でそういう情報が流れているのかもしれないが、かなり目と耳が広いようだ。

 ……まあ、上司でいる限りは安心していていいだろうけど。


「うちは、物価上昇を見込んでいた在庫を整理した。それと外国間の貿易を推進して、国内の赤字分を挽回する方針だ。

 まあ、もともと独占販売契約をしている取引先を、今度は売り手先ともしていくだろうし、幸いにうちの主要商品の機械なんかは政府に買い上げてもらっている。財閥だから、系列の会社も販売相手にできるし、そういう対策で、他社ほど利益率が低下しているわけじゃない」

「なるほど」


「あとは市場開拓として薄利多売をしていく必要があるかもしれない。不況を切り抜けた後でも、重要な流通路として機能させられるだろうし」

「地方販売網の構築、拡大ですね」

「その通り」


 そこへ料理が運ばれてきた。松本さんはグラスに残ったビールを飲み干して、

「お代わりを」

と注文した。

 どうする? と目できいてきたので、俺も注文することにした。すぐにビールを持って来てくれたが、すぐには口を付けずに話の続きをする。


「あ、そういえば気になってることが一つあります」

「なんだい?」

「今年はどうも全国的にお米が豊作になっているようです。値崩れしてるんじゃないかって思っているんですが」

「ああ。それは別の所からも話が出ていた。こないだ市場取引が停止したって話だから、農家にとっては大幅な収入源で打撃になってるそうだ」

「いくらか買い取って輸出とかは……」

「う~ん。内地米は米騒動の時から政府に統制されているからな。ただこの機会に販路を開拓するのはいいと思うが」


 どうやら松本さんはあまり乗り気じゃなさそうだ。

 それもそうか。今年は豊作だったからといって、来年もそうだとは限らないしな。安定した取引量が見込めないなら、むしろリスクが増えるだけか。


 そう思い直し、ビーフシチューを口に運んだ。

 やや酸味があるが、深い味わい。トマトだろうか。中の牛肉もほろほろと崩れるくらい柔らかい。

「……うまい」

 感慨深くそうつぶやいたら、松本さんもカツレツを一口食べて、

「こいつがビールに合うんだよ」

と言いながら、さっそくお代わりのビールをぐいっとあおっていた。


「まあ、これからもよろしく頼むよ」

「はい」


――――。

 ビールも入って盛り上がった食事も終わり、店の前で松本さんと別れる。


 銀座は相変わらずネオンが輝き、客待ちの円タクが並んでいる。露天が店を出していて、牛飯を食べている男性がいる。グランド銀座のネオン、アセチレンガスの街灯が、どことなく哀愁を漂わせているように見えた。

 


 不景気。恐慌。

 まだ流れはよく見えないけれど、時代は少しずつ悪い方向へと進んでいる。ジワジワと足元から何かがい上がってきている。……そんな気がした。


 街角でサラリーマンを捕まえようとしている女性。アヤカフ怪しげなカフェの女給だろうか、はたまた街娼か、それともキッスガールだろうか。

 明るく誘いかけている表情の奥に、焦りと諦めが透けて見えるような気がする。

 彼女らも生きていくのに必死なのだ。


 俺は深く息をついた。

 空を見上げると、ビルの照明の向こうに、細くなった月が輝いていた。


「――帰ろう。春香のもとに」

 なぜか無性に春香のぬくもりが恋しくなった。駅へ急ぐことにしよう。

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