第9話 閑話 昭和6年、富士登山
すぐに私たちの間では、どこか旅行にいこうという話で盛り上がる。
世間では熱海に新婚旅行というのがブームらしく、それにあやかるわけじゃないけど、伊豆や箱根あたりで温泉がいいと一度は決まりかけたんだよね。
けれど、いざ旅館の方に問い合わせてみると、昨年の11月下旬に伊豆と箱根を中心とする大きな地震があって、まだ温泉に入れる状態じゃないということだった。
残念と思ったけれど、被災地は大変だと思う。
それはともかく、じゃあどこにするかという話。時期的に海にはまだ早い。
房総半島を周遊するか、それとも鎌倉でお寺めぐりをするか、山梨、日光とか、いくつか候補地を挙げては、ああでもない、こうでもないと話し合う。
せっかくの旅行だもの。こうして話し合う時間そのものが、何だかとても楽しかった。
で、結局どこにしたかというと、行き先は富士山。
そう、富士登山だ。なぜかって? その理由は、タイムリープ前も含めて登ったことがなかったから。
富士山はかつては女人禁制の山だった。けれど明治になってそれが解禁され、今ではグループで登る女性たちもいるらしい。
ちょうど7月上旬に山開きを迎えたそうだし、懸念していた天候の方も梅雨が20日頃に明けたようだった。
今までに3000メートル級の山なら、シルクロードを行き来しているときにパミール高原を通ったり、アンデスの山々を通ったりした経験がある。
だけど日本人として、やっぱり富士山は一度は登ってみたいと思うでしょ? 富士山は日本人にとって特別な山なんじゃないかな。
そんなわけで7月30日のお昼前、東京から東海道線に乗り、列車に揺られながら西へ向かう。静岡県の三島を過ぎて沼津を通過すると、右側の窓には
天気は晴れ。夏の青空に白い入道雲が浮かび、その下を雪のない富士山が美しい
やがて列車は富士駅に到着した。今度は、富士
すでにここの区間は電化が済んでいるけれど、車窓から見える風景はのんびりした農村そのものだった。
7月下旬ともあって、青々とした稲が風に揺られている。田んぼが
駅の近くは現代風の商店や
開けた窓から
隣では、夏樹が疲れて眠っている。
私の肩にコテンと頭が寄りかかっているけれど、その重みがなんだか
すー、すーと、まるで赤子のような
ふふふ。かわいいよね。男の人の、こういう無防備なところ。
やがて大宮の駅に到着した。夏樹を起こして、いざホームに降り立ってみると、ぐんっと富士山に近づいてきたのがわかる。
改札を抜け、駅前のタクシーで今日のお宿へと向かった。
大宮には
自宅にいる時と一緒じゃんって思われるかもしれないけど、場所が違えばまた雰囲気が違う。その土地その土地の雰囲気や料理なんかを、二人きりで
……本当は子供がいれば、また違うのかもしれないけれど。神である私たちは、人の世の因果からは外れているので、特殊な方法でないと子供ができないのだ。
生まれる子供も神さまになるだろうし。少なくとも修行の旅が終わるまでは、ね。
小さな川沿いにある橋本旅館で一泊。明日は早朝のうちに車で途中まで送ってもらえるよう、お願いしておいた。
夏場で暑いから窓を開けると、川のせせらぎとともに、ミンミンゼミの鳴き声があちこちから聞こえてきた。
うだるような夏の暑さ。じんわりと汗が浮かんでくる。少しでも涼を求めて、2人して窓辺にへばりつく。
向かいの通りを虫取り
「なんか懐かしいな」
「お
「そうそう」
裏山のお寺さん。そこの住職が年配のお爺さんだったけれど、子供好きで、私たちは「お爺ちゃんお坊さん」って呼んでたんだ。
夏樹と一緒によく遊びに行ったもんだ、あのお寺。
カブトムシに、クワガタ、トカゲくらいなら私も平気だけど、さすがに2人してヘビに追いかけられたときは肝を冷やした。
ふと顔を上げると、夏樹がこっちを見ている。
「うん?」
「いや。あの時は焦ったなって」
しょっちゅう一緒にいたもんだから、同じ思い出ばかりなんだよね。……でもそれがいい。
その日は旅館でごろごろしながら、次の日のために早めに休むことにした。
◇◇2日目◇◇
夏の朝は早い。
昨日の内に手配しておいたとおり、早めの朝食のあとですぐに準備を調え、タクシーで途中まで送ってもらった。
馬なら五合目まで送ってもらえるそうだけれど、折角だから、なるべく自分たちの足で登りたい。
この地域だと
杉林の小道に、さっそく二人で入った。
ときおり鳥の鳴き声がするほかは、私たちが土を
歩き出して30分が経った頃に最初の
道ばたの
「ふぅ。……落ちつくな」
夏樹の視線を追って、私もまわりを見回した。
登山道の左右の林の中に、大小さまざまな溶岩石がゴロゴロと転がっていて、どれもみな
その一つ一つの石に、悠久の時を感じる。
人は変わりゆく、社会も時代も変化して……。けれども自然はいつまでも変わらないものなのかもしれない。
10分の休憩後、再び歩き始める。それを何度か繰り返したころ、ようやく1合目の休泊所が見えてきた。
横長の小屋の中にテーブルとイスが並んでいる。まさに峠のお茶屋といったところかな。
ただ、歩いているペースの関係上、違うタイミングで休憩を入れると余計に疲れてしまう。そのため、1合目はそのままスルーして2合目に向かうことにした。
そんなふうに途中で大休憩を
ここから先はゴツゴツとした岩はだの山道だ。
「し、しんどい……」
体力を普通の人より強化してあるとはいえ、
正直、今、一歩も動きたくない。
「ちょっと長めの休憩にしよう」
入営中の行軍で鍛えられたせいだろうか、夏樹も疲れてはいるようだけれど、まだまだ大丈夫そうだ。
「ねぇ。ウィダーとか、カロリーメイトとか持ってない?」
「ないない。そんなのこの時代にないから」
そう言って笑った夏樹だが、鞄をごそごそとまさぐって、
「
まあ、一緒に準備してたから、持ち物はわかっているけどね。
チョコレートクッキーとか甘納豆をちょくちょく口に入れてきたけれど、それでも疲労はやってくる。素直に夏樹から貰った
ああ、もう、このまま眠りたい。
夏樹が私を見て笑っている気がするけど、もう疲れたよ。
ふさっと
「ちょっと寝てもいいよ。ちゃんと起こすから」
「ごめん。お願い。眠い」
「はいはい。ちゃんと見張ってるから、安心して30分くらいお休み」
「あいしてるよー」
「はいはい」
夏樹が見張っててくれるなら安心だね。甘えさせてもらって、ちょっとだけ。おやすみなさい――。
しばらくして、夏樹に起こされて復活した私は、再び一緒に歩き出した。
見上げる
服の上からコートのように広げたゴザを巻く。
そして息を整えながら、歩幅を小さく。少しずつ少しずつ登る。林の中では峠のお茶屋さんみたいだった休泊所も、風を
6合目を過ぎた頃、急に
おまけに雨まで降ってきた。
夏樹が眉をひそめている。
「……雲の中だ。雷には要注意だな」
「え? これって雲の中なの? 霧じゃなくて」
「ああ。今は大丈夫そうだけど、危険を感じたらすぐに休憩しよう」
「うん」
風にあおられて、
ただ急に寒くなってきたようだ。
夏樹は時々、立ち止まっては耳を澄ませているようだ。その横顔が雨で濡れているけれど、山の男のようで妙に格好いい。
ニマッと笑みが浮かびかけるけど、下を向いて我慢する。時たま、こういう真剣な表情になると、ドキッとしてしまうんだよね。
幸いにも
きっと通り抜けたんだと思う。すぐに雲海が見えるってほどじゃないけど、ほっと安心しながら、また歩き出した。
時間はもう夕方の4時を回っている。
けれど、今日の目的地の8合目まではもうすぐだ。さすがに8合目まで来ると、かなり空気が薄くなってくる。けれど、これくらいならまだ大丈夫。
それでも最後は、夏樹に荷物を持ってもらって、ようやく休泊所に到着した。
石積みの休泊所で、中の男性に声をかけ、泊まる手続きをする。一人一泊2円なり。
泊まるとはいっても、個室があるわけでも、まして男女別の大部屋があるわけでもない。山小屋らしく、ごろ寝・
入り口のほか窓はなく、
それで気になる宿泊者だけど……、見事に女性は私一人でした。まあ、夏樹が一緒なので大丈夫でしょう。
肝心の食事だけれど、ここまで高地になると気圧の関係で沸点が低くなってしまい、まともな料理は難しくなる。
幸いに玄米のご飯と
終わってから、小屋の家主からお酒を買って二人で飲んだけれど、これがまた薄くって全然おいしくなかった。
色は、中国の黄酒のような色をしてるんだよ。それなのに薄くって驚いた。
なにしろ、二人で乾杯してクイッと飲んで、お互いに「ん?」という表情で顔を見合わせてしまったくらい。
二人して吹き出してしまって楽しかったから、それはそれでよかったけど。
せっかく手作りの
それはともかく、ご
◇◇3日目◇◇
体が揺すられている。
「春香。そろそろ起きろ」
ささやくような夏樹の声。ずっとずっと長い間、聞き続けているこの声。
ぼんやりとした意識のままで目を開くと、
「いい加減に起きろって」
これも空気が薄いせいだと思う。決して朝だから頭の働きがにぶいのではないと思う。……いえ、思いたい。
正直にいえば、ただ甘えたいだけだけどさ。
それはともあれ目を覚まして、小屋の家主からおにぎりをもらって朝ご飯にする。
時間は午前1時30分。他の人もだいたい起きてきていたけど、ご
準備を調えて小屋の外に出たけれど、外はまだまだ夜空が広がっていた。
けれど――、
「うわぁ、すごい」
ちょうど月齢は15。満月だ。
その
びゅおおぉぉぉと風が吹き抜けていく。
その音に
「きれいだな」
「うん。これはすごい」
ただうなずくしかできない。
うっとりと、目が、心が、この天地創造をも想像させる、雄大な景色に
やはり強い風が吹いているのだろう。雲海はゆっくりと動いていた。
月の作り出した幻想世界。
――美しい。
けれどもその景色に
他の宿泊客はすでに行ってしまった。そろそろ私たちも出発しないといけない。
着ゴザをもう一度確認して、私たちは登山道を踏み出した。
ここは8合目。
2呼吸で1歩。2呼吸で1歩という具合で、ゆっくりと歩を進める。夏樹も私とペースを
亀の歩みのようだけれど慎重に進むしかない。
念のためランプを持って来ていたけれど、幸いにしてこの明るい月明かりなら、ランプがなくてもよく見える。
満月、星空、そして、眼下には雲海が広がる、岩ばかりの登山道。
杖をつきながら、夏樹と一緒に登っている。それがとてもどこか非現実的で、不思議と
9合目を通過して、大きな岩を通り抜けると、もうあとは山頂までもうすぐだった。
先に登っていった人たちのランプが、すでにここから見える。
空気が薄くて、もうしゃべるのも
……もう少しだよ。
……うん。
うなずく私を見て、満足げに微笑む夏樹。その顔を見て、私もやる気が出てくる。
もう少し。あと、もうちょっと。
山頂はもう見えている。すぐそこが、――ゴールだ。
長い長い階段を登りきるように、最後の一段を上りきった途端、私は山頂の小高い広場にいた。
思わず夏樹と拳をコツンとぶつけ合う。
ニッシッシと笑みを浮かべれば、夏樹も満ち足りたような笑みを見せてくれた。
さて、火口のまわりをぐるっと一周するお
人が集まっている方向が日の出の方向だろう。夏樹と一緒に人だかりに合流し、見晴らしの良い場所を確保して座り込んだ。
私たちの後から登ってきた人たちも、少しずつこちらにやってくる。
どの人も登りきった充実感からか、安心したような笑顔になっていた。
それから、どれくらい待っただろうか。
空が少しずつ明るくなってきた。日の出の時間が近いのだろう。
座っていた私も立ち上がり夏樹に寄り添って、雲海の向こう、はるかな空の果てをじっと見守る。
紺色の空に、空の一角が黄色に明るくなっていく。
そっと夏樹が私の腰に手を回して抱き寄せてくれた。
次の瞬間、黄金に輝く太陽が顔をのぞかせた。
ずっと遠くに、輪郭をゆらゆらとさせて。
太陽をよぎる雲海がシルエットになっていた。
人々が歓声を挙げる。中には、真言だろうか、御経を唱えている人もいる。
強い光が、はるかな
ああ。なんて、なんて美しいんだろう。
自然の営み。
単なる日の出なのに、なぜもこんなにも
不思議な力が満ちてくる。それは神力にも似てどこか違うけれど、希望、そして、生きるという力を私たちに与えてくれるような気がした。
人々の歓声にまぎれ、そっと気づかれないように、夏樹のほっぺたにキスをした。
驚いてこっちを見る夏樹の気配を感じながら、私は
大丈夫。私の体は、夏樹ががっしりと受け止めて、支えてくれている。
ここまで二人で登ってきた。
同じようにこれからも私は、どこまでも夏樹とずっと生きていくんだ。
私たちは言葉もなく、少しずつ全身を現していく太陽を見つめていたのだった。
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