第7話 昭和5年、春香、夏樹からの手紙


 初めて夏樹のいない正月を迎え、季節はめぐり、再び6月になった。


 夏樹が入営して早や一年が過ぎ去り、もうすぐで半年が過ぎようとしている。

 とはいえ、最近は日曜日の度に外出の許可をいただけているらしく、以前ほど寂しいということはなくなっているのが素直にうれしい。


 階級は一つ上がって一等卒になったそうで、しかも教育がかり補佐を命じられたという。通常は上等卒が教育掛になるだけそうだが、さらにその補佐をするらしい。

 そのため、他の同期の人たちは特殊技術の習得のために外部に長期に詰めることもあったそうだけど、夏樹はそのまま連隊内にとどまっている。お陰様で外出の時に会えるので、良かったかなって思っている。

 馬の世話もしているといっていたけど、初年兵への教育もあって、相変わらず忙しい日々を過ごしているらしい。


 私の方は、夏樹から「頼むから外に働きに出ないでくれ」ということで、畑作業をしながら、たまにお出かけしたりするくらいだ。

 旅行はしない。せいぜい都心までお買い物に行く程度。だって女の一人旅なんて、この時代も案外危険なのだから。


 家で時間のあるときには、今まで集めてきた書物の整理をしたり、改めてじっくりと読んでみたり、創作として短歌を作ったりしている。

 いくらかノートに書きつづっているけど、あんまり上手じゃないのと恥ずかしいから披露ひろうはしないけどね。


 さてと、今日は銀座の資生堂パーラーに来ている。

 洋食屋さんなので服装も洋装で合わせ、白のブラウスにモスグリーンの細身のロングスカート。同系色のベストを着て、コーデュロイ生地のキャスケットは椅子の上に置いてある。スカーフを巻いて、ちょっとボーイッシュなスタイル。


 店内は中央が吹き抜けとなっていて、シャンデリアが掛けられ開放感がある。けれど、私はテラスになっている2階の席の、それも端っこにしてもらった。ディナーの時間帯は、オーケストラボックスで生演奏を聴けるそうだけど、今の時間はやっていないようだ。

 普段から混んでいるお店でも、昼食時を外したこの時間帯なら空いているようで、ゆったりと落ち着ける。


 ダージリンにビスケットを注文すると、ウェイターが離れていく。一人になったところで、そっと耳を澄ませば、談笑するご婦人の声、ウェイターの注文を受ける声、そして、微かに窓の外のにぎわいが聞こえてくる。

 太陽の光が、昼下がりの店内にやらわかく射し込んでいた。


 この光景だけ見ていると、昨年10月からの世界恐慌が遠い世界の出来事のように思える。けれど給与は削減され、家計が苦しくなっているところも多いらしい。


 銀座のお店らしいさざめきに身を浸し、その空気を味わっていると、お盆を持ったウェイターが戻って来た。

 白いレースのかかったテーブルに、紅茶の入ったティーポットを置いて上からカバーをかぶせる。その脇にちょこんと砂時計が置かれ、最後にビスケットの入ったお皿をそばにおいて、一礼して下がっていった。



 さらさらと落ちていく砂を見てゆったりと気持ちになりながら、かばんから先日届いた夏樹の手紙を取り出した。



――春香へ。


 もうそろそろ梅雨に入るころで、最近はちょっと雨が降ったと思ったら、晴れて蒸し暑くなったりと忙しい天気だな。

 そっちは変わりなく過ごしていることと思うが、今日は驚きのニュースがある。



 そこまで読んで、私は一人ほくそ笑む。

 ふふふ。一体なんだろうね。


 ワクワクしながら、続きの文面に視線を走らせた。



――前に話したと思うけど、青年訓練所を卒業した人には半年の兵役短縮っていう決まりがある。正確には、さらに中隊長殿の試験があるんだけど、それはまあいい。案外、この青訓を出ていない人もいたりするけど、それもまあいい。


 実はな。俺も半年短縮となった。

 思わず飛び上がって喜びそうになって、表情を抑え込むのが大変だったよ。




「――え? マジ? ほんと?」

 半年短縮の文字を見て、無意識のうちに独り言が漏れる。


 え、やだ。すごくうれしいんだけど。嘘じゃないよね。


 手紙を持つ手が少しずつ震えてくる。……本当、なんだ。本当なんだ、これ!



 喜びがジワジワと湧いてくる。自分でニンマリと笑みを浮かべているのがわかる。

「やっ」

 たーと叫びそうになって、ここが店内であることを思いだし、あわてて口を閉じた。


 周りをチラリと見ると、何人かが私の方を見上げていたけれど、目が合うとすぐに視線をそらされた。


 ははは。やっちゃったかな。――でも、うれしい。


 今すぐに立ち上がっておどりしたい衝動に駆られるけど、我慢して椅子に座り直す。気分が落ち着かない。


 帰ってくる。帰ってくるんだ。夏樹が!

 気がつくと、ちょっと目尻に涙がにじんでいた。そっと目を閉じて、周りに気づかれないようにハンカチで目尻を押さえた。


 微笑む夏樹の顔を思い出しながら、喜びをかみしめる。

「ふふふ」と含み笑いをしながら目を開けて気がついた。とっくに砂時計の砂が落ちきっている。

 でもそんなこと、今はかまわない。


 少し気分が落ちついてきたので、カバーを外して、ティーストレーナー茶こしを通して紅茶をカップに注ぐ。濃いめの紅茶が白磁のカップに映えている。

 立ち上るダージリンの、どこかマスカットにもプラムにも似た香りが立ち昇った。

 口を付けると、いつもよりも渋みが強かった。けれど、その渋みが美味しいと思う。


 カップを置いて、再び夏樹の手紙に目を落とした。1枚目をめくり、2枚目に目を通す。



――理由を聞くとなんとも世知辛せちがらいんだが、どうやら予算の関係で、青訓未終了者でも10人に1人くらいは除隊にせざるを得ないらしい。

 俺が選ばれたのは……、あの軍規に厳しい連隊長殿の手配とは思えないから、班長殿か、中隊長殿のお陰なのかもしれない。うちは、俺とお前の二人暮らし、お互いしか身寄りがいないからだと思う。


 それはそうと、除隊までは気を緩めずにいたいと思う。気を引き締め、引き継ぎもしっかりしないといけないしな。

 残念なのは、そうだな。今年の秋の銃剣術大会に出られそうにないことだが、まあそれは仕方がないだろう。

 除隊の後だけれど、町内会の人に除隊祈念の盃兵隊盃を配りたいと思う。その時は一緒に挨拶回りになるが、よろしく頼む。


 それじゃ、また詳細がわかったら連絡するよ。

 いざ除隊が決まると、早く会いたいっていう気持ちが心を占めているよ。

 愛してる。   夏樹。




「愛してる」の文字に、いつもながらニマニマとして、珍しく書き添えてあった追伸文に目をやった。



――追伸 帰ったら夏樹枕を見せてくれ。ついでに手のひらサイズの春香人形も作っておいてくれるとうれしい。では。



「……ゴホッ、ゴホッ」

 夏樹枕! 春香人形って。


 吹き出しちゃったじゃないの。

 無作法してちょっとこぼれちゃったので、口元をナフキンでぬぐう。


 う~ん。夏樹枕はとりあえず洗濯して隠しておくとして、私の人形か。どうしよう……。


 思わぬお願いに微妙な気持ちになりながら、カップに手を伸ばす。

 こりゃ、困ったぞ。


 急に照れくささと恥ずかしさがこみ上げてきて、なぜか額に汗がにじんできた。



◇◇◇◇

 とうとう6月30日になった。今日は夏樹が帰ってくる日。


 昨日の昼ごろに降り出した雨は夜に止んで、強い風に雲が払われて、昨夜は星々がきれいに輝いていた。

 夏樹が帰ってくるとなると、どうにも興奮しちゃって寝られなく、結局、電灯もつけずに縁側に座り込んで、ガラス戸越しに星空を見上げていた。

 朝方にうつらうつらとしてしまったけど、日の出とともに目が覚め、それからずっとそわそわしている。


 わざわざ迎えに来なくていいとのことだったので、家で帰りを待つと返事をしてあった。いざ当日になると、やっぱり迎えに行った方が良かったと後悔している。


 だって……。もう、落ち着かなくって、朝から玄関を出ては駅の方を眺めたり、また玄関に入ってちょっと腰を下ろし、またすぐに玄関を出たりしてる。廊下の窓だって何回も開けたり閉めたりしてしまい、今ではもういいやと開けっぱなしだ。


 自分でもおかしいと思うんだけど、どうにも止められないでいる。


 まだかな。もうすぐかな。


 また外に出ようと玄関を開けたところで、お隣の高木さんが門扉の向こうにいた。

「春香さん。ちょっとは落ちつきなさい。さっきから見ていればなんですか、行ったり来たり、行ったり来たりと」

と言いながら微笑んでいる。


 玄関先で面倒な人につかまってしまった。

 この人、40ぐらいの小柄な女性なんだけど、色んなことに細かくって。でも、今日は随分と雰囲気がやわらかいような気がする。


「はい。そうなんですけど。どうにも」

「まあ、気持ちはわかりますけどね。……あ、ほら。来ましたよ」

「本当ですか!」

 道路に飛び出した私に高木さんが何か言っている。

「ですから、落ちつきなさいって」とか何とか。


 駅の方に通じる道。

 その向こうから、カーキ色の軍服を着た夏樹がやってくる。

 お休みごとに帰ってきてはいたけれど、兵役を勤め上げた今、その顔はいつもより凜々りりしく、そしてたくましく見えた。


 まっすぐに私を見ているその視線に、胸がキュンと締めつけられる。

 少しずつ大きくなる夏樹の姿。やがて3メートルほど離れたところで、すっと立ち止まった。ほんの少し遠い、この距離が妙にもどかしい。


「夏樹一等卒、只今、帰りました」


 そう言って頭を下げる夏樹。私も深く頭を下げる。

「お帰りなさいませ。無事にお勤めを終えられ、誠におめでとうございます」


 頭を下げながら、すぐ横で高木のおばちゃんも頭を下げていることに気がついた。


 ゆっくりと頭を上げると、夏樹がいつもの雰囲気に戻っていた。

 二マッと笑って、

「ただいま。春香!」

と言う。反射的にパッと抱きついて、

「おかえり」

と言うと、すかさず後ろ頭をスパーンと叩かれた。高木さんだ。

「これ! はしたない!」


「すみません」と言いながら渋々しぶしぶ離れると、「そういうのは家に入ってからになさい」とありがたいご注意をいただく。


 夏樹が苦笑しながら、

「高木さんもありがとうございます。また留守中、春香がお世話になりました」

というと、おばちゃんは、なんでもないというように手を振って、

「いいえ。どうせ春香さんの添え物ですから、私は」

「どうもありがとうございます」


 ひしっと夏樹の手を握っている私をじっと見て、おばちゃんは珍しくいたずらっぽい表情になった。なんだろう?


「奥さんが、朝からずっと出たり入ったりしていましたから、こっちも落ち着かなくて、家の掃除なんてとてもとても。……さあさ、どうぞ家に入られて。私もこれでゆっくりと掃除ができます。挨拶はまた改めて回ればよろしいでしょう」


 あ、あああ、あ。

 それは言わないで欲しかった……。恥ずかしい。


 見上げると夏樹が苦笑していた。


「へえ……。そうだったんだ。ありがとうございます。今はお言葉に甘えさせていただきますね。……春香。中に入ろう。高木さん、また後日」

 夏樹に肩を押されるままに、私も一礼をしてから二人で玄関に入った。


 居間で、夏樹が軍服を脱いでいく。

 一つ一つ横で受け取りながら、丁寧に畳んでいく。硬く丈夫な生地。全体的に色あせていて、落とし切れていない汚れが何箇所もある。ボタンが取れた後で直したのだろうけど、前のボタンのほつれた糸がまだ残っていた。


 これを着て訓練していたんだ。こんなに重くて、動きにくそうな服。

 ひじのけているところなんて、ちゃんとわれていないじゃないの。


「――そこは、去年の特別大演習で引っかけたんだよ。いくら縫っても破れちゃってさ」


 私の見ているものがわかったのだろうか。夏樹がそう教えてくれた。


「11月14日から5日間。手紙にも書いたろ? 最終日に水戸練兵場で観兵式をやったやつ。……ほら、俺たち第一師団は南軍白川陸軍大将の指揮下でさ」


 うん。手紙でそんなことを書いていたけど、実は私にはさっぱりわからなかった。でも、この裂けた肘の所を見ると、過酷だったんだろうな。

 そう思いながら、そっと穴の縁を指でなぞる。


 すでに夏樹はズボン袴下も脱ぎさり、今は襦袢じゅばんのボタンを順番に外している。不意に思い出したように、

「ああ。そうそう。さすがに上等卒にはなれなかったけど、……善行証書ぜんこうしょうしょってのをもらったよ」

と言う。


 善行証書?


「ほら。一月の隊対抗競技で銃剣術は班内で一番だったし、使役のうまやでもさ、気難しい馬がいて、よく週番上等卒に頼りにされてたしね」


 ああ、なるほど。何となくわかる。

 どんな仕事でもお役目でも、経験の度合いが他の人とはまったく違うから。頼りにされたんだろう。


 夏樹は着替え終わると、部屋の中央でごろんと大の字になった。私はそのそばににじりよって、寝転んでいる夏樹の顔を上からのぞき込む。


「あ~、疲れた! マジでもう。今日は家でゴロゴロするぞ」


 その宣言をする夏樹が可愛らしい。そして、そんな夏樹あなたが大好きです。

 こうしているだけで、わけもなくニコニコと笑顔になってしまう。


 そばにいるってこと。夏樹がここにいるってこと。明日も、明後日あさっても、明明後日しあさっても、そのまた明日もずっと、ここにいるってこと。

 それがとてもうれしい。


 不意に、窓辺の風鈴が涼やかな音を響かせた。

 その音を聞きながら、私は夏樹の胸もとに潜り込む。


 ……今日は、私もゴロゴロしよう。夏樹と一緒に。


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