第6話 昭和4年、夏樹、8月20日
――この前、カレンダーを見てみたら、いつの間にか8月になろうとしていて驚きました。あなたが入営してからもう7ヶ月も経っているなんて。
今まで手紙には心配させるからって書かなかったけど、実は最初の頃は何も手につかなくって。夜も独り寝が怖くて、何回も戸締まりとか確認したりしていました。
でも今はそれも慣れてきています。……多分。
これは内緒だけど、実は夏樹枕を作ったので、毎晩、抱きついて寝ています。
畑の野菜も順調に育っています。お隣の高木のおばさんも何かあったら相談しなさいと、結構な頻度で
なんだか今年はひどい不景気なようで、大卒の学生さんも就職難になっていて、失業者も多いみたいです。おばちゃんが言うには、「大学は出たけれど」なんて言葉が流行してとか。
この前、酒屋さんに行ったときに、晋一郎君が急性胃炎となり休養室に入室になったと聞きました。夏場なので、なにか痛んだものを食べたのでしょうか。あちらの親御さんが心配しておりました。貴方は……、まあ大丈夫だと思いますが。
前に外出をいただいて帰ってきた時に聞いたけど、教練の方は順調でしょうか。銃の扱いにも慣れた夏樹のことですから、心配はいらないと思いますが、くれぐれもやり過ぎませんように。
暑い時期です。一段と訓練が厳しい時節とは思います。心配は無用とわかってはいても、くれぐれもお体を大事にされて下さい。また次の外出を心待ちにお待ち申し上げております。
いつも胸の内には貴方がいます。貴方も同じ気持ちでいることも。
ではまた。愛しています。 春香より
――――。
最後の言葉を読んで、思わず頬がゆるむ。
今は夜の点呼前の空いた時間。休憩や読書、自習の時間だ。
それにしても、春香。
「夏樹枕」って抱き枕だよな。なんてものを作ってんだ……。
でもまあ、それで安心して寝られるなら、それでもいいか?
作られた本人としては照れくさくて、ムズムズするが。
たしかに晋一郎君は急性胃腸炎になっていた。
でもそれは、晋一郎君だけじゃなくて、他に何人も胃腸炎になって、休養室送りになっていたんだ。
原因は多分、みんなで食べたまんじゅうだろう。きっと傷んでいたんだと思う。酒保で買ってから2日もたってから食べたから……。
もっとも、もう全員回復しているからなんてことはない。一人だけ何ともなかった俺は、「お前の胃袋は鉄でできてる」と言われたっけ。
「おい、夏樹」
突然、背後から声を掛けられて振り向くと後藤班長殿だった。
「はいっ」
あわてて立ち上がろうとするが、手で止められる。
「かしこまらんでいい。また奥さんから手紙か」
「はい。そうであります」
「まったくうらやましいな。前に中隊長殿がおっしゃっていたぞ」
中隊長殿が? 何か問題でもあったのだろうか。
「何とでありますか?」
「手紙やはがきには検閲をしているが、係からお前のはもう読みたくないとの訴えがあったそうだ」
「は、はい」
「何でも、見ていて胸やけがするらしい」
「……はい」
後藤班長殿の微妙な笑みに、何と答えたものか。返答に窮する。
その時、兵室のドアが開いて、一人の下士官が入ってきた。……なんと中隊長殿だ。
誰かがすかさず「敬礼っ」と言い、室内に居た全員が立ち上がって中隊長殿に敬礼をした。
「夏樹二等卒はいるか?」
あわてて中隊長殿に向かって、
「はいっ。自分であります」と返事をすると、
「よし。付いてこい」
と言う。
は? いきなり? 一体なんの用だろう。
一瞬、混乱したのは仕方がないと思う。班長殿だっていぶかしげな顔をしている。
しかし、そんなことはお構いなしに、中隊長殿が、班長殿に点呼には戻らせると伝えた。
状況がよくつかめない。同期のやつらも二年兵たちも、俺を注視している。何かした覚えもない。緊張しながら「行って参ります」と言い、俺は中隊長殿の後ろについて廊下に出た。
廊下に出ると、中隊長殿が、
「実はな。新しい連隊長殿が直接聞きたいことがあるそうだ」
「はいっ。……連隊長殿がですか?」
「そうだ。お前の履歴書を見てな。直接確認したいことがあるらしい」
そのまま中隊の兵舎を出て連隊本部に向かう。ちょうど日没した頃で、外は夕闇せまる優しげな色をしていた。
けれど昼間のひどい蒸し暑さは、風がないせいもあって、今もなお熱気が残っている。
新しい連隊長殿。
それは
同じ連隊とはいえ、俺みたいな兵卒には検閲の時くらいしか見かけるような機会はない。その連隊長殿が俺を指名だなんて、一体なんだろう。
中隊長殿と2人で本部の入り口に向かうと、そこで本部付き下士官が待機していた。
「夏樹二等卒か」
「はいっ。夏樹二等卒でありますっ」
「よろしい。では中隊長殿もご一緒にお願いします」
連隊本部なんて、まず入ることなどない。緊張しながら付いていくと、やがて一つの扉の前で下士官殿が居住まいを正してノックをした。
「失礼します! 夏樹二等卒を連れて参りました!」
「入れ」
「はっ。失礼します」
中隊長殿にうながされ、先に中に入ると、正面の机の向こうに東条連隊長殿がいた。中肉中背、丸眼鏡をして、見定めようとするかのように、俺をじっと見つめている。
「夏樹二等卒でありますっ。失礼しますっ」
敬礼をし、直立不動の姿勢となる。
「直れ。……履歴に外国から帰国とあったが、これは本当かね」
なんだ帰国前のことを知りたいのか。
「はい。本当であります。かつてイギリスに住んでおりましたが、ドイツに滞在の後、フランスのマルセイユより船便で帰国いたしました」
「ドイツには何の用で行ったのかね」
「はいっ。自分は考古学の学徒であり、バイエルンのバート・テイツに、アルベルト・グリュンヴェーデル博士を訪ねました」
博士が少し前に、中央アジアの発掘調査報告を本にまとめられたんだよね。トルファンやクチャのキジル石窟とか。仏教美術の遺跡として名高く、
案に違わず博士のところで、一緒に調査に同行したアルベルト・フォン・ル・コック氏にも話を伺ったが、ラピスラズリを原料とする青の彩色について、実に熱の入った説明を受けたものだった。
前室と後室の構造……、っといけない。今は連隊長殿の前じゃないか。
「ほう。バート・テイツに……。それで帰国した理由は?」
これはもしかしてスパイだと思われているのか?
丸眼鏡の向こうから、じっと俺の心を探るような目で見ている。表情がほとんど変わらないから意図がつかめない。
日本で戦争を経験するためなんて答えられないが。…………すまん。松本さん。名前を出させてもらう。
「イギリスに居りました際に、日本から留学しておりました年上の松本氏と出会い、意気投合し、日本に帰ることを決意しました」
「その松本というのは?」
「はい。三井物産の私の上司であります」
「そうか。一つ聞きたい。ドイツで彼の国、そして国民についてどう感じた?」
おや? この質問の意図はちょっとわからないな……。
「自分はグリュンヴェーデル博士が目当てでありましたが、概して生真面目な国民性を持ち、我ら日本人と近しいところがあると感じました」
「そうか」
「――ただ、ビールを飲むと途端に誰よりも陽気になります」
俺の返事を聞いた連隊長殿の口元がピクリと動いた。
ビールを飲んだ彼らはやばいんだよ。ものすごく陽気になって、いつだったか、みんなでテーブルの上にのぼって歌い出して、それを店員が怒っているのにお構いなしで、お店にいたずらしたりと、性格が一変してた。
「そうか。わかった。……もう一つ。もし中隊長が幹部候補生に推薦すると言った場合、これを受けるかね?」
「いいえ。辞退いたします」
即断だ。とんでもない。幹部候補生になどなっては、春香と離れる期間が長くなるじゃないか。
「その理由は?」
「自分には妻がおります。国内に身寄りがなく、今も一人、自宅で暮らしております。自分がいませんと、妻が困窮してしまいます」
次の瞬間、連隊長殿は本気で机を叩いた。バンッという大きな音が響く。
烈火のごとく怒り、大きな声で吠える。
「帝国軍人には尊い使命がある。貴様はそのことを理解しておらんのか!」
ものすごい気迫。ビリビリと、まるで声そのものに圧力があるかのように、身体が押されそうになる。
あわてて、
「はいっ。存じておりますっ」
と答え、まっすぐに連隊長殿の目を見つめた。今、目を離してはいけない。絶対に。
緊迫した空気。時間が長く感じる。
やがて、
「まあ、いい。わかった。……戻れ」
「はいっ。失礼いたしますっ」
俺は敬礼をし、中隊長殿に連れられて連隊長室を退去した。
本部棟を出たとき、思い切って中隊長殿に尋ねてみた。
「中隊長殿。少しよろしいでしょうか」
立ち止まった中隊長殿が後ろを振り向く。
「なんだ?」
「連隊長殿に叱られてしまいましたが、まずかったでしょうか」
すると中隊長殿は、ちょうど満月を迎えた空を見上げ、逆に尋ねてきた。
「昨日の飛行船は見たか?」
そう。昨日は8月19日。ドイツの飛行船ツェッペリン伯号がやってきた日だ。
演習中だった俺たちも、班長殿の指示で長めの休息となり、みんなが空を見上げて巨大な船体に大騒ぎをしていた。
第1次世界大戦で敗戦国となったドイツ。経済がどん底まで落ち込み、多額の負債もあっただろうけど、あの飛行船は復興を感じさせるものだった。
「連隊長殿はな。ドイツびいきなんだ。それでお前の経歴が気になったんだろう。心配はいらないと思うが、軍規にも細かく厳しい人だから注意しろ」
「はいっ。ありがとうございました」
「では、早く戻るぞ」
「はいっ」
再び中隊長殿の後ろを歩く。
月光に照らされた兵営は、まるで別世界のように見えた。
中隊の兵舎に入ると、なぜか無事にここに戻ってこれたという実感が湧いてきた。さして、たいした危険もなかったけれど、妙に安心する。俺もこの兵舎暮らしに染まってきているのだろう。
中隊長殿と分かれ兵室に戻ると、室中は微妙な雰囲気に包まれていた。
なにがあった?
そう戸惑いながら、帰還の報告をして同期の所に戻ろうとしたとき、戦友の鈴木鉄一殿に呼ばれた。
「はいっ」
と返事をしてそばに行くと、そのまま部屋の隅に連れて行かれる。
連隊長殿と何があったのかを尋ねられたので、会話をそのまま伝えると、「そうか」とだけ言い、何かを考えるような仕草をしている。
この人、無口だから、こういう仕草はいつもなんだけど。ついでなので兵室の雰囲気について尋ねてみた。
小さい声で説明をしてくれたところによると、俺がいない間に連隊長殿直々の厳命が伝えられたという。初年兵と軍服を交換させた者は元に戻すようにと。
……ああ。なるほど。確かに新品である俺たちの軍服と、交換させている二年兵の人がいたっけ。
昼間に俺たちの演習風景を、連隊長殿が視察していた。きっとその時に気がついたんじゃないだろうか。
鉄一殿が小さく笑った。
「俺には関係ないがな」
なるほど。兵室の雰囲気がいつもと違うのはそれが理由か。
俺の戦友殿はそんなことをしていないから平気なようだが、戻した方も戻された方もちょっと気まずいんだろう。
どうやら軍規に細かいというのは、その通りであるようだ。
◇◇◇◇
9月に入ると、突然、連隊長から一泊の外泊許可が出された。
班が、前半組と後半組に分かれて外泊となるが、それまで班長殿や教育係の上等卒から、外泊の際の注意事項を毎晩のように聞かされる。
普段の外出と共通することも多いが、特に帰営時間には絶対に遅れるな。電車内では上官と老人に席を譲ること。上官には欠礼をするなという三カ条は、本当に耳にたこができるくらい、しつこく言われた。
同期が言うには、自分らの初年兵の時は外出は許可されても、外泊許可が無かったから、やっかみもあるんじゃないかということだ。それを聞いて、なるほどと思ってしまう。
俺は後半組になってしまい、前半組の奴らが意気揚々と出て行くのを見送った。
人手が足りなくなった分、
後半組の番になって、俺もみんなと一緒に営門を出てまっすぐ家に向かった。
どこかウキウキした気分で、もっとも街中でも上官に出逢う度に、一々敬礼をしないといけないが、早く家に着かないかと電車に乗っていても妙に気が
ようやく自宅が見えてきた時、俺は知らずのうちに走り出していた。
玄関のドアを叩き、
「ただいま」
と大声を出すと、中からドタドタと足音がして、春香がガラッと玄関の戸を開けた。
「おかえり」
その声を聞いた途端、ばっと玄関に入って春香を抱きしめる。
春香のぬくもりを両腕で、胸で感じつつ、頭に顔を押しつけて髪の匂い、身体の匂いを吸い込む。
どこか気を張っていたのだろうけど、クスクスと含み笑いの声、春香の匂いをかぐと帰ってきたという実感が湧いてきて、ようやく肩の力が抜けた。
玄関に鍵を掛け、着替えてから居間に向かうと、すぐに春香がお茶を入れて持って来てくれた。
開口一番、
「この前ね。お客さんが来たんだよ。……誰だと思う?」
お客? この言いぶりからして松本さんじゃないな。酒屋の晋一郎君のお母さんでも、お隣さんでもなさそうだ。
心当たりがなく返答しかねていると、クスッと微笑んで、
「東条英機連隊長さん。驚いた?」
は? 連隊長殿?
俺の表情を見て春香がおかしそうに笑う。
「旦那さんが留守をしているご婦人の家には上がれないって言って、玄関先ですぐに帰っちゃったんだけどね。
なんか生活の様子を見に来たみたいよ。旦那さんは帝国陸軍の軍人として立派に勤めているから、貴女もしっかりと家を守りなさいとかなんとか。困ったときには社会局とか方面委員に相談するようにってさ」
「ふうん」
なんだろう。この前、身寄りがないと言ったからか? 春香のことを心配して来てくれたのか? たかが一兵卒なのに?
「あの東条英機だよね。私おどろいちゃった。……案外、部下の面倒見がいい人なのかもね」
そういう春香の顔を見てなるほどと思った。俺は詳しくは知らなかったが、案外そうなのかもしれない。
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