最終話、世界の終焉

 ――ここは東京湾海上。


 遙か雲の上から地上を不適な笑みで見つめる女性型ファウヌス。

 先程、水中から飛び出すついでに日本の新しい基地へ向け挨拶代わりの超音波を放てば、自身の分身ともいえるファウヌスがすぐさま現れると踏んでいたが、一向に現れないことに業を煮やしていた。


『仕方が無いわね、お前達――アレが発現しやすいようにあっちで暴れてきなさいな』


 不機嫌な口調を隠しもせずに誰も居ない上空で呟くと、巨大な人型の頭部に付いていた髪がゴッソリと抜け落ち、黒い影となって有明へと飛来していく。有明テニスの森周辺で発現したヒートヘイズはまるで意思を持っているかのように避難誘導に当たっている所轄の警察や自衛隊へと襲いかかった。その数千。


『これで様子見かしらね』


 ニヤリと唇を吊り上げると、上空から自分に向かって飛行してくるヒートヘイズを視認した。その時点まではリンドブルムの擬態を保っていたファウヌスはもう一体の前まで来ると全く同じ姿形のヒートヘイズに変化し対峙する形を取った。


『ふふっ、遅かったじゃ無いのファウヌス――あんまり遅いんでアタシの可愛い蛇達を遣いにだしちゃったわよ』


 女性型ファウヌスは自身の頭部を撫でる仕草をすると、いびつに髪が抜け落ちた箇所から次々と新しい蛇が生まれ始めた。


『ふんっ、貴様の事だから人間が苦しむ様を――待ちきれなかっただけだろうに』


『相変わらず失礼な男ね。それじゃ番いを得ることも出来ないわよ。なんならアタシがもらい手を捕まえて来ましょうか?』


『貴様の好みの番いなど御免被るわい』


『ふふっ、アナタはいつもそう。アタシの娯楽を邪魔する』


『当然だ。我等は1つで2つの存在なれどその血にはあのお方の血を頂いておるのだから』


『あらやだ……まだあんな人に嵌められた愚かな神の子を慕っているのね。人界から昇天する事すら叶わずにこの世界で土に還った情けないお子だというのに――』


『それでもあのお方の血はこの現世でも脈々と続いておるわ』


『あーそれが、アナタが発現した理由な訳ね。まぁアタシも似たようなものだけど。もっともアタシを発現させた子は長くは生きられないらしいけれど……それって残酷だと思わない? 同じ人としての生を受けたのに、人体実験とやらの影響で10年も生きられないのだから。その子の願いを知っているかしら? 自身をこんな身体にしてこの世に生み出した人間全てへの復讐よ。アタシの好みにピッタリだわ』


 嫌らしく微笑みながら女性型のファウヌスは饒舌に喋る。


『ふんっ、相変わらず良く動く口だ。だが――あのお方の血筋が雪以外にもおったとはな』


 ファウヌスは憤慨しながらも相手の一挙手一投足を見逃さないように、ジッと見つめる。


『あぁ、アナタを発現させた子ってアタシが刺し貫いたアレでしょ? トドメを差さないであげたんだからアタシに感謝しなさい。アナタだって久しぶりの現世を謳歌したいんでしょ?』


『ふんっ。言いたいことはそれだけか? ならば参る!』


 ファウヌスは自身の右手を引きちぎると、そこから飛び出した先の尖った骨をまるで槍でも扱うように女性型へと突き刺した。




「先輩、あそこって雲取山ですよね?」


 栗林大尉が見つめている方角にあるのは標高2000m級の山であった。

 燈に尋ねられ、栗林大尉は短く「そうね」と漏らす。


「にしてもあそこって行くのも不便、よくこんな冬にあんな辺鄙な所に陣取ったわね」


 燈が両腕で身体を抱きしめ嫌そうな面持ちを浮かべると、栗林大尉は――。


「でも入間基地を見下ろすなら絶好の位置だわ。それに普通の人ではあんな場所からヒートヘイズを操っているなんて気づけないもの」


 感心した風な様子で燈と会話を続けつつも、玄武の足下に隠れ雲取山を睨む。


「でもそれって自身の戦闘能力が劣っている者が取る方法ですよね?」


 小首を傾げながら燈が尋ねると、良く出来ましたとばかりに栗林大尉は燈に笑みを向けつつ、燈にとっても入間基地の隊員にとっても重要な命令を受けることになる。


「そう。だからねっ、燈さん――あなたひとっ走りペガサスであそこまで飛んで敵のパンを捕まえて来て頂戴」


 一瞬、何を言われたのか戸惑った燈だったが、初めて自分を頼ってくれた先輩の言葉に感動して思わず即答で答える。


「はい! 必ず敵のパンを引っ捕らえてきますね」


 それからの二人の行動は早かった。

 玄武は飛び上がったヒュドラの真下まで到着すると身体に巻き付けていた蛇を分離させ、鞭の様にしならせながらヒュドラの首を絡め取る。

 流石にそれに対しては反応が遅れ、地面へとたたきつけられたヒュドラを横目にアイコンタクトで燈がペガサスを発現し、一気に雲取山の方角へと羽ばたいた。


「任せたわよ。燈さん」


 栗林大尉は小さく呟くと、自身の持つ銃タイプの天羽々斬を腰のホルダーから抜き、ヒュドラの頭部目掛けて速射していく。ヒュドラの体勢は依然として崩れたままだ。1発、2発と2つの頭部に狙い違わず着弾すると呆気なく2つの頭部が消し飛んだ。

 だが、3発目は流石に嫌がって避けられ、4発目を撃つ頃には首に巻き付いた玄武の蛇の身体は食いちぎられ、元の体勢へと復帰されてしまう。


「あぁーん、あと2つは行けると思ったのに……」


 燈が消えた所で地をだした栗林大尉であったが、それを聞き止めた者は居ない。

 背後を見ると燈を乗せたペガサスは既に雲に隠れるように、遙か上空へと消えていた。

 これでヒュドラが燈を狙撃する事は出来ないはず。

 後は私がここを死守すれば、そう甘い考えが脳裏をよぎった時にヒュドラが予想外の反応に出た。

 これまでは数の暴力で9つの首からブレスを吐き出すだけだったヒュドラは、ブレスの通用しない玄武相手に力押しで攻め込んでくる。細い両腕では無く、太い両足でサッカーボールを蹴るように玄武の頭部を蹴り上げると、上体が浮いたその僅かな瞬間を狙い腹部へと7つの頭部から一斉にブレスを照射した。

 幸い栗林大尉は玄武の後ろ足の陰に隠れていて直撃は間逃れたが、その余熱で若干防熱効果がある制服は所々から破れ、その胸部があらわになる。


「きゃぁー! 嫁入り前なのに何てことするのよ!」


 全身に擦過傷を負いながらも、破れた胸元を両手で隠す。

 だが、それが更なる油断に繋がり――。追撃のブレスを受けて玄武は黒い煙となり消えてしまった。


「ま、まずい……」


 玄武が消滅するとヒュドラは大きく翼を広げ、勢いよく羽ばたいた。何も遮る物が無くなった栗林大尉に暴風の猛威が襲いかかる。

 風速50mを遙かに超えたと思われる暴風は栗林大尉の華奢な身体をいとも簡単に吹き飛ばす。栗林大尉は100m吹き飛んだ所で基地壁の残骸に背中から叩き付けられ、そこで意識を手放した。


 ヒュドラが飛び立ったのは、燈が向かった雲取山であった。



 一方、女性型ファウヌスが放った蛇のヒートヘイズは、有明から内側、2018年に築地から移転した豊洲市場の方向へと進軍を開始していた。

 逃げ遅れた警官が狙いを定め、銃を放つが全く効果は無く、恐怖におびえながら漆黒の蛇の口に収まっていく。警官だけでなくボランティアで避難誘導に参加していた自治体の者達も同様、皆恐怖に戦きながらその生を散らす。


 逃げ遅れた少女に蛇の一体が飛びかかった時に奇跡は起きた。

 足下を濡らし、足腰が立たなくなった少女の頭上に蛇が迫った時に、1本の矢が飛来する。

 それは狙い違わず直径30cmはあろうかという頭部へ直撃すると、あっという間にその姿を霧散させた。

 カジュアルショートの髪をたなびかせ、両手には弓と矢を持った水楢が少女に駆け寄る。


「私達が来たからにはもう大丈夫よ! 早くここから200m下がった地下道へ逃げ込みなさい」


 恐怖から瞑っていた瞳を開くと、少女の目の前には優しく微笑んでいる美少女が、そしてその美少女の背後には両手に漆黒の短剣を携えた柔らかい感じのボブカットの少女が周囲にせわしなく視線を向けながら立っていた。

 少女はコクリと頷くと「有り難うございます」と小さな声でお礼を言い、背後の地下連絡通路目指して掛けだした。少女が連絡通路へと飛び込む寸前、地下の階段からは肩を女性に抱えられた高校生らしい男子と、綺麗なロングの髪の女性とすれ違う。


「この先は危険ですよ」


 少女は自身が助かり安堵した為か、注意を促すが――。


「ああ! 分かってる。僕達はそれを退治しに来たんだ」


「貴女は早くお逃げなさい」


 女性に肩を預けた状態で言われても説得力に欠けるが、若干引きつり気味の笑顔で語る青年と誇らしげに逃げろと言ってくれる女性の言葉を信じて頷くと階段へと駆け下り消えていった。


「あはは、僕達はそれを退治しに来たんだ……か。その体調でそれを言えるようになったか。成長したな久流彌」


「茶化さないで下さいよ。学園長。本音を言えば僕だって逃げたい気分なんですから」


 空いた左手で頬を掻きつつ雪が答える。

 そもそもファウヌスが飛び出していった時には、そのまま地下シェルターに避難する予定だった。だがその直ぐ後に水楢と珠恵のスマホに保土ケ谷の本部から、有明に緊急出動が掛ったのだ。本部は流石に有明にまでパンを回せる余裕が無く、仕方なく戦力になりそうな2人に出動をかけた様であったが、情報で千を超えるヒートヘイズの集団と聞かされていた雪達は最早無理ゲー詰んだ状態と半ば諦め気味だった。

 ここで姿を眩ましたとしても誰も責めはしないだろう。

 だが正義感の強い女性2人は違う。

 その先が死地だとしても、その場に逃げ遅れた一般人が居ることを確認すると即座に本部の命令に従った。本部からの情報では那珂の島で一緒に学んだ学園の生徒達も貸し切りバスで有明に向かっているという。

 それなら尚更後には引けない。

 病院の地下エレベーターの前で悲痛そうな面持ちを浮かべ、雪に別れを告げた2人を雪としては放っておけなかった。

 2人が駆けだした後を、真樺の肩を借りる形で追ったのだ。

 豊洲の地下連絡通路の階段を上がった雪は目の前に広がる光景に絶句した。


「ははっ、これは――那珂の島の再来どころでは無いな。だが、ランクが低いのが救いか」


 真樺の言うとおり、雪の目の前には有明までの道路を埋め尽くす黒い波が押し寄せていた。

 その先頭が、先程水楢が始末したヒートヘイズであった。

 先頭との交戦は既に始まっている。

 水楢が背負ったやなぐいの中の矢の減りが早い。

 矢を射ってはすぐさま構え、矢を引き絞り放つを既に何度もくりかえしている。

 流石は元弓道部のエースだけあって狙いは正確だ。

 狭い蛇の眉間に的確に突き刺さる。

 目の前で霧散していく体長5mほどの蛇は次々に消滅するが、後から次々と湧きだすように現れる。

 水楢の正確な射的を横目に、珠恵も小柄な体格で縦横無尽に駆け回り蛇の目に短剣を正確に投げては仕留めていく。

 まだ戦闘は始まったばかりだというのに、2人は息苦しそうだ。

 立ち止まってはいられないと、一歩一歩足を踏み出し2人の元へ到着すると――。


「雪君、何で――」

「雪、死んじゃうよ?」


 まさか2人の後を雪が追ってきたとは思っても無く、驚き悲痛な声を漏らす。


「何でって――僕だけ逃げる訳にはいかないだろうよ」


「ふふっ。だそうだ。2人とも少し休んで息を整えろ。ここは私と――久流彌で食い止める」


 格好いい台詞の筈が、赤面して照れ隠しがバレバレな雪だったが、兎に角伝えたいことは喋ったと雪は胸を張る。

 そんな雪を愉快そうに見つめると真樺が続いて言葉に出す。2人にウインクしながら雪を指差し、次に腰に差してある細剣を鞘から引き抜いた。

 水楢と珠恵も到着して数分だが連続して相手取っていたことで息が上がっていることの自覚はある。肩を上下させながら「わかった」「お願い」と告げると3歩後退して車止めのブロックに腰掛ける。

 それでも水楢も珠恵も完全に気を抜いた訳では無く、何時でも対処出来るように真樺と雪の動向を見つめていた。


「久流彌、1人で立てるのか?」


 ここまでは雪に付き合う形でついて来たが、ここからはそんな余裕は無くなる。

真樺は雪を下がらせようとして声を掛けたが、それに対し雪は――。


「ここまで来て下がったら惨めじゃないですか。最後まで付き合いますよ。だから学園長も付き合って下さいね」


 言ってやったという風な面持ちで真樺へと微笑むと、面白い物を聞いたといった感じで真樺も言い返す。


「いや、流石に久流彌は私のタイプじゃないんでな――お前とはつきあえんぞ」


 それに驚き赤面したのは雪だった。

 そんな返し方があったなんて――というか振られているし。

 きょどり気味に雪の視線が泳ぐと、悪戯が成功したとばかりに真樺が大笑いする。


「あはははははは、久流彌――いや、貴様――私を笑い死にさせるきか! だが、お陰で身体から力が抜けた。感謝するぞ」


 ひとしきり瞼に涙をためながら大笑いした真樺は次の瞬間には自身へと襲いかかったヒートヘイズの頭部を細剣で貫いていた。その突きは雪には全く見えない。

 これまで真樺に鍛えられた事はあっても、本気の真樺の戦いは見たことが無かったのだからそれもありなん。この時、初めて那珂の島学園の初代学園長の剣技を見た。


「すげー。剣先が全く見えない」


「久流彌に見られるようでは神速のレイピアの名が廃る。当然だろう?」


 誇らしげに細剣を翳す真樺に、雪は眩しいモノを見たとでもいうように瞳を細める。


「僕も負けてはいられませんね」


 真樺に続くぞというように雪も背中に背負った剣を大上段に構える。

 見た感じは素人の構えそのものだが、それでいい。

 雪の場合は素早さも並、運動能力は平凡、だが動体視力だけは並外れたものを持っている。

 それがまさか格闘ゲームで培ったものとは恥ずかしくて口には出せないが。

 蛇の動きをスローモーションでも見るような視覚で捕らえ、後の先を取るような形で剣の重みに加速度を加え一気に振り下ろす。

 「ザンッ――スパッ」と切れ味の良い包丁で肉を切り裂くように蛇を両断すると、瞬く間にそれは霧散していった。


「ほう、それは後の先か……器用な戦い方をする様になったな」


 横目で雪の戦闘を観察していた真樺から感心したように声をかけられる。


「はいっ。富士演習場に移動してからも例のメニューは欠かさずこなしましたから」


 例のメニューというのはランニングと基礎体力のトレーニングだが、真樺はそれには触れずに「これも学園長の教えのたまものです」と言いたげな雪に華を持たせ口を噤み、微笑みで返す。


 それからも似たような戦闘を数分行うが、真樺は技の切れは衰えることは無かったが、雪の方の動きが鈍くなり出す。腹部に視線を向ければ微かに傷口が開きかけているような赤い筋が見受けられた。


「久流彌は一旦後ろへ下がれ――なに、お前が休む時間くらいは私が稼いで見せるさ」


 真樺から下がれといわれ、口を開き掛けた雪だったが、さすがに自身の体調を考えられないほど愚かでは無い。


「直ぐ戻ります」


 短く一言だけ告げると、雪も水楢と珠恵が腰掛ける隣に歩み寄り腰を下ろした。


「雪、血」


「あっ、本当! 大丈夫なの? 無理しないで戻ってもいいのよ?」


 2人に気遣われ苦笑いを浮かべた雪だったが、軽く傷跡を掌でさすると、


「まだ大丈夫だって。本気の僕を見せるのはこれからだしな」


 中二病にありがちな台詞を吐くと、呆気にとられた様子で2人は笑い出した。


「くすくす、雪、格好いい」


「うふふっ、雪君もなかなかイケメンになったじゃない」


 2人に褒められ今日3度目の赤面を体験する雪だったが、戦闘は本当にまだ始まったばかり。水楢と珠恵が20~30倒し、雪と真樺で50弱は倒した。となれば概算で残り900以上は蛇がいる。


「さてもう一丁やってきますか」


「うん、蛇退治」


 十分休んだとばかりに水楢と珠恵が立ち上がり、真樺が戦っている前方へと駆けていく。

 雪は皆で1つの事をするのっていいものだなと、場違いな感想を口走っていた。




「はぁ、はぁ、やっと頂上付近まで来たわね。待ってなさい! お姉さんが懲らしめてやる!」


 ヒュドラを操っているのが少年、少女だと事前情報で知らされている燈は雲の中から急降下すると全身ずぶ濡れの状態に身震いしながらこの事態を招いた原因の子供達に呪詛を含んだ言葉を吐き出す。


「見つけた!」


 栗林大尉が話していた通り、山の展望台で暢気に腰掛け望遠鏡を覗きこんでいる少年がいた。

 後、50mと接近した時に高熱を伴ったブレスが燈の上空から吐き出された。

 ずぶ濡れの制服が一瞬で乾燥する錯覚を覚える程の熱の本流から直撃は免れる。

 奇跡的に反れたブレスはそのまま山の稜線を焼き尽くすように通り過ぎた。


「ひゃっ――焦ったわ。先輩が足止めしてくれたんじゃ無いの!」


 尚も、燈を追撃するため、次砲の貯めを口腔内に視認した燈は足止め役を買ってくれた栗林大尉の身を案じるが、直ぐにその考えを脳裏の脇に置く。

 今は自分の事だけで精一杯。

 次にブレスを吐かれた時に、避けきれる保証など何処にも無いのだ。

 苦肉の策として燈が選んだのは、敵のパンである少年と自分をヒュドラの斜線上に乗せること。

 急げ、急げ、ペガサスの翼を小さく畳むと落下速度が更に速まる。

 胃が口から出そうな位激しい重力をその身に感じ、意識が途切れかけた瞬間――。


「届いた! 狙い通り!」


 ヒュドラのブレスの斜線上には燈と少年の姿がある。

 これでヒュドラはブレスを放てなくなった。

 勝ちを意識した燈だったが、用心に用心を重ねながら慎重に少年の背後3mに着地しボウガンタイプの天羽々斬を構えた。


「ようやく捕まえたわよ! 大人しく私に捕まって頂戴!」


 燈が敵の様子を窺うように隙無く声を掛けると、


「お姉さん、それずるいよ。ヒュドラがブレス撃てないじゃん!」


 僕、何も悪い事していませんといった悪びれない面持ちで、少年が振り返る。

 少年の髪は北の大国ではありがちな綺麗な金髪で、肌の色は白かった。

 燈は以前、牧田が行った電波ジャックの放送でこの少年を見ている。

 この子は悪戯がばれた少年を装っているが、牧田の仲間だ。

 調子外れな言動をする少年に燈は逆に一段警戒心を引き上げた。


「嫌だなぁ~そんな怖い顔しないでよ。じゃこうしようよ。ヒュドラはもう消すから。それなら信じてくれるでしょ?」


 少年はわざと燈に見えるように自身の背後にヒュドラを配置すると腕を高々と上空へあげ次の瞬間にヒュドラは霧散して消えた。

 流石に一番戦闘力が高いヒュドラが姿を消せば、燈も緊張感が薄れる。

 少年は「ねっ」と短く言いながら両手を後頭部で組んだ状態で一歩、また一歩燈に近づく。

 残り、2mといった所で何も遮る物がない地面で少年が躓いた。


「ちょ、だいじょ――」


 燈が咄嗟に手を差し出そうと一歩踏み出した所で、少年の口元が笑う。そして小声で呟く。


「ダスビダーニャ」


 博識で無い燈でも海外の映画は休日にネットで視聴する。

 ダスビダーニャは北の大国の言葉で――さようならだ。

 咄嗟に手を差し出したものの、燈は護身の為にヒートヘイズを発現した。

 即座に実態化が完了し、燈をガードする様に少年との間に割り込む。

 次の瞬間――少年の足下、陰から鋭利で先の尖った物質が発射されるが、危機一髪の所で燈が発現させたワームが開けた大口に吸い込まれ消えていった。


「っ――」


 ワームは少年のヒートヘイズを呑み込んだ勢いそのままに、少年の腕へと齧り付く。


 苦悶の声を漏らしながらも燈を睨むが、その時、既に燈は少年の背後に回り込んでいた。


「やってくれるわね! でもこれで私の勝ちよ!」


 少年の上半身には新たに燈が発現した蛇が巻き付き、完全に拘束した。

 意識を手放した少年の身体がくの字に折れ曲がる。


「あら少し強く閉め過ぎちゃったかしら? でもこれ位はいいわよねっ」


 少年をペガサスの背に無造作に乗せると「それにしても先輩大丈夫だったのかしら……」と1人呟き大空へと飛び立った。



 ファウヌスの右手があった場所から突き出した骨の刃は女性型ファウヌスの心臓部を貫いた様に見えた。だがあと数センチといった所で突然正面から消えると、ファウヌスの左斜め背後へと転移していた。


『あらアナタ、ご挨拶じゃないの。分身のアタシをまさか本気で殺そうとするなんて』


 心底驚いたとでも言いたげな口調で、下唇をペロリと舐める。


『ふん。お前にはその手があったのだったな』


 不機嫌そうにファウヌスが吐き捨てると、心底愉快そうに敵が笑い出す。


『くつくつ……アナタにはそんな能力は備わっていないものね。アナタが使えるのは単独での変化のみなのだから。アナタがあっちの世界に残していってくれたからアタシは残りの全ての能力が使えるの。ねぇ、分かるでしょ。ア・ナ・タ』


 お前に勝ち目など最初から無いとばかりにファウヌスを挑発する。


『だから何だと言うのだ。そもそもお前は神達によって監禁されていた筈では――』


『うふっ、うふふふっ。アナタだって知っている筈よ。善の神と悪の神の比率はあの方のお子が磔にされた、あの時から勢力は大きく変わったのよ』


『だが実際に磔にされたのはパペットでは無いか。神の子に実害は無かろうが――』


『ちっ、ちっ、ちっ。分かってないわね。そんな事はどうでも良いの。問題は――愚かな人間の分際で神の子を殺害しようとした。それだけで万死に値するわ』


 巨大な腕を目一杯広げ、まるでシェークスピアの劇の様に大げさに振る舞う。


『だがあのお方はそんな事は望んではおらんぞ』


 尚も説得を試みるファウヌスに不敵に笑いかけながら、真実を告げる。


『あのお方なんてもう関係無いのよアナタ。今の最高神が望む事が全てなんだもの』


『あの殺戮と悲劇を好む神か――我はあれを主とは認めん』


『あら、そんな事を言っていいのかしら? あっちに戻った時に監禁されるのはアナタの方なのに――生まれ育った時のように冷たい牢獄で成長する惨めな一生なんてアタシは御免被るわ』


 最後の言葉を喋り終えた所で、背後から敵の気配が消え去る。

 次にアレが現れたのは、遙か彼方。

 星々が煌めく高度500km上空だった。


『もう無駄話は飽きたわ。この星と共に消えなさい――スーパーノヴァ』


 激しいエネルギーが地球へと放たれる。咄嗟にファウヌスが翼を広げ、腰を下げると翼を羽ばたかせる前に助走を付けるように跳ね上がった。

 蹴り上げた時の衝撃で東京をはじめとした関東全域が大きく揺れる。

 そしてその衝撃で僅かだが津波を引き起こす。

 上空へ飛び上がったファウヌスは自身の翼を目一杯広げると、それは段階を踏んで一回りも二回りも大きくなる。

 水色の高エネルギーが成層圏を焼き焦がし空気が激しく音をたて振動する。

 世界各地でハリケーンが突如発生し出す。


『あははははっ、綺麗よ。命の灯火が消える時が一番美しいわ』


 漆黒の世界にあって女性型ファウヌスは大きく高笑いを浮かべる。

 そろそろ地上に到着する頃かしらと、瞳を細めると――水色の惑星すら破壊しうるエネルギー放射はファウヌスが広げた翼に当たった瞬間――音も無く吸い込まれていった。

 呆気に取られる女性型ファウヌスに向けファウヌスが叫ぶ。


『貴様の切り札は我が全て神界へと逃したぞ。いい加減諦めぬか。元々あのお方はこの世界を温かな我が子の成育場とする為に築いたのだ。悪と善しか存在せぬ神界を見限っての事だ。それはお主だって分かっておろう。あのお方がこの人界に望んだのは慈しむ愛に溢れた世界だ』


 苦々しい表情の女性型ファウヌスを遠くから見つめ、ファウヌスは既に存在しない創造主の意思を呼び覚ます。だが女性型は唇を震わせると、人の粗を口上する。


『あのお方が望んだ慈しみ愛に溢れている世界がこの世の何処にあるの? 明日食べるものも無い、貧困に苦しむ子供が大勢いると言うのにこの世界を牛耳る権力者7名はそれらを救おうともせず、金と権力に執着し更なる富を得ようと固執する。 我が子を愛することを忘れ自身の欲求不満を爆発させるために子を殺す。自分、自分、自分。どの国でも優しさなど欠片も感じない――ここの何処に救いはあるの。人を貶めちっぽけな優越にひたり喜ぶ人間共。他人の失敗を娯楽の様にあざ笑う人間。そんな薄汚い生物のどこに価値があると?』


 女性型ファウヌスとてあのお方の血を分け与えられ生を受けた獣神だ。

 冷酷な一面、残虐性は最初から備わっていたわけでは無い。

 善の記憶を掘り起こすように、ファウヌスに対してわめき散らす。


『まったくお主は素直じゃないのぉ。キリスト様が人に貶められた理由は何だ? 貶めた人間は何故そんな真似をする? 全ては権力を我が物にしようと欲する欲望故だ。現在の世界も2000年前と同じだそうだぞ。小娘から耳にした話だがの』


 諭すように告げるファウヌスに女性型ファウヌスは「やはり救いは無いでは無いか」と激高するが、そこでファウヌスから提案がもたらされる。


『要はこの世界に富みがあるのが原因だと我は判断した。人間を一度全て横一門にすれば、少しは変わるのでは無いか――とな』


 ファウヌスに諭され短くも長い時熟考した女性型ファウヌスは「それも面白いかも知れないわね」と呟くと一瞬でファウヌスの隣まで転移する。




 雪達、豊洲防衛戦は完全にヒートヘイズ達に押し切られようとしていた。

 真樺も水楢も珠恵も既に体力の限界まで戦い抜いた。

 皆、足腰は覚束なく、真樺の剣先が見えなかった突きは最早その一突き、一突きが遅く、水楢にしても既に予備の矢が無くなりかけていた。

 珠恵に関しても戦闘中に負傷した腕の傷が神経を麻痺させ何とか立っているのがやっとの有様だ。

 雪は完全に腹の傷口は開き、大量に失った血液は腹部を染め上げどす黒く変わり、血の気を失いながらも何とか剣を杖にしながら姿勢を保っているだけだった。

 那珂の島学園の生徒達は結局間に合わなかった。

 各地で避難活動が始まり、シェルターに潜った事で放置された車両がバスの行方を遮ったのだ。


「雪、大丈夫?」


 珠恵が自身の体調を鑑みずに雪を心配し労る。


「あぁ、なんとか? ね。珠ちゃんもまだ動ける? 動けるならまだ遅くないから地下へ――」


 雪がまだ歩ける余裕があるなら逃げてくれと告げるが、珠恵はゆっくりと自身の血がこびり付いた髪を左右に動かす。ゆるふわカットは見る陰も無く、髪がいびつに動く。

 水楢は後方支援の形で弓を射っていたので傷は浅いが、ヒートヘイズから避けながらの射的を繰り返したお陰で体力の限界だった。

 真樺は、満身創痍になりながらもギラついた視線を目の前から押し寄せる蛇達に向け続けている。

 突き刺し霧散させては細剣を杖代わりに身体を休め、そしてまた突く。そんな事を繰り返していた。



 そんな綻びだらけの防衛戦だから呆気なく突破口は開かれる。

 真樺の細剣が度重なる戦闘で酷使され根元からポキッと折れた。それを待ち望んだかのように一斉に蛇が襲いかかる。皆の瞳に生気も希望の光も見受けられない。

 大口を開けた蛇達は、雪の頭部目掛け、また水楢の引き締まった脇腹を、あるいは珠恵の小さな身体に、満身創痍の真樺の下半身へと一斉に襲いかかった。


 雪はこんな現実は嫌だ。

 もっと違う未来は無かったのか。

 積極的にアプローチされたからだけでは無いが、珠恵を好きになりかけていた。

 最初にあった時から綺麗な子だと、付き合うなら高嶺の花でもこんな子がいいと密かに思った水楢がいた。

 最初は怖い人だと思ったが紆余曲折を共に経験し、可愛いところもあるんだと真樺に思った。

 そんな皆が今、小さな命を散らそうとしている。

 もっと自分に力があれば――。

 ファウヌスの力を自分自身も使えれば――。

 そんな出来もしない想像を抱きながら最後に雪は声を震わせ、皆に聞こえるように叫んだ。


「彼女がいないまま死にたくないよ!」


 最後の最後に閉まらない台詞を吐き捨てたが、その雪の言葉は皆の凍った心に温もりを与えた。半ば泣きじゃくる雪と笑顔の女性陣3人を蛇の口が包み込んだ。




『ではやるか!』


 東京湾海上に戻ってきた2人のファウヌスは互いに腕を組み合うと、完全体でなければ発動出来ない神の奇跡を発動させた。

 世界中を真っ赤な雲が包み込む。

 地球を覆い終えたその雲からは銀色の雨が地上へ降り注ぐ。

 その雨に触れたありとあらゆる人工物は無に帰る。

 地下のシェルターであっても、巨大なビルであっても例外なく消失する。

 人々が着ていた衣服も全て――。

 ひとしきり激しい雨が降り注いだ後には、ヒートヘイズの姿も、家屋も何もかもが消えていた。あるのは大自然のみ。

 人々はアダムとイヴがそうであったように、原初に戻った。

 後の文献でこの日の出来事は、原初神の気まぐれと記録された。



 命を散らしたかに見えた雪達も、寸での所で銀色の雨にさらされ奇跡的に命は助かった。

 そして奇跡と言えば――あれだけ深い傷を負っていたはずが、全ての地球上の生き物の傷や病と共に癒やされ回復していた。

 神の奇跡を起こした張本人の1人、いや2人で1つのファウヌスは地球から富みが消失した世界をニンマリとした面持ちで眺めた後、高笑いを浮かべながら1つになって他の惑星へと転移していった。


 一人の科学者がもたらした神の名代は、孤独になった科学者に、罰を与えた。

 他の幸せな人類と孤独な己を見比べる様にと。

 そしてそんな科学者達が遺伝子操作で生み出した子供達は、健全な人の一生を送ることになる。

 彼らは後に世界へ散らばり神がもたらした奇跡を伝える伝道師となったとか。


 世界をこれまで牛耳ってきた資産家達は、全てを失った後でも、新たな富みを得るために暗躍に駆け回るが、恐らくは同じ手法では不可能に近いだろう。

 先駆者は種明かしをした瞬間から先駆者では無くなるのだから。


 学校も、政府も、市も、町も境界線も消え失せた国では土地を巡る争いが早くも始まったとか――。

 島国である日本にはあまり影響は無いが、人が新たに製鉄技術を開始し、大航海へとこぎ出すのは数世紀先といわずにいられまい。




「それで珠恵さん、いつまでそんな格好で雪君にしがみついちゃっている訳?」


 裸の雪の背中にぴったりと裸体を隠すように突っつける珠恵に赤面しながら水楢が苦言を呈し注意する。

 ただでさえ童貞の雪には裸の女性陣は目の毒なのだ。

 当然、雪の息子も元気になっている。

 それを横目にチラチラみながら茹で蛸状態で水楢はモジモジしだす。


「はぁ、貴様等は若くていいな――」


 真樺もスッポンポンなのは同じであったが、いち早く異変に気づいた時に近くに落ちていた街路樹の落ち葉で大事な部分だけは隠していた。

 大人の余裕ぶっているがその内心は初心な乙女達とそう変わらない。

 雪の周囲はものが消えても変化はなさそうである。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Heat haze -影炎- 石の森は近所です。 @marukko1120

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ