崑崙山-スーパー・フィクション
安良巻祐介
連日の雨が明けて、久方ぶりに晴れ渡った。
ふと思い立って訪ねて行くと、Oの書斎の机の上には、ちょっと洒落た趣味の品が置いてあった。
亀の形を模した、四足付きの、かなり大きな玻璃器に水が張られて、そこへこれもまた、一抱えもありそうな石が入れてある。
山のかたちをした石だ。縞状に苔が植わっていて、ところどころに細かい木の皮が掛けてある。
「くず屋が、米と引き換えに置いて行ったものだよ」
珍しいなと茶化すように言った私に、Oはシャツの首のくたびれたところへ団扇で風を送りながら、ニヤニヤ笑いで答えた。
「風流なくず屋もあったもんだ」
「或る屋敷の爺さんが死んだ時に流れて出たんだとさ」
骨飴を噛んでいるらしく、渋そうに歪めたOの唇の端からは、ヅクヅクとざらついた音がする。
「見る限りじゃ盆栽の親戚だがね。別に年代ものでもなんでもないから、買い手がつかなかったらしい」
「へえ」
確かに見た目には、いかにも由緒のありそうな品に見える。大陸の夜市で出ていてもおかしくない。
その印象をそのまま告げると、
「ああ、そういう購買層を意識してこさえられたのには間違いないだろう。実際、華僑坂を引いて隠居した爺さんが持っていたのだし」
Oはそう言って、ペッと音を立てて、肉色の削げた骨飴の残りを傍の葛籠へ吐き捨てた。
「だがまあ、実際には最近流行のバイオ商品の一種だよ」
机の上の玻璃器に手を伸ばし、こちらへ寄せる。
「もそっと、よく見てみるかい?」
但し顔を近づけ過ぎないように、との注意を受けて、言われるがまま覗きこむと、濡れ石の形と苔とで峻嶮な山の微妙な肌合いを模したらしい造作は、こうして見るとまったく上手く出来ている。
と――その山肌に、ごま粒のような小さな点々が、幾つもくっついているではないか。
しかもさらに眼を凝らせば、それはどうやら、細かく動いているらしい。
「虫だよ」
私が訝しげな顔をしているのに気付いたのか、Oは渋めた口のままで、さっさと説明した。
「石の上の方に、霞が纏わっているのがわかるかい」
そう言えば、石は全体が何か桃色がかっていて、上の方の部分に、その色が凝ったような、もやもやとした帯がある。
Oは続けて説明した。
「翅酔傾人香とか言うガスだ。
「ああ、あの煩わしい蝿か」
豆頭蝿は、だいたい夏場の台所にたかっている印象の強い蝿だが、本当に、目を凝らしてもちょっと見えるか見えないかくらいの大きさなので、気付かないうちに鼻の穴に飛び込んでくるような事もあるのだ。(そのせいで昔はくさめ蠅とか言ったとも聞く)
「しかしそんな虫を――」
わざわざ集めて、どうするというのか。
「決まっているだろう」
Oは笑って、抽斗から天眼鏡を取り出した。
「箱庭の住人にするのさ」
そう言って差し出されたレンズ越しに、水に接している辺りの、石の表面を見直した私は、何だか蝿のかたちがおかしいことに気付いた。
「君、この蝿は四本足じゃないか」
肌色の頭に、黒い背中をした蝿の群れは、いずれも虫らしくない、手のように差し出した二本の足と、地に付けたもう二本の足との奇妙なバランスで、大きな、濡れた石の山の麓に取り付いている。
「それに――どいつも羽根がないぞ」
「それはそうさ」
Oは心底可笑しそうに、
「だって、羽根の生えた、六本足の人間は居るまい?」
そう言って、天眼鏡を脇に置いた。
私はどうにもよくわからずに、石の上の粒粒を見下ろした。
「つまりだね」
脇に置いた菓子袋に手を入れて、Oは新しい骨飴を取り出すと、目の前に掲げて見せた。
口腔内で舐められる前、肉色の、いびつな形の飴玉には、でんぷん質の毛がちょろりちょろりと植わっていて、さも禿げた人間の頭のように見える。
「取り付いているうちに、ひとのかたちに近くなるようにしてあるんだよ」
「蝿が?」
「そう。多分ガスの作用で、そういう風に思いこませてるのじゃないかな。自己暗示で、二本多い分の肢を落として、背中の羽根も取れてしまう。僕も馬鹿らしいとは思うけれど、そうやって見れば、豆頭蝿という奴は、色合いからして、人に似ているんだね」
確かに、毛のない坊主が、黒い服を着ている――ように、見えなくもなかった。
天眼鏡の玉の中で、背中を向けて蠢いていた蝿たちの異様を思い返して、私はウームと感心した。
まあ、古典的趣味の当世風な延長というわけさ、とOは、骨飴を口に放り込むと、そばへ転がしてあった、電気麻薬の吸引器を取り上げた。
(それは、マーケットで売ってあるような乱造チップを差し込んで味わうための品だったが、見た目だけは江戸趣味な長煙管に仕立ててあった)
「従来の箱庭細工には景色風物ばかりがあって、動くものがないからつまらないと、そういう風に言うのが昨今の趣味人だ。本来はそこのところに、明鏡止水、山水静まり雲流れゆくの境地を見出だして楽しむものなんだが、そういう『粋』はもはや古いらしい」
僕も古典的趣味人ではないけれどもね、と言いながら、Oは煙管を口にあてることなく、そのまま抽斗へ放った。
「で、そういう連中に向けて、手近な蝿を利用する箱庭ができた、それがこれだ。実際、有機合成の虫人間なんかをちまちま造るよりよほど簡単だが、政府の開発品に手を加えた代物だったもんだから、細かいところでケチがついて、結局本格的に市場に出回ることなく終わってしまったらしい」
「じゃあ非正規品かね?」
「そうだよ。屋敷の爺さん、苦労してそんなものを手に入れたはいいけれど、いざ蝿を集める前にぽっくり死んでしまって、動く箱庭はとうとう見られずさ」
自分があべこべに翅を生やして、蓮の咲く箱庭へ入っていっちまった――と、Oが元文学科志望らしい、衒ったような言い方をしてみせたので、ちょっとからかうように、
「それで風流なるくず屋に払い出されて、酔狂人の君のところへ至るか」
と言うと、大して堪えた様子もなく、ぽりぽりと頭を掻いた。
「僕としては、蝿取りのつもりで買い受けたんだがね。なにせ、連日の雨だったろう。流しの野菜屑にたかる連中がそりゃあもううるさくて、ひどいもんだったから」
「またずいぶんと場所を取る蝿取りだな」
「だから、最初は台所に置いていたんだよ。うちの蛇口は轆轤アームだから、水を補給するにも具合がいいし」
とんだ崑崙山もあったものだ――と思いながら、私はOに天眼鏡を貸してもらって、ふたたびその山の方へ目を向けた。
先ほど見たのは水際の辺りであったが、どうやら麓の方にも、多くの蝿が集まっているようだった。
「何だか足先が白いのが多いな」
その辺の奴を見ながらふと漏らすと、
「
とO。
「そればかりじゃない。奴さんがた、ちょっとした道具類もこさえるよ。肢が取れたのを補うのに杖を突いたり、苔を刈るのに鎌みたいなものを使ってもいる」
そう言われてよく見れば、沓の他に、棒のようなものを携えているのも見えるし、そも、やたらと前足を蠢かしている奴が少なくない。苔が不規則に濃くなっているのは、Oの手入れの問題ではなく、つまり畑もどきらしい。
「面白いな。しかし、こんな小さな奴らがどうやって自分達よりさらに小さな沓だの道具類だのを拵えるのだか、不思議なものだ」
「それは君、見地が狭いよ」
骨飴に渋めた顔で、Oはまた笑った。
「顕微鏡を覗いた事はあるだろう。僕たちの目に見えないだけであって、微小のサイズの世界には、実に色々なものが転がっている。僕は、こいつらの使っているのはある種の菌類だろうと見当をつけているよ。詳しく調べたわけじゃないが、多分アミカケカビとか、ブヨノクゲとか、そのあたりだろう」
「おいおい、ぞっとしないな」
「この部屋は湿気っぽいからね。そこへ来てこの間までの、連日連夜の雨だ。君の友人の、ほら、博物学科のK君から送ってもらった偏妄スコープ、あれを試した時には、床だの壁だのそこらへびっしりと、体毛みたいに菌の芽が並んでいたな」
「よしてくれよ」
私は皮膚がぞわぞわするような感覚を覚えて、書斎の中を見回した。言われて見れば、ここはいつでも暗いし、少し空気がじっとりとしている。
「おっと失礼。いや、勿論たまに掃除はしているが――と言ったって、そもそも君、いかに清潔にしていようが、菌類は生じるものなんだぜ」
Oが、そのまま意地の悪い雑学を披露しそうになったので、私は慌てて、蝿たちの方へ話を戻した。
「これは、山登りのグループかな」
山の麓からさらに上、ごつごつと岩の色合いの強いあたりに、何匹か取り付いている。
天眼鏡を近づけると、また装いが違う。背中が膨れていると思ったら雑嚢を背負っているらしく、また、足には脚絆みたいな布を巻いている。
「環境としては、麓から少し上の辺りまでが一番整っているんだがね。畑もあるし。それでも、開墾するでもないのに、やたらと上へ行きたがる奴は多いようだよ」
「そこに山があるから、というわけか。にしても――おや。こっちの列は」
登山グループから少し離れた場所で、切り立った崖の面を、行列を成して歩いているのがあった。白い体をして、妙に頭が扁平に広いなと思ったら、笠をかむっているらしい。
「見ろよ、こっちの奴らは被り物を付けてるぞ。それに白い」
「行者か遍路みたいなものじゃないかな。そいつら、どこへ向かってる?」
問われて行く先へ目をやると、岩の腹に大きめの窪みが出来ている。白い列はそこを目指しているようだ。
先回りしてその窪みへ天眼鏡を向けた私は、そこにあるものを見て、ぎょっとした。
――苔が囲み、水のたまったその窪みの中には、「骸骨」が横たわっていたのだ。
指の先ほど(と言っても、蝿どもにとっては巨人だが)の、人型の白い骨が一揃い、頭蓋骨から足先まで、半分水に身を浸して、見えている。
「おいちょっと、君、これは――」
動揺して、天眼鏡を握ったまま指し示す私に、Oは、
「それはだね……」
と、神妙そうな顔つきをすると、おもむろに懐紙を取って、そこにぺっと何かを吐きだした。
「飴だよ」
「え?」
「僕の捨てた骨飴の芯だ。舐め終えた大きいのを一つ、気まぐれにその窪みに入れておいたら、どういうわけか、他に捨てた屑みたいな分までそいつらが拾って集めてきてね」
言われて思わず見返してみると、確かに、さきほどは見まがうことなく骸骨だと思ったそれは、よくよく見れば微妙に形がおかしい。各片の大きさがまちまちで、全体のバランスも少しく歪んでいる。
「意図はわからないが、ちょっとしたものだろう。連中、なかなかに芸術家だ」
「なんだ……」
私は、拍子抜けしたような気持ちを覚えながら、ふとひっかかって、いや待てよ、と言った。
「こいつら、人間の骸骨のかたちを知っているのか」
「ああ、それは、僕も奇妙には思う」
Oは面白そうに答える。
「『翅酔傾人香』の生成段階で何かの情報が混入したのかもしれないが、にしても、それを引っ張り出す必要性がない。まあ――僕たちだって、とうに絶滅した古代生物や自然動物の像の再生に躍起になったり、ありもしない神仏の骨を崇めたりするからな」
私は、妙な据わりの悪さを拭い去れぬまま、まあそんなものか、と答えてから、窪みを囲んで、白い輪になって行く蝿の行列を見つめた。
「……では、こいつらには、宗教と言うのもやはり備わっているのかな。いや、そもそも、言葉や文字は、あるのだろうかね」
「言葉ね。木の屑だか、繊維片だかに、解読はならないけれど、斑点みたいな模様がつらつらと打ってあるのはそこら中に見たな」
自身も天眼鏡を覗きこみながら、Oが言った。
「宗教に関しては――この白い連中は、たびたび諸手を擦り合わして、拝むような真似をするよ。ああ、ほら、やっている」
言われて見れば、骸骨を囲んだ連中は、揃って前足をしきりにこすりあわせている。
「だが、君。これは、普通の蝿でもやるじゃあないか」
「やれ打つな。蝿が手を擦る足を擦る」
昔の人の詠んだ句を引いて冗談めかしてみせるOに、私は、
「何かをありがたがって拝んでいるのかな。それとも単に、生理的に、生物的に前足を擦り合わせているだけなんだろうか」
「さて」
Oは顎へ手をやって、しかしさほど思案しているようにも見えない。
「判断のしようがないな。さっき言った斑点模様にしても、たまたま足先をくっつけた跡かもしれないし、この気味の悪い骸骨もどきに群がるのだって、骨飴の残りかすを漁っているだけかもしれないし」
Oはそれから、おや、と呟くと、
「見ろよ。ここにも面白いのが居るぜ」
天辺の辺りを指した。
釣られて、天眼鏡をかざす。
苔の薄れ、目にも険しい山の頂。
そこに纏わった桃色の雲の一つに乗って、ゆっくりと飛んでいく奴がある。
「仙人だ」
こちらへ小さな背中を向けて、それは、峰の絶景を飛び去って行く。
「仙人五色の雲に乗る、か。……ガスなんだけどな、ただの」
それも違法改造したバイオ化合品だ、と言って、Oは笑い出した。
私は、笑い上げるOの大きな顔と、その肩と同じくらいの高さの山の峰を見ながら、ふと、何か得体の知れぬ戦慄を感じた。
小さな仙人は、もう視界から消えている。
狭い書斎の大窓から、柔らかい春の日差しが差し込んで、玻璃器に入れられた山の上では、いよいよ荘厳そうに、桃色の雲が、ゆったりと動いていった。…
崑崙山-スーパー・フィクション 安良巻祐介 @aramaki88
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