不死の剣士
飴風タルト
本文
灰色の空が流れている。
それは時間が動いている証拠なのだろう。
ならば少しずつではあっても、僕の命も削れている。
きっと生き物はいつか、死ぬものだから。
* * *
二百年の時を生きている少年、アイクは丘の上で沈みゆく夕陽を眺めていた。
彼は毎晩、この黄昏の丘で黄昏ている。彼の住む村では、彼を『黄昏者のアイク』と呼ぶものさえいた。
しかし、彼はそんな普通の人々の冷やかしを特に気にはしていない。
そんなものは長年刻まれた心の傷には、薄めすぎた塩水をかけた程度の微々たる苦痛しか与えることができないからである。
空虚な緑色の瞳は、眼下に広がる無数の墓標を漠然と眺めていた。
彼らは皆、かつてのアイクの友人であり、愛人であり、敵であり、家族だったが、誰ひとりとして彼と共に生き続けることは叶わなかった。
ある者は戦火で討ち死に、ある者は病に倒れ、またある者は天寿を全うして朽ち果てていった。
長すぎる時は、彼をとうとう孤独にしたのである。
「……僕だけが、残されていく。……だけど、僕は……」
アイクは胸に下げた紅の宝石がはめ込まれたペンダントをギュッと握る。心なしか、それはやけに熱く感じられた。
その時、背後で草を擦る足音がかすかに耳に届いた。
反射的に脇に置いた長剣を抜こうとするが、柄に手をかけて動きを止める。
今となっては、敵でも自分には意味がないように思えたからだ。
「アイク、またここにいたの? そんなことだからタダ飯食らいの男連中に馬鹿にされるのに……まったく」
「シリカ……別に僕なんかに構わなくていいよ。きっと君もすぐに、いなくなるから……」
シリカと呼ばれたブラウンのポニーテールの少女は、アイクの隣の芝生に座り込む。アイクが嫌な顔をしてもお構いなしだった。
「あのねぇ、あたしがそんなに老けていると思う? まだ十七よ!? 人生経験が豊富だからって、もしかしてロリコンに目覚め始めたわけ? ……ちょっと引くわよ」
「ち、違う! 小さい子は確かに可愛いけど、そんな目で見たことはないから……ほ、本当だよ」
「ふーん……。ま、人間二人分の長い人生の間に何があったかは知らないけど、そういうことにしておくわ。……それで、今日は何があったの?」
シリカが顔を覗き込んでくる。
その目は好奇心や疑心ではなく、思いやりで満ちていた。
この世話好きな少女に、不死の少年アイクは何度も救われている。が、同時に申し訳なくも思っていた。
「……鋭いんだな」
「女の勘は鋭いものなのよ。まあでも、あんたの場合はわかりやすいからね。うちの弟も心配してたわよ。最近元気がないって」
「そう、か。なんだかキミ達には迷惑ばかりかけている気がするよ。いや、いつまでも僕が頼りないからだけど……」
すると額に突然、痛みが炸裂した。
思わず閉じた目を開けると、シリカがデコピンをしたからだった。
シリカとは彼女が生まれた頃からの付き合いではあるが、彼女はデコピンに限らず行動がやけに素早かった。そして何より、無邪気だった。
「なっ! い、痛いじゃないか!」
「あら、長生きすると反応が鈍くなるのね。ほらほら、脳トレでもして鍛えなきゃダメよー? さっき見た日刊『ロスティア経済新聞』でも、魔導師教会が『脳を活性化するには新しい刺激が必要だ』っていう研究成果が発表されていたんだから。長生きアイクも脳を鍛えないと、見た目だけ少年の物忘れおじいさんになっちゃうわよ? 逆なら格好いいけど、これだと目も当てられないんだから」
「よ、余計なお世話だよッ! そのほうが、楽かもしれないだろ……」
彼女は呆れたように息をつき、懐から何かを取り出した。アイクが目を向けるとシリカは無駄のない動きで、そっと丘の向こうの夕陽に向かって、紙飛行機を飛ばす。
丘の上は風が強く、まるでこの時のために吹いているかのように、シリカの紙飛行機を無数の墓地の遥か上空で、まっすぐに沈みゆく夕陽へと運んでいった。
シリカはその様子を見て満足そうに微笑み、言った。
「私は思うの。あなたはきっと、多くの出会いを重ねるために生まれてきたんだって」
訝しげにアイクはシリカを見る。
シリカの力強い大きな瞳は、小さくなっていく紙飛行機を眩しそうに見つめていた。
ブラウンの髪が風になびいて乱れる。
アイクは不思議と、綺麗だ、と思った。言えばボロクソに言われるだろうが。
「そんなの、後付けの言い訳だと思う。結果論だよ。あれは運命だから仕方がない、あいつはそういう星の下に生まれてきたんだ、とか、そんな中身のない評価だ」
するとシリカはクスリと笑った。
ムッとした顔で、アイクは目をそらす。
ふと見えた夕陽に向かう紙飛行機は、すっかり夕陽の赤に呑み込まれて見えなくなってしまっていた。しかし落ちていく影は見た覚えがないので、まだ風に運ばれて飛び続けているのだろう。
「なんだよ」
「あ、悪気があったわけではないのよ。ただ、あたしが前に読んだ哲学の本みたいだな、と思って。それにしても、ずいぶんと運命みたいな言葉を嫌うのね?」
アイクは渋い表情で押し黙る。
少し気を遣うような目を向けたシリカだったが、すぐに微笑みを浮かべて誤魔化した。
「……みんなが、そうやって僕を励ましてきたからだよ。分からないだろうけど、この丘の下の墓に眠る半分位の人たちが」
「そう。でも、あたしがさっき言ったことは本心よ。きっと、その人達もそうだったんじゃないかしら」
「悪気がないのは分かってる。でも――」
「ねえ、とりあえず少し黙って。今のあなたが口を開くと、全部悪い方にしか取れないじゃない」
「……じゃあ、僕が何も言わなかったら、キミは何を言うつもりなんだよ」
言うと、シリカは熟考するように口を閉ざし、ぼんやりと夕陽を見た。相変わらず眩しそうではあったが、見えなくなってもなお、紙飛行機を夕陽の赤い光の中から見出そうとしているようだった。
そのまま数分の時が経ち、しびれを切らしたアイクが文句をぶつけようと口を開いた瞬間、
「そうね、あたしの願いかしら」
シリカは言葉を口にした。
アイクは首をかしげる。が、すぐに納得したように小さくうなずいた。
自分はきっと、まだ死なない。あと百年、いや、下手をすれば何千年も生き続けるかもしれない。
そんな自分に願いを託せば、たいていのことは叶えられるだろう。
(彼女は強引だからな)
アイクは冷ややかな目をシリカに向けた。
対するシリカは、遠くを見るような目を足元の丈の短い草に向けていた。表情は、読み取れない。
「そう。じゃあ、聞くだけ聞いておくよ」
「ありがと。まあ、大したことじゃないんだけどね」
それから言葉をつぐみ、シリカは迷うように目をアイクから背けて、何度も深呼吸をした。
アイクはその様子を黙って見守っている。
初春の青い香りを乗せた強風が二人の背後から三度吹き抜けた頃、彼女は口を開いた。
「……あたしを、ずっと忘れないで欲しいなって。弟のユミルのことも」
「…………キミの願いは、それだけなのか?」
「うん」
シリカは寂しげな目を、丘の下の墓地に向けている。彼女が瞳の奥で何を考えているのか、アイクには分からなかった。
ただ、胸が苦しいほどにざわめいていた。
それを考えてはいけないと思ったが、自制も虚しく彼女はそれを口にしてしまった。
「本当に好きな人には自分のことを忘れて欲しくない。それって、当然のことじゃない?」
ブロンドの髪の尻尾を大きく揺らし、シリカは元気に笑いかけてくる。頬が薄桃色に染まっているように見えるのは、きっと彼女の発した言葉が与えた衝撃の錯覚によるものだろう。
アイクは呆然とシリカを見ている。
「あそこに眠っている人達は、幸せだと思うよ。だって、生前の自分を覚えていてくれる人がいるんだもん。まあ、黒歴史とかは恥ずかしいだろうけどね」
「…………」
「あたしは、思うんだ。生きてても死んでても、離ればなれになっても、この空の下のどこかに大好きな人がいて、もしかしたらあたしのことを考えているかもしれない。……って、そういうの、あんたには分かんないか」
シリカは寂しげに笑う。
夕陽はほとんど沈んでしまっていた。あと数十分経てば、完全に地平線の下へ沈んでしまっていることだろう。
「わかる。……いや、どうだろう。わからなくなったのかもしれないな」
不思議そうにシリカはアイクを見る。
アイクは寂しげな表情を浮かべていた。自分の前からいなくなってしまった人達のことを考えているのかもしれない。
ふう、とシリカは息をついて、ボトルを暗い顔のアイクに差し出した。
そのボトルはどこからどう見ても、酒だった。もう一つ重大な事実を言えば、彼女のお父さんの形見の、かなり高級な酒である。シリカの家は村で唯一の酒場だが、こういった上等の物を仕入れることは難しいらしかった。
「くれるのか? でも、駄目だ。それはキミのお父さんのだろう」
「そういう暗い顔、見るに耐えないのよね。それに、あたしのパパなら絶対にこう言うわ。若造気取ったジジイが、出された酒に文句言ってんじゃねぇぞ! ってね」
「確かに、そう言うだろうね。……ありがとう。今度、これに見合うものをキミと、キミのお父さんにあげないとね」
シリカはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
そして指で丸く、硬化の形を作る。
「十倍返しでね」
「……本当、キミはお父さんとそっくりだよ」
「フフッ、娘だもの。同じことを言われるなら、あなたはきっと全然昔と変わっていないのね」
「そう、なのかな」
「そうよ」
アイクはボトルのコルクを抜こうと十分ほど格闘し、ようやく抜き終えると息を荒くしながら酒を口にした。
なぜかやけに甘く感じられたが、喉の奥が焼け付くような酒だった。
シリカの父のような……というのは、無理矢理だろうか。
じっくり味わってから飲み込むと、熱い吐息をゆっくりと吐いた。近頃は果実を絞った飲み物ばかりを飲んでいたためか、初めて飲んだような新鮮さを感じた。
その様子をシリカはニヨニヨと眺めている。イタズラやドッキリに成功した子供のような表情だった。
なぜか狐に化かされたような気分になったが、視界を暗くしていた黒い霧が晴れて、前向きになれたような清々しさが胸に満ちていた。
「美味しかったよ、ありがとう。キミとキミの家族には代々お世話になってしまって、本当に申し訳が立たない」
それからシリカの母を思い出し、少し青い顔で続ける。
「……そろそろ村に戻ろう。キミのお母さんに僕が怒られてしまう」
アイクはボトルを懐にしまって、鞘に収めた二代目の長剣を杖にして立ち上がる。ふと、自分が本当に精神的に老いているのではないかと危機感のようなものを覚えた。
するとシリカが慌てて立ち上がり、歩きだそうとするアイクの腕を掴む。
「あ、ちょっと待って! 一つ言っておきたいことがあるの」
「え?」
振り返ると、シリカは恥ずかしげに微笑んでいた。
彼女の背後で輝くわずかな夕陽が彼女を照らし、空は夜がすぐそこまで迫っていることを語るように幻想的なグラデーションで彩られている。
万物が、色が、光と影が、彼女の周りの全てがシリカを幻想の住人のように美しく描き出していた。
その姿に、アイクは既視感を覚える。
彼女の祖母、シェリルの姿が一瞬重なったのである。
しかし彼女はあくまでシリカだった。
高く結わえた滑らかなブラウンの髪、力強い眉と、温かで強い心を秘めたディープブルーの瞳、きつく結ばれているようで微笑みを浮かべている口許。
現在、今この瞬間に自分が接しているのはシリカ・ベルーカであり、彼女の限られた時の中をこうして共にいるのは、紛れもなく自分自身、アイク・ベルナンドだった。
どちらも唯一無二であり、過去に出会ってきた者たちも皆、ただ一人の個人だった。
――あなたはきっと、多くの出会いを重ねるために生まれてきたんだって……
シリカの言葉が深く胸に根を下ろしていく。
気休めでしかないと分かっていても、なぜか胸の奥で綺麗に収まってしまった。
ただ、それは一種の苦行でしかないのだろうと浮かんだ言葉を打ち消そうとした時、紛れもなく言葉を贈った本人、シリカ・ベルーカの言葉が彼を包んだ。
「アイク。あなたは、あなたが望む限りずっと幸せになれる。間違いないから」
アイクはふと、嫌悪感を覚えた。
ずっと幸せに? そんなことは不可能だ。子供にだって分かる。
「気休めはいいよ。そんな軽い言葉――」
「紙飛行機がね、この墓を越えて見えなくなるまで飛んでいったの。あたしは、その紙飛行機に願掛けをしたんだ。“紙飛行機が、この広い墓地を越えて見えなくなるまで飛んでいったらアイクは幸せになれる”って」
「そんなの……」
「少なくとも、あたしはアイクがずっと不幸なままでないことは確かだと思うな! だって、あんたはなんだかんだで独りじゃないんだもん。知ってる? こんな根暗な剣士なのに、村の女の大半はあんたに好意を抱いてるんだよ? 哀愁漂う感じがいいとかなんとか……あーあ。モテる人は辛いねぇ?」
信じられないと言いたげな表情でアイクはシリカを見る。動揺しているのは明らかだった。
シリカは呆れ顔でため息をつく。
「まさか。僕は気持ち悪がられているはずじゃ……」
「ないない。もしそうでも、あれは気を引きたいだけだから。ほら、あんたが気がついてないだけで、色々な人があんたとの出会いを待ってるんだって。あんたは不死と一緒に、色々な人と出会い続けられる特権をもらってるの。わかる? それは、とても幸運なことだとあたしは思うわ」
「…………」
思い当たることがあるのか、アイクは神妙な顔でうつむく。
そんなアイクの背をシリカが思い切り叩いた。
ビクリとアイクが驚いたように反応する。
「ほら、あんたに付き合ってたら陽が沈んじゃったじゃない! さっさと行くわよ」
「え、あ、ああ……」
シリカに急かされ、アイクは戸惑いながらも歩き始める。
すっかり陽は沈んでしまっており、薄闇色の空にはいくつも星が瞬き始めていた。
家まで無理矢理シリカに見送られた後、家というよりは小屋のような埃っぽい室内でアイクは剣を抱き、考える。
「出会うと、いつか別れてしまう。でも出会わなければ、みんなを知らなかった……。シリカやユミルも……だけど……」
答えの出ない問答を繰り返し、やがてアイクは眠りについた。
その表情は良い夢でも見ているように穏やかだった。
* * *
シリカは家に戻ると、食事も食べずに自室に戻った。
いつもどおりの元気な笑顔で、「ごめん、夕飯食べてきちゃった!」と言って階段を駆け上がったのである。母は訝しげな目を向けていたが、弟のユミルは全く気がつかないようで、シチューを美味しそうに食べていた。
ベッドの上に身を投げ出すと、シリカは窓を見上げる。
空には無数の星が瞬いていた。
しかしなぜか今は、それがとても虚しく感じられた。
「……あたしは、アイクにとっては無数の星の中の一つでしか、ないんだろうな……」
しかし、アイクには寿命がない。現に、あの姿のままで二百年の時を生きているそうだった。祖父母と両親から聞いた話だから、きっと間違いないのだろう。
彼も昔は、ただの人間だったらしい。
しかし、何かが起きて彼は不死になった。
それがシリカの知っている全てだった。
アイクは自身を語らず、訊いても嫌そうに押し黙って、何一つ語らない。
そうした態度が、おせっかいなシリカを惹きつけたことも確かだったが、同時にシリカは、それをひどくもどかしく感じていた。
そして、二人の間にはどうにもならない壁がある。
死と不死。
たとえ想いが実ったとしても、いずれは時間の流れによって引き裂かれ、アイクの傷だらけの心にさらなる悲しみを刻むことになる。
それ自体は誰にでも起こりうることだが、アイクは必ず不死である自分自身を恨むことだろう。
その時、彼を支える者はそばにいるのだろうか。優しい言葉をかける者はいるのだろうか。手を差し伸べる者は残っているのだろうか。その後の彼を見守る人は――。
シリカは額に手の甲を当て、冷たい手で熱くなった額を冷やした。
考えることは暴走しがちな両親の血を継いだせいか、かなり苦手な
(こんなことだと、別に不死でもないのにあいつみたいに根暗になっちゃうな。しっかりしないと)
胸元の青色の宝石のペンダントに手を伸ばし、そっと握り締める。
母がロスティアの首都に行った時にお土産に買ってきてくれた物で、シリカのお気に入りだった。
そして宝石には、所持者の願いを叶える純粋な力が込められている。故に魔導師はよく宝石を身につけていた。単に着飾りたいだけの者も少なくはないが。
名前も知らない、透き通ったシリカの瞳のような宝石に、彼女は強く願いを込める。
――アイクとシリカとユミルの三人が、ずっと仲良くできますように。
もうひとつの願いは、胸に秘めておくことにした。
願いは少なければ少ないほど叶いやすい。魔導師の集中する際の心得ではあるが、シリカは魔法ではなく、ただ願うことにした。
そうすることで、彼は自分が朽ちても覚えていてくれるかもしれない。
この淡く切ない想いが、叶わないと知っていても願わずにはいられなくさせていたからだった。
魔法が全てを支配する世界、アムネリア。
だが、シリカ・ベルーカは気がつかない。
家事でさえ日常的に魔法が使われる世界で、アイク・ベルナンドがただの一度も魔法を使ったところを見たことがないことを。
不死の剣士 飴風タルト @amekaze-tart
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