地図にない街

 これは知り合いに聞いた話で、十年くらい前の話だそうです。怪談というほどの話ではないが、怖いといえば怖い話と言えるでしょう。


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 結婚して二年ほどして、妻の叔父さんだか叔母さんだかの法事があり、東京からちょっと離れた田舎町へ行くこととなった。


 夫はその県にすら行ったことがなく、妻もその親戚の家には幼いころ、一回か二回くらいしか行ったことがないそうだ。


 電車で行くと何度も乗り換えねばならず、遠回りにもなり時間がかかるので、車で行くことにした。車なら高速道路を降りて街道を真っ直ぐ北上すればそれほど時間は掛からない。


 法事は平日で、二人共、有給を取らなければならず、不満はあったが、その分、道路は空いていた。特に高速を降りてからは、他の車と出会うことも少なかった。



 十年くらい前の事だったので、夫の車にはまだカーナビが付いておらず、地図を頼りに車を走らせた。

 夫がハンドルを握り、助手席の妻が道路地図を見ながらナビゲートした。


「あれっ?ここどこだ?」地図に齧りついていた方向音痴の妻が、高速ランプを降りて十分もしないうちに頼りないことを呟いた。


「〇〇町だよ」夫は苦笑いをして答えた。

「どうして分かるの?」

「ほら、電柱看板の一番下だよ」夫は道路脇の電柱を指差した。「町名と街道名が書いてあるだろ。あれを見ればすぐに分かるのさ」

「あっ、ホントだ。これって日本どこでもそうなの?」

「そうだよ。書いてないとこもあるけどね。大きな道沿いは大抵書いてあるよ。そういう習わしになってるんだ」

「ふ~ん。よく知ってるのね」妻は夫を少し尊敬の念で見つめた。


 妻は夫に教えてもらった町名を頼りに、現在位置を割り出そうと四苦八苦していた。

「あっ、消防署!今ここだ!」妻は地図を指差し、一人納得した。

「大丈夫かぁ?」

「大丈夫、大丈夫。任せといて」

「後どれくらいだ?」

「まだまだ先みたい…」

「まっ、道は空いてるし、すぐだろう」夫はのんびりした声で言った。


 街道を真っ直ぐ行くと、ローカル線の小さな駅にぶつかり、親戚の家はそのすぐ近くだった。駅まで真っ直ぐ向かうだけだ。


 道の左右は、高速を降りてからずっと田園風景が続いていた。何処まで行っても畑と田んぼ、畑の真ん中にある大きな看板、ビニールハウス、所々に住宅があるだけだった。前方に薄っすらと紫色にけぶった小高い山が見えるのみ。

 すれ違う車もまばらで、同方向へ向かう車も滅多に出会わず、並走する車は皆、二人の車をスイスイと追い抜いて行ってしまう。


 歩いている人も滅多にいない。みんな田んぼや畑に出ているのだろう。

 空は雲が目立つが、おおむね晴れていた。上空は風が強いのか、固まった雲が足早に通り過ぎていく。夏の日差しがジリジリと車内に潜り込んできた。クーラーを目一杯にしていたが、照り着く太陽の光に車内は焼かれていた。


 やがて、街道沿いに大きな駐車場の付いた定食屋やラーメン屋、アウトレット店等が目立つようになってきた。

 一般住宅や三階くらいのコンクリートビル、商店らしきものが街道沿いに見えてきた。




「えーっ。『カメザト町』なんて地図にないよ」窓をぼんやり見ていた妻が慌てて地図をめくって夫に言った。


 電柱には確かに「亀里町」と記載されていた。道路沿いの五階建てくらいの葬祭場の屋上にも大きく「亀里葬祭場」と書かれていた。


「キザトチョウと読むみたいだよ」夫はローマ字で書かれたボーリング場の看板を指差して言った。

「でも、そんな町、地図に載ってないよ」

「最近、合併して名称変更したんだろ」夫は呑気に答えた。

 妻の方は、それでは現在位置が全くわからなくなるので、必死で地図に見入った。


 街道沿いはいよいよ街らしくなってきた。商店やオフィスビル等が目につくようになる。しかし、まだ亀里町からは出ていないようだった。

 やがて、また道沿いの田畑が増えてきて街っぽさは薄れてきた。どうやら漸く亀里町から遠ざかっているようだ。


 左手に「鬼里神社」というのが見えてきた。おそらく、「鬼里」というのが歴史的なこの地域の名前なのだろう。「鬼」では縁起が悪いので「亀」に変えたに違いない。神無川を神奈川に変えたのと一緒だ。


 車内に輻射熱が照りつけ、冷たいクーラーと輻射熱の暑さに身体がイカれてきそうだった。

「まだ着かないのか?」夫は訪ねてから、言ったことに後悔した。地図の記載町名と合致しないところを走っているのだから、妻には現在地が見当もつかないだろう。


 暫くして、夫はこの異常な暑さを走りゆく中、突然のに気付いた。

「あっ、逆方向を走っているぞ」

 車の正面に太陽があった。つまり、車は南へ進んでいたのだ。

「でも、道は一本道だったじゃない」妻が反論した。「真っすぐ行けばいいだけなんでしょ?」

「そうだけど、実際、南に進んでる。東京方面だ」

「そんな訳ないわ」妻はそう言うと、口を閉ざしてしまった。夫も確信が持てぬまま、道を真っ直ぐ走られた。暫く走ると、突然妻が叫んだ。

「あっ、あれ!」

 妻が指差す右前の遥か彼方に屋上看板が見えた。よく目を凝らしてみると「亀里葬祭場」と書かれていた。さっき横を通った街道沿いの葬儀場だ。右前方に見えるということは明らかに逆走している。


 夫は右折、右折を繰り返し、元の街道へ戻った。

「いつ反対に走ったんだろう。ずっと直進していたのに…」夫が呟いた。「俺、右折か左折したか?」

 妻は黙って首を振った。


 完全に真っ直ぐな道は滅多にない。東京の江東区やお台場などの埋立地なら真っ直ぐな道はあるが、田舎の道や古い道は必ず蛇行している。北へ向かっているつもりが何時の間にか東へ向かっていることも多々ある。そんな道ではぼんやりしていると方向を見失うことがあるが、二人が通っている街道は確実に北へ向かっているはずである。


「ゴメンね。何か見逃してたのかも…」妻は謝った。

「謝る必要はないよ。真っ直ぐの道を真っ直ぐ走ってたんだから」

「でも、反対方向に走ってたんだから…」

「どこかに目立たないY字路があったのかもしれない。細くて解りづらいY字路だったんで間違えたのかもしれない。もっと注意して走ろう」夫はそう言ってフロントガラスへのりだした。


 夫は慎重に車を進めた。思わぬ分岐路がないか、入念に調べながら車を走らせた。やがて道は細くなり、片側一車線となった。道の両側には乾物店や駄菓子屋、酒屋、米屋等の田舎町らしい商店が連ねた。

 商店が少なくなってきた頃、妻が突然叫んだ。

「あっ、あそこ!」妻の指差す先には「亀里葬祭場」の看板があった。


 今度は、さっき逆走した道と街道の間にある道らしい。そこを逆走していた。同じ所をグルグル回っていたのだ。一向に前に進まない。亀里町から出ることさえ出来ない。


 夫はムッとしながら車を街道に向けた。

「どうなってるんだ、この道は!?」夫はハンドルを叩いた。

「これじゃあ、法事に遅れちまう。電話して遅刻すると伝えてくれ」夫は噛み付きそうな形相で妻に頼んだ。

「それが、さっきから圏外なの」

「そんな訳無いだろ。今は山奥でも繋がるぞ」夫は怒鳴った。額からは玉のような汗を吹流していた。

「でも、さっきからずっと一本も立たないの」妻は泣きそうな声だ。

「怒鳴って、すまん」夫は低い声で謝った。


 車は再び街道を北上した。

「どうして、反対方向に行っちゃうの?私、ずっと見てたけど、Y字路も変な道もなんにも無かったわ。真っすぐ進んでるのに、どうして変な道に行っちゃうの?」妻はヒステリックに叫んだ。

「俺にも判らんよ。まっすぐ走っているはずなのに…」


 暫く、沈黙が続いた。道は単調で分かれ道は全く無かった。さっきのように道幅が狭くなることもなく、順調に進んでいた。二人は押し黙って何も言わなかったが、突然妻が口を開いた。

「ここ、最初に通った道よ」

 夫が見回すと、確かに見たような風景だった。

「ほら、見て」妻は右前方を指差した。その先には「亀里葬儀場」の看板があった。

「フーッ」夫は大きく息を吐きだした。ステアリングを握り、交差点を右折する。その先の街道で更に右折すれば元の道に戻る。


「ねぇ」夫は優しく妻に語りかけた。「この先で右折すれば君の親戚に会えるかもしれない。でも右に曲がったら、二度と東京には戻れない気がするんだ」

「うん」妻も震えていた。「左折しましょう。東京に戻るの。そうしないと、とんでもない事になる気がするの」




 二人は左折して東京に戻った。

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