Eine kleine Kinderszene
転職三社目、結構大きい会社にどうにか就職できた。
北は北海道から南は九州まで支社と営業所が五十以上ある会社だった。
転職三社目と言っても、前職は一年も保たずに辞めていたので社会経験は殆ど無く、転勤の話が持ち上がった時にはてっきり左遷かなと思ってしまったくらいだ。
ところが、上司によると転勤はこの会社では出世コースに必須の業務歴であり、銀行みたいに転勤回数が多ければ多いほど出世が早くなるという、
とは言え、僕は男だし、そんな男女差別は関係のないことだったし、今の東京本社から電車で一時間もかからないくらいの神奈川支店のとある営業所だったので、「左遷って訳じゃないならいいかな」とはじめから思っていた。
引っ越しをせざるを得なかったが、彼女もいないし、今より確実に家賃は下がるし、物価も下がる。一方、給料は僅かながら上がるというし、二三年待てば転勤し、何も問題がなければ、いずれは本社に呼び戻される、というのだから断る理由もなかった。
そんな訳で、僕は年度末の人事異動で転勤することとなった。
異動の辞令を快諾したのには、実はもう一つ理由があった。
生まれてから十年くらいその土地に住んだことがあった。
もう十五年以上その土地を訪れてはいなかったが、とても懐かしいと思っていたて、いつかもう一度訪れたいとずっと前から思っていた。
転居先は小学四年生まで通っていた小学校の近くに良い物件が見つかった。
かつて家族と住んでいたマンションはそこから歩いて二十分くらいのところにある。
辺りはすっかり変わってしまったが、小学校は昔のままだった。
ベビーブームの時に建てられたそうで、大きな学校で、僕が通い始める前に統廃合で生き残り、大勢の子供達が通っていた。
僕は毎日その小学校の前を通って会社まで歩いて出勤することとなった。
今では東京のベッドタウンになり、住宅ばかりがひしめいていて、他に何もない住宅街だったが、満員電車から開放されたのは嬉しかった。
仕事は年度初めで忙しかった。
東京本社に次ぐ営業成績の支社で、その支社の中でも営業成績が良い割には従業員は少なく、求人募集をかけても求める人材は中々集まらないらしい。
この辺りに住む人間は首都圏まで交通の便がよく、殆どが東京中心部の条件のいい会社で就職したがるため、近所の会社には見向きもしないらしい。
そんな訳で、僕は転勤早々から毎日遅くまで残業をした。
「少し落ち着いたら、必ず歓迎会を開くから」と課長は言ってくれたが、僕はそういう飲み会が苦手だったので、歓迎会が伸び伸びになってくれた方が嬉しかった。
その当時は今より世間は残業に五月蝿くなかったので、毎日九時過ぎまで残業した。時には十二時過ぎになることもあったが、会社から家まで歩いて十五分もかからない距離だったので、僕は率先して居残り組になって戸締まりを担当した。
ベッドタウンの夜は早く、夜十時を過ぎると、通りには人気は全く無くなった。幹線道路から一歩でも外れると、人っ子一人いない。
空も心なしか星の数が東京より多く見えるようだった。
僕が通っていた小学校の周りは、かつて桑畑と雑木林と広大な公園しか無かった名残か、未だに街灯が恐ろしいほど少なく、夜間営業の店舗なども全く無かったので、近くはもとより、遠くの店舗や住宅街から灯りが空に注がれることは全く無かった。
子供の頃、夜外出する時、曇っていて星明かりがなければ、必ず懐中電灯を持って外出したことを思い出した。
懐中電灯がないと、顔の前に伸ばした自分の掌さえ見えないほどの暗黒に包まれたのだ。押し入れの中に入ったように真っ暗だった。
その頃に比べれば、まだ明るかったが、帰宅時の足元はおぼつかなかった。
夜十時を過ぎて帰宅するときは、コンビニの店員以外出会う人は皆無だった。
その日も十時近くまで残業し、一人でゆっくりとした足取りで家路についた。
住宅街は森閑として、街灯の蛍光灯がジィジぃ鳴る音が聞こえるようだった。
半月が煌々と輝き、住宅の屋根や電柱の影が黒々と伸びていた。
行き交う人影はなく、遠くの方で救急車のサイレンが鳴っているのが微かに聞こえた。どこか見えないところで怒ったような猫の鳴き声が聞こえた。
風は全く無い。
街は温かい夜気に包まれていた。
僕は時々空を見上げ、星や月を眺めながら住宅街を歩いていた。
すると、ふと人の気配を感じた。
前を見ると、明らかに小学生くらいの男の子が三十メートルくらい先で佇んでいた。塾の帰りだろうか。こんな住宅街に塾なんてあるのかな、と思いながら男の子の方に歩いて行った。
その子は少し太ってて、小さい奥まった目と厚い唇の団子っ鼻の男の子だった。目は少し斜視気味だった。
その子がぼんやりと僕の方を見ていた。
親が迎えに来るのを待っているんだな、と思った。それにしても不用心な親だな。こんな寂しい所に子供一人で待たせるなんて…。
少年は両手の先をいじりまわしたり、時々僕のことをぼんやり見たり、暇を持て余していた。
その時は、只それだけで、僕は少年の横を通りすぎて家に帰っただけだった。
それから何度かその少年を目にするようになった。
場所はいつも同じ。どこかの家のシャッターが降りたガレージの前。
時間もだいたい同じで、十時前後だった。
だが、五回目くらいに会った時は、ちょっと違った。
深夜の十二時を過ぎていたのだ。
残業で疲れていた所為か、その少年の姿が目に入っても、その事にすぐには気が付かなかった。
五・六秒経ってから、事務所を出たのが十二時過ぎだと気付き、腕時計を二度見してしまった。
流石にこの時間に小学生が一人でいるのはおかしいだろう。家に連れて行ってやるか、警察に相談しないと不味いな、と思って少年に近づこうとしたその時、
右後ろの方で、「チョロチョロチョロ」という高い音と、本のページをパラパラ捲る音が混じったような音がした。
何だ!、と思って急いで振り返ったが、月光を浴びた住宅街が静かに佇むのみで、そこには何もなかった。
幻聴だろうか?やはり残業で相当疲れているのかもしれないな、と考え、前を向くとその少年は消えていた。
慌てて少年のいた場所に駆け寄り、横道や子供が隠れられそうな場所がないか確認したが、そんな場所は何処にもなかった。
少年が走り去る足音も聞こえなかったし、これもやっぱり幻覚なのかもしれないと思い、急いで家に帰った。
ゴールデンウィークが明けて何日かすると、漸く蜂の巣を突いたような忙しさから開放され、七時には家に帰れるようになった。
延び延びになっていた僕の歓迎会もかくして開かれることとなった。
「歓迎会」と云っても営業所近くの、近所の爺さん婆さんしか来ないような小さな居酒屋で、二次会もその近くのスナックだった。
どちらも二十人前後の営業所社員が入ると満席超えになり、事実上の貸切になった。
近所のスーパーで買ってきたような刺し身や塩っぱすぎるもつ煮込みなど、コンビニの惣菜が恋しくなるような居酒屋の料理で腹を満たすと、全員がスナックに雪崩れ込んだ。
若い女性事務員が、上司に気遣って浜崎あゆみや西野カナのカラオケで盛り上げ、それに釣られて営業課長のミスチルや経理課長のサザンで盛り上がりを見せ、僕にマイクが回ってくる心配は無さそうだな、と安心してウイスキーの水割りを飲んでいると、経理の松井さんが人の膝をかき分けて、自分の飲み物を片手に僕の隣に座り込んだ。
松井さんは四十代か五十代くらいの古株の女性事務員で、良く僕のことを訝しげな視線で見ていた女性だ。
仕事中も時々その疑わしげな視線と目が合って、彼女はその度に視線を逸らしていたが、何を勘違いして僕を疑った目で見ているのか、いつも不審に思っていた。
「やあっと気が付いたわ」彼女は僕の横にドスンと座るといきなりそう言って、ガシンと持ってきたウーロンハイのジョッキをテーブルに叩き置いた。
「えっ?何がですか?」僕は水割りを一口飲んだ。
「私、ずっと昔にあなたに似た人に会ったような気がしてたの」松井さんもウーロンハイをゴクリとあおった。
「ねぇ、あなた、この先の栗原第二小学校に通ってなかった?」イタズラっぽい顔で松井さんは僕に尋ねた。
正直、少し動揺した。会社に提出している履歴書には中学卒業以降の学歴しか記述していない。僕の小学校の学歴をどうして知っているのだろう。
僕は無言で頷いた。
「うわぁ~、やっぱりそうだったんだ。じゃあ、私の事覚えてる?」
僕にはさっぱり解らなかった。
担任の先生の顔は朧気ながら憶えている。保健室の先生や隣のクラスの先生の顔もなんとなく判る気がする。でも、目の前にいる松井さんとその頃会った記憶を僕の脳ミソの中から発掘することはどうしても出来なかった。
頭の中で松井さんの容姿を若くさせて、痩せた姿を想像してみたが、やはり憶えはなかった。
「う~ん」眉間にしわを寄せて考えていると、
「やっぱり、覚えてないか。無理も無いよね」と言って松井さんは微笑んだ。
「じゃあ、スミレ学級は覚えてる?」
その一言で、十数年前の記憶が鉄砲水のように押し寄せてきた。
………………
特別養護学級。通称、スミレ学級。
障害のため通常授業に耐えられない児童が通う、六学年一クラスの学級だ。知的障害の児童を主に、様々な障害を持つ子どもたちが通っていた。
スミレ学級は、栗原第二小学校の広い敷地内の正門近くに、ブロック塀と金網フェンスで四方を囲った平屋建ての小さな建物の中にあった。
小学校自体もコンクリートの塀で囲われていたから、二重の囲いの中にある施設で、健常者の児童と隔離されていた。
当時は障害者児童に対する偏見は今より酷く、障害児童に精神的な傷をつけないようにとの学校側の配慮だ。
スミレ学級に関することは、タブーで、児童たちの話に上ることも暗黙の了解のように避けられていた。どうしてもスミレ学級の話をしなければならない時は、必ず声を潜めて、先生に聞こえないように話したものだ。
「私ね、昔、あそこで子どもたちの世話をしてたの。皆からはまなみ先生って呼ばれてたけど、覚えてないよね?」松井先生は何処か遠くを見るような目でそう言った。
まなみ先生どころか、あそこにいた五六人の先生たちの名前も顔も思い出せないが、あそこであったことはよく憶えている。
僕が小学校に入学した時は、統廃合のためにかつてのマンモス学校の賑わいを既に取り戻していた。
一学年十クラス以上合ったし、一クラスの児童数も六十人以上いたのではないだろうか。
僕が入学するかなり前には児童数は激減していたらしいが、私鉄グループのベッドタウン計画が順調に進みすぎて、僕が入学する頃は既に、再びギュウギュウ詰め状態だった。
そこで僕達にとって一番の問題は、昼休みと放課後の校庭や裏庭の場所取りだった。
大抵は六年生の野球やサッカー、ドッジボールで占領されてしまう。裏庭は五年生の野球もどきやドッジボール。砂場や鉄棒、ウンテイなども六年生の女子連合が占領してしまう。
特に、三・四年生は分が悪く、早めに校庭に出て場所をとっても六年生に「どけ、どけ」と蹴散らされるし、低学年の子達が遊んでいる所を僕達が蹴散らそうとすると「低学年を虐めないの!」と先生に叱られてしまう。
だから僕たちは三年生になってからはいつも校庭の隅でブラブラしていた。
ある日の昼休み、僕と友達数人は正門近くで他のクラスの子達がドッジボールをしているのを眺めていた。
その辺りが四年生が使っても良いスペースだったが、いつも他のクラスの子達に先を越されてしまい、毎日のように他のクラスの子達のドッジボールや三角ベースを眺めるのが最近の常だった。
スミレ学級の緑色の金網フェンスに背をもたれて、どうでもいいようなお喋りをするのが日課だった。
だが、その日は金網フェンスの向こうに面白そうな
「玩具」というのは、スミレ学級の小さな庭越しに見える、カーペットが敷かれた教室の床や低いテーブルの上に置かれた文字通りの「玩具」だ。
人形、ぬいぐるみ、プラスティックの自動車、プラレール、巨大なレゴブロックとそれで作った、子供が数人本当に入れる家か城、それと何より僕の興味を惹いたのがトランポリンだ。
踏み台用の小さなトランポリンではなく、大きな四角いトランポリンだ。
大きいと言っても、十歳前後の子供の目から見て「大きい」と感じたのであって、本当は子供用の小さなトランポリンなのだろうが、子供が五人くらい遊べそうなトランポリンだから、子供から見たらやっぱり大きいものだ。
僕はテレビで何度か見たことがあり、アレはきっと面白いだろうと思っていた。
「ねぇ、この中に入って、あのおもちゃで遊ばない?」僕はフェンスの中を指差して友だちを誘った。
「ええっ?だって、ココ鍵かかってて入れないよ」友達の一人が言った。
僕は黙ってフェンスの上を指差し、空を眺め、再び友達の方を振り返って頷いた。
「ここ登るの?」もう一人の友達が目を丸くして僕の方を見た。
「駄目だよ。バレるって。絶対先生に叱られるよ」
友達はみんな尻込みした。
しかし、僕は勉強もできなくて運動も音痴だったけど、人を誘惑したり、誘導術には幼い頃から長けていた。
「大丈夫だよ。ここの先生はいつも昼休みには別の部屋でご飯を食べて、昼休みが終わるまで出てこないから」
実際、僕は一週間ほどスミレ学級を観察していた。
それでもみんなは話に乗ってこなかった。フェンスの高さは子供の僕達にとっては刑務所の壁のように高く、それを乗り越えて侵入するのは流石に罪悪感が合ったし、バレたら相当お灸をすえられるのは目に見えていた。
そこで、僕はすぐ隣りにいた同じクラスの三人の女子にも誘ってみた。教室の中にはどちらかと言うと女の子が喜びそうなおもちゃのほうが沢山あったからだ。
普段は女のことなんか絶対に遊ばなかったが、女の子がこの冒険に参加したら、男の子は参加せざるを得ないと考えていた。
男の子というのはそういう変なプライドのようなものを小さい頃から目覚めさせているものだ。
案の定、女の子は目をキラキラさせて魅惑の教室に見入った。
「でも、怒られない?」
「大丈夫だよ。あの子達と遊んであげるんだよ。それでなんで怒られるのさ」
スミレ学級の児童はみんな僕達より年下だった。
「そうだよね。仲良く遊んであげるんだもん。悪いことじゃないよね」もう一人の女の子が母性本能を刺激されて賛成し、他の女の子も同意した。
かくして、僕ら男女十人足らずの小学四年生は、本校始まって以来の「校内家宅侵入行為」という犯罪に手を染めたのだ。
フェンスによじ登り、小さな庭を腰をかがめて走り、先生の姿が見えないのを確認すると、開けっ放しになっていたガラス戸に近づいた。
「ねぇ、お兄さんたちと遊ばない?」僕がガラス戸の外から教室の子供達(僕達も充分子供だったが)に話しかけると、障害児童たちは満面の笑みを浮かべて僕達に走り寄ってきた。
「あ゛ーっ、あ゛ーっ、あ゛ーっ」
「ぶーぶ、ぶーぶ」
「あそぼ、あそぼ、あそぼ」
両手を広げて大勢の子供達が僕に抱きついた。殆どの子たちは興奮しすぎて言葉出ずに擬音語しか口から出てこなかった。
中には足腰が悪いらしく、這いずって近づいてくる子供もいた。
女の子は靴を捨て脱いで、教室に飛び上がると、脚の不自由な子供たちを抱き上げて「お姉ちやん一緒に遊ぼうね」と頭を撫でていた。
男の子たちは及び腰で、スミレ学級の先生が出てこないか、ビクビクしていた。
しかし、僕が障害児童といっしょにおもちゃで遊んでいるのを見ると、オズオズと靴を脱いで教室に上がってきた。
そして、僕は一番最初に僕に抱きついてきて、この学級の中で一番年上そうな「ちーくん」という男の子と念願のトランポリンで遊んだ。
トランポリンは想像以上に楽しかった。教室の天井スレスレまで飛び上がる感覚は、当時四年生だった僕にとっては、空を飛ぶのと同じくらい気持ちの良い体験だった。
一緒にトランポリンに上がった、ちーくんも僕が思い切りトランポリンを蹴る振動で何もしなくても高く飛び上がれることが楽しいのか、大声で笑っていた。
他の子たちも楽しく遊んでいるようで、教室は割れんばかりの笑い声で満たされていた。
周りを見ると、おままごとをしている女の子やバランスボールで遊んでる男の子、ブラスティックのミニチュア滑り台で遊んでいる子、障害者の子を宥めすかせながらプラレールで遊んでいる子が見えた。
「そろそろ、昼休み終わるよ」
誰かの声で、時間を忘れて遊んでいる自分に気付き、急いで教室から抜けだした。結局、スミレ学級の先生が現れることも、叱られることもなく、昼休みが終了した。
それに味をしめ、僕たちは毎日昼休みになるとスミレ学級に潜入した。
知らないうちに徐々に仲間も増えていった。特に女の子が多いようだった。
先生達の目を盗んで新たな遊び場所を得たことに僕らは興奮していた。こっそり侵入する、という火遊び的な快感もあった。
所が、十日ほど経った月曜日の朝礼で、校長がとんでもないことを言った。
「えー、最近、昼休みにスミレ学級の子供達と遊んでくれている生徒たちがいます。スミレ学級の子供達は大変喜んでますし、校長先生も大変嬉しいです。そのような優しい生徒たちが本校にいて、校長先生は誇らしいです…」
僕たちの行動は全て知られていた。
今考えると、何も不思議はない。障害者の子供達から先生が一時たりとも目を離すはずがないのだ。きっと、何処か見えないところからぼくらを観察していて、それを逐一、ボスである校長先生に報告していたのだ。
僕は混乱した。
校長は朝礼では僕らを褒めていたけど、本当に褒めているのだろうか?本当は何か裏があるのではないだろうか?僕等は優しい子でもなんでもない。おもちゃで遊びたいと思って勝手に侵入した只のいたずらっこだ。現に担任の先生はそのことについては全く触れない。叱りもしないが、褒めもしなかった。なにせ、あの学級は
その後はあまりスミレ学級に行かないようになったと思う。その後すぐに僕は転校してしまったので、そのへんの記憶は曖昧だ。
「校長先生が朝礼で君達のこと話してから、君達来なくなったでしょう?」まつさんはウーロンハイをゴクリと飲んだ。「それであの子たち寂しがっちゃって泣くものだから、私達、あなた達のクラスを探しだして、明日から来てくれるようにお願いしに行ったのよ」
「へぇ、そんなことあったんですか…」僕はすっかり忘れていた。
「そうよ、まぁ、君はその後すぐに転校しちゃったから、覚えてなくても当然ね」
「そんなことまで知ってたんですか?」
「ええ、あの頃、ちーくんて男の子いたでしょ?」
僕は水割りを飲みながら小刻みに頷いた。
「あの子、あなたに懐いててね。急に来なくなっちゃたから、いっつもヒステリー起こしちゃって…。で、あなたのクラスの担任に聞いてみたら、転校しちゃったって。あの子を納得させるのに時間がかかったのよ」
「スイマセン」とは言ったものの果たしてこれも自分が悪いのだろうか?
「でも、あなたには感謝してるのよ。あの時の首謀者はあなただったんでしょ?」
何から何まで知られていた。僕の顔が一層赤くなったのは酒のせいだけではない。
「あなたがいなくなってから、本校でボランティアのプログラムを入れてくれたの。他の先生やPTAは猛反対したけど、校長が押し切ったみたい。あの子達と遊んでくれるお兄さんやお姉さんが増えて、みんな喜んでたわ」
松井さんは何かを考えるような顔をしてウーロンハイをゴクリゴクリとゆっくり飲んだ。
「障害者の子がね、社会に出れるかどうかは、あなた達みたいに受け入れてくれる人がいるかどうかだけではないの。あの子達自身が受け入れてもらえるという自信が持てるかどうかにも掛かってるの。あの子たちは、自分達を理解してくれるのは家族や学校の人達だけではない、ってきっと分かったと思うの。だから、感謝してる…」
僕は何も言えなかった。僕は何も大層なことをしたわけではない。自分が遊びたかっただけなのだ。『禁じられた遊び』を楽しんでいただけだ。
「ちーくんもあなたにお礼がしたいって言ってた。『ありがと』って言いたいけど、いつも楽しすぎて何も喋れなくなっちゃって、いつも言えないってあなたが帰った後、いつも言ってたわ」松井さんは、懐かしそうな、悲しそうな顔で言った」
「ちーくん、今はもう大きくなってるんでしょうね?」僕は、なんだか気持ちがもぞもぞして、タバコに火をつけた。
「あの子、亡くなったのよ」
「えっ、…?」思わずタバコを落としそうになった。
「免疫系も弱い子でね。風邪をこじらしちゃって、肺炎になってね。亡くなったの。あれから一年くらい後位かしらね…」
二次会がお開きになり、僕は重い足取りで家路についた。
静まり返った住宅街の空には赤く輝く木星と、煌々と光る満月が見えた。
今夜は月光が眩しすぎる。
例のガレージの前まで来ると、例の子供がいるのが見えた。
二時をとっくに回っていたが、いるような気がしていた。
彼は僕が近づいてくると、タタタタッ、っと走ってきて、僕の十メートルくらい前で止まった。
月光を背にしていても、その顔はよく分かる。
ちーくんだ。
僕が話しかけようとすると、ちーくんは深々と僕に頭を下げた。
経験豊富な営業マンのように…。文武優秀な侍のように…。
「ちーくん…」僕は一歩踏み出した。
すると、次の瞬間、ちーくんは掻き消えていた。
僕の胸に悲しさと虚しさと寂寞感が湧き上がってきた。
ジリジリと月光の音が聞こえるような気がした。
「そうか…。言葉なんてなくったって、分かり合えてたもんね」
僕はそう呟いて、にっこり笑った。
だが、何故か次から次へと涙が溢れだした。
それから二度とちーくんは現れなかった
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます