桜の木の下

 また、マスカラがダマついて睫毛が上手く決まらない。買ってまだ間もないマスカラなのに。新しいマスカラに変えようかな。


 鏡を覗き込むと、目の下にほんの僅かにクマがあった。よく見ないと判らない程度だが、急いでコンシーラーで隠す。


 ファンデーションを塗って、鏡に顔を近づける。

 じっと見つめてから、上半身が見えるくらい鏡から遠のいて自分を見つめる。


 最近、何故か自分の姿を意識してしまう。とりわけ嫌いな顔ではない。自分でも満足できる顔立ちだが、自惚れるほどのナルシストでもない。


 何故か、自分の姿に違和感を感じてしまうのだ。


 疲れが溜まっているせいかもしれない。


 最近、疲れで身体がだるく、それはすぐに顔に出て、メイクに時間が掛かる。

 毎朝、メイクに時間を取られ慌ただしく家を飛び出す。


 疲れの原因は勿論、仕事だ。


 景気が良くて仕事が忙しいなら、しょうがないが、私の部署だけでもこの春に四人も会社を辞めてしまったので、その分、みんなの仕事が増えてしまい、急に忙しくなってしまった。


 最近は残業するのも煩く、就業時間内に終わらせるよう上司はキツく言ってくる。採用募集かけているが、中々思うように人が集まらない。だから毎日、時間外勤務申請書を書いて残業しなければならない。


 最近は残業で疲れ果て、一刻も早く家に帰りたくて、帰りもショートカットのコースで帰宅する。


 最寄り駅と私のマンションの間には大きな公園があり、昼間はその公園の中を突っ切って駅に向かう。

 しかし、夜はやっぱり怖いので迂回して人通りの多い道を歩いて帰っていたが、夜の公園もジョギングやウォーキング、犬の散歩の人などが結構いて、街灯が多い真ん中の道を歩いていけば、女の子でもそう危険はないことが判り、最近は夜も公園を突っ切って家路を急ぐ。


 この公園はかなり大きく、真ん中の広い道で二分されている。その片方が野球やサッカーが出来るグラウンドになっていた。

 もう片方はテニスコートが二面と、子供達が遊ぶ遊具、スケートボードなどのローラースポーツをする広場などがあり、公園全体にはぐるりと遊歩道が巡っていた。


 ある時、遊具近くにある大きな桜の木の下に女の人が立っているのが目に入った。夜の十時過ぎだったから、一瞬ビクッとした。


 しかし、はっきりとした存在感があって、すぐに普通の女の人だと判った。

 同じ視界の中には、ジョギングの格好をした男の人が柔軟体操をしていたし、犬の散歩をしている中年の女の人もいた。

 その二人と比較しても、実体感のある人間の女だった。


 桜の樹の下で白っぽい服を着ていたので、幽霊か何かと思ってしまったのようだ。


 こんな夜中に何してるんだろう?

 ちょっと疑問に思ったが、公園を抜け出るとすぐに忘れてしまった。


 その後、何度もその女の人を桜の樹の下で見かけた。


 必ず白っぽい服で、ワンピースかトップスと揃いのスカートでハイヒールを履いていた。パンツを履いているところは見たことがない。


 誰かと待ち合わせしているような感じで、服装からして明らかにデートのようだったが、待ち合わせの相手と一緒のところは見たことがなかった。


 ちょっと離れたところだったし、桜の枝や遊具で顔はよく見えなかったが、胸辺りまである髪の毛と細いスタイルで同じ人だということは判る。


 公園で見かける度に、何をしているのか不思議に思うけど、本人に直接尋ねる訳にも行かず、過ぎ去るのみ。


 ある日、仲の良い同僚の女子とランチをしている時に、その話をしてみた。


「えーっ、ヤバイよ、結衣。その公園、出るって噂だよ」と恵理が少し大きな声で言った。


「出るって、幽霊とか?馬鹿ねぇ、そんなわけ無いじゃん。その人だってちゃんと現実の人間だったよ。足だってあったし」


「アハハハハ、足のない幽霊なんて古い怪談じゃん」恵理は高らかに笑った後、急に真剣な顔になった。「白っぽい服なら、それ、幽霊だよ、絶対…」


「白い服の幽霊こそ、古い怪談じゃない。昔は死に装束のままでデルから、幽霊は白い服って言われてたんだよ」ムッとして軽くリベンジしてやった。


「でも、出るって噂だもん」恵理は顔を赤くさせて、ムッとふくれた。


「ホントかどうか分からないけど、私も噂は聞いたことがある」景子が恵理を庇うように言った。「どっちにしろ、女の子なんだから夜の公園はヤバイよ」


「そうだよ。桜の木の下に立ってたんでしょ?それって本物かも…」麻美子が自分の肩を抱いて身震いした。


「どういうこと?」私が口を開く前に恵理が尋ねた。


「よく言うじゃん。桜の木の下には死体が埋まってるって…」


「ちょっと、やめてよ~」三人が同時に麻美子に非難を浴びせた。



 三人がどう言おうが、私は心霊現象などは信じていなかった。そういうのは疲労が溜まった時に起きる錯覚・錯乱でしかない。


 でも、あの女の人には何か違和感を感じるのは確かだ。それと、いつか何処かで会ったことがあるような気がしてならなかった。


 その数日後、また公園で彼女を見た。


 その日は白いワンピースに桜色のハイヒールだった。

 歩く足並みを緩め、じっと観察してみた。


 相変わらず、あの樹の下に立ち、誰かを待っているような様子で、じっと地面を見つめていた。


 少しうつむき加減にしているので顔は良くわからない。長い髪のせいで顔の輪郭も定かではない。桜の枝と葉が街灯の明かりを遮っているのもよく見えない原因の一つだ。

 それなのに、真っ白いワンピースのせいで、くっきりと目立っている。


 そして、違和感も…。


 しかし、どこか出会ったかは、全く思い出せなかった。

 もしかしたら、テレビの中か、私の遠い記憶の彼方かもしれない。ふとしたことで、忘れ去ってしまった過去の記憶…。


 もどかしく思いながらも、だからといって近づいて確かめる勇気はなかった。もし、彼女が私の知り合いではないのなら、いきなり近づいてくる私のことを気味悪がるだろう。

 私はそのまま公園の裏口へ向かって歩いて行った。


 その日、家に帰って何気なくテレビを見ていて、あの違和感の理由が判った。


 テレビは何ヶ月か前に収録したロケ番組で、桜が満開に咲いていた。


 そうだ、葉桜の季節に桜の花が咲いているかのような違和感だったのだ。何か本能的に季節外れの桜の花を連想していたに違いない。私はそう自分に言い聞かせた。ぼーっとして歩いているから、そういった無意識の連想が奇妙に感じてしまうんだ。


 私はテーブルの上の鏡で自分の顔を見て、やっぱり少し疲れてるな、と思った。

 最近、疲れが顔に出るのを気にして、鏡を覗く機会が随分増えた。そんな自分が嫌だった。



 数日後、また彼女を公園で見かけた。また桜の木の下だ。

 数日前の季節外れの桜の違和感は全くの的外れだと気付いた。


 確かに彼女は私が知っている人だ。


 そして、いつも彼女は私の方に顔を向けていた。── それが違和感だった。


 彼女も私を知っている。だから、私の方を見ているんだ。そんな直感が走った。



 誰だろう?


 私は公園の真ん中で足を止めて、彼女を見つめた。


 彼女もこちらに顔を向けている。うつむき加減に。


 前髪の隙間から、こちらを見ているのだろうか?


 確かに、私がよく知っている人だ。間違いない。だが、どうしても誰だか思い出せない。


 私は意を決して、彼女の方に歩いて行った。


 私が近づくと、彼女はさっと背中を向けた。見たことのある背格好。誰だろう?



 私が目の前まで来ると、彼女は小さな声で言った。


「やっと来たのね」よく知った声で。






 振り向いた彼女の顔は、





 まぎれもないこの私の顔だった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る