髑髏
おキヨ婆さんはとても元気で明るい婆さんだった。
颯爽と愛車を乗りこなし、買い物は勿論、旅行まで車で行ってしまうという、とても元気なおばあさんだった。
僕とおキヨさんは同じアパートに住んでいた。
マンションではなくアパートだ。
木造二階建てで少なくとも築三十年以上の昭和ボロアパートだ。
このボロアパートで唯一いいところは隣接する敷地に駐車場が付いていることだ。アパート住人には格安で駐車場を貸していたので、安月給でも車を持ちたい人間には魅力的だ。
東京の月極駐車場代は恐ろしく高い。高いところは月五万円以上する。車を所有するとなるとその諸経費だけでもとんでもない金額になってしまう。
だから、車を持ちたいと思っている安月給者は大抵、近隣の県に住むのが普通だ。
都内の大きな街の近くで駐車場付きの格安物件となると、僕の住んでいるアパートのような物件になる。
四畳半二間の2DK。十世帯分のアパートだが、入っているのは四世帯だけだ。
僕を含め、アパートの住人四人はみんな車が手放せない人達で、立て付けが悪く、夏は暑くて冬は寒い住居でも車には代えられないと思う連中ばかりだった。
おキヨさんはドライブ旅行が趣味で特に温泉に行くのが好きだった。
旅行から帰ってくると、アパートの皆に土産を配っていた。
おキヨさんは元気でエネルギッシュで社交的な素敵なお婆さんだった。
旅行土産だけでなく、おかずを作りすぎたと言っては、アパートのみんなに惣菜をおすそ分けしてくれた。
「おキヨさんの肉じゃが、もう食べれないのね」
いつもゴスロリファッションでビジュアル系パンクバンドの追っかけをしている瑠璃花ちゃんが柄にもなくさみしげにつぶやいていた事を思い出す。
おキヨさんは皆から愛されていた。
活発で明るいおキヨさんがふさぎ込みがちになったのはいつの日からだったろうか。
急に元気がなくなり、部屋に篭もるようになった。
時々、アパートの近くで会っても、いつも、何だかビクビクして怯えているようになった。
何かぶつぶつと独り言をつぶやいていた時もある。
そして、段々痩せ細ってひと回り小さくなっていった。
ある時、車で帰ってくると、駐車場におキヨさんの車がないことに気付いた。アパートの入口でおキヨさんに会ったのて、尋ねてみると、免許を返納したと上目遣いの暗い顔で静かに言った。
「もう歳ですから、そろそろ年貢の納め時かと…」
いつものおキヨさんらしからぬ台詞だった。
おキヨさんは口癖で、「まだまだ若いのよ」といつも言っていたのに…。
車を手放したおキヨさんは抜け殻のようになってしまった。
よく徘徊するようにもなり、自分のアパートの場所が分からなくて迷子になったり、訳の分からない独り言を言ったり、すっかり呆けてしまった。
「やっぱり、車を運転できなくなったからおキヨさんはおかしくなってしまったんですかねえ」
ある時、僕はアパートの前で三島さんと、まだ幼い息子さんと暮らしているバツイチの麻奈美さんとの雑談の中で言った。
「ううん、温泉に旅行に行った後からなんだかおかしかったわ」と麻奈美さんが言った。「いつもお土産を買ってきてくれるのに、何も買ってこなかったし…」
「旅先で何か合ったのかなあ」と眉をひそめて三島さんが言った。
「帰ってきた時、駐車場で会ったけど、背中を丸めちゃって、何かを背負ってるみたいだったわ」
「あんなに背筋がピンとしてシャキッとしてたのにね」僕は元気だった頃のおキヨさんを思い出しながら言った。
アパートは大家さん宅の敷地内にあったので、おキヨさんの奇行に大家さんがすぐ気付き、役所に相談に行った。
ある時、白いワゴン車にのった二人の男がおキヨさんの部屋にやってきた。
土曜の昼過ぎで、丁度、一階に住むカーマニアの三島さんと雑談をしていた時だ。
「民生員かな?」三島さんが言った。
二人が部屋にはいると、何やら話し声が聞こえた。
暫くすると、おキヨさんの悲鳴と叫び声。それを
やがておキヨさんは二人の男に引きずられるようにしてドアから出てきた。
「やだよぅ。やだよぅ。
後で聞いた所によると、おキヨさんは甲州街道近くにある大きな病院に入院したそうだ。心の病を扱う病院に。
おキヨさんには他に身寄りもなく、家財道具はなんとか見つけ出した、遠縁の人が渋々引き取ってくれたらしく、数日してから引っ越し外車の2トントラックが何処かへ運んでいった。
おキヨさんが借りていた駐車場は、免許を返納して車を処分するとすぐに大家さんは店子以外の人間に借り手を見つけていた。部屋と駐車場のバーターじゃないと部屋の借り手は見つからないのだが、大家さんは既に部屋の借り手を探すことを諦めてしまったらしく、他の六つの駐車場も店子外に貸していた。
不思議な事に、おキヨさんの部屋が空っぽになる同時に、駐車場の借り手が契約を解除してしまった。他と比べて格安だった為にすぐにまた借り手が見つかったが、一ヶ月借りただけで、契約を解除してしまった。
以来、おキヨさんの駐車場だけ歯が抜けたようになってしまった。
おキヨさんがアパートからいなくなって数ヶ月が経ち、寂しさも和らいだ頃、僕は会社で気の合う友達を見つけた。垣内という名の同期で、部署が違うため、今まで話す機会もなかったが、あるプロジェクトで出会い仲良くなった。
一緒に飲みに行こうと言う話になったが、お互い住んでいる場所が、会社から反対方向だったので、中々実現しなかった。
垣内も車を持っていたので、空いたままのおキヨさんの駐車場に彼の車を停めて、僕の家で家飲みは出来ないかと考えた。
大家さんに尋ねてみると「友達が来る日にちをあらかじめ教えてくれれば、好きに使っていいよ」と言ってくれた。
垣内に僕の家で飲む話をすると「カネがかからなくていいし、車で帰れるから楽だな」と喜んでのってきた。
そして、ある週末の夕方、垣内が車で僕のアパートまでやってきて、夜遅くまで飲み会をした。話は弾み、盛り上がった。
「また飲み会をやろうな」と言って垣内は翌日の昼近くに愛車で帰っていった。
その後、平凡な日々が繰り返され、数週間が経ち、またパッと盛り上がろうと言い出したのは僕の方からだった。垣内も会社と家の往復だけの生活に倦んでいたらしく、喜んで賛成した。
飲み会をする週末、垣内はやけに早くやってきた。
まだ日の高いうちだった。
おキヨさんの駐車場に垣内のスポーツタイプのチューンナップ車を停め、二人で近所のスーパーに買い出しを行った帰りに、アパートの入口で偶然三島さんと会った。
「駐車場に止めてあるGTウイングの車、あなたのですか?」と三島さんが垣内に聞いてきた。
垣内はそうだといい、駐車場に停めてあった三島さんの車が気になっていたと言った。
二人は車の話で意気投合し、井戸端話が盛り上がった。
そこで僕はこれから垣内と飲み会をするので三島さんも一緒にどうかと誘うと、三島さんは喜んで頷いた。
僕はただ車に乗るだけで満足していたが、三島さんも垣内も車いじりが大好きで、給料の大半を車につぎ込んでいるという。
「やっぱり、夜の峠とか攻めたりするんですか?」三島さんが水割りのグラス片手に垣内に尋ねた。
「ひと月前くらいまではやってましたけど、もうやめました」と垣内が急に真剣な顔になって言った。
「そうなんですか…」三島さんが少し悲しそうな顔で言った。
「峠だけじゃなく、夜は走らないことにしたんです」垣内の顔は心なしか白かった。
「へぇ、そりゃまたどうして?」僕はさきイカを咥えたまま尋ねた。
「深夜、高速とか走ってると、気付いたら、周りに車が一台もいなくなることあるだろ?そうするとついてくるんだよ」
「ついてくる?誰が?」と僕。
「髑髏だよ。三メートル位ある巨大な首だけの髑髏が俺の方を向いたまま、オレの車の横をおんなじスピードで付いてくるんだ…」
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