道祖神
「あっ、そっちはダメだ。すぐに右折しなさい!」
顧問監査役がいきなり大声で怒鳴るのでビックリしてしまった。
第三京浜の玉川インターを左折すると同時に監査役は後部座席から身を乗り出して、いきなり怒鳴ってきたのだ。
顧問監査役はかなりの高齢で、身体はもう縮んでしまって、いつもニコニコした「可愛いおじいちゃん」と言うような人だったから、あんなに物凄い形相で怒鳴って来られると、私はかなり焦ってしまった。
私はすぐに右折レーンに入ろうとしたが、朝の渋滞中の環状八号線で急に車線変更するのは難しく、ひとつ先の交差点で漸く右折レーンに入れた。
私は環八外回りから3号渋谷線の用賀インターで高速に乗るつもりだったので、他の横道など調べておらず、どうやって高速か246号線に乗ろうかと、カーナビをいじって必死に調べていると、監査役は、
「ああ、道は私が教えるよ。そんなことよりちゃんと前を見て!ここいらへんも相当アブナイんだから!」と後ろから大声で言った。
私は監査役の指示に従い、細い道をいくつも曲がって駒沢公園通りという道に出て、漸く246に出ることが出来た。
246もその先の山手通りも朝の渋滞まっただ中だったが、漸く知っている山手通りまで出れたのでホッとした。
私が週に一度の監査役の出勤日に送迎の役を仰せつかったのは、ただ単に私のマンションが監査役の家に近かったからという理由だけだった。
それまでは監査役は自分で車を運転していたが、監査役は高齢のために免許証を返納してしまい、その為私が送り迎えをする事となった。
港北ニュータウンの私の家から歩いて五分ほどの距離に監査役の家があり、初めて送迎する際、ETCが付いているから高速に乗ってもいいよ、というので私は迷うことなく都筑インターから第三京浜に乗り、環八から用賀インターへ入ろうとしたのだ。
瀬田交差点がいつも渋滞しているのは知っていたが、それが一番早いと思っていた。しかし、玉川インターを出る時、瀬田方面ではなく、羽田方面から出て、すぐに目黒通りに出て、一つ目の信号で左折すれば、駒沢公園通りに出て、そのまま246に出た方が速いのだと、後になってから監査役に教えてもらった。
だから、あの時監査役が怒鳴ったのは、混んでいる環八と渋谷線に乗ると時間が掛かるからだと思っていた。
その後、半年もしないうちに会社が代々木八幡から三宿に移転するとともに私も川崎の梶が谷に引っ越してしまったので、私のお役は御免となった。
私の代わりに運転手役に抜擢された私の上司は相当私を恨んでいただろう。
監査役の送り迎えが無くなった代わりに、今度は妻の送り迎えをしなければならなくなった。
通常の勤務の時は私と一緒に東急田園都市線に乗るので問題ないが、妻は仕事上、頻繁に飛行機で日本中を駆けずり回っているので、週に二度程、羽田から自宅まで送ってあげなくてはならなくなった。
今までは京急羽田線で京急蒲田で乗り換えて横浜まで行き、そこから市営地下鉄に乗ればすぐだったが、引っ越してからは、京急蒲田からJR蒲田駅まで五分ほど歩き、京浜東北線で大井町まで行き、そこから大井町線で二子玉川まで行き、さらに田園都市線で梶が谷までいかなければならなかった。
乗り継ぎが一つ増えただけならまだしも、京急蒲田からJR蒲田までの距離が徒歩では結構辛いようで、「疲れているのは分かるけど、お願いよ」と頼まれては断るわけにも行かない。
妻も私の仕事のことを考え、なるべく遅い便で帰ってきてくれるので、帰宅してから羽田まで向かうのは正直つらいが、結婚してからお互い仕事の都合で一緒に外出する機会が減っていたので、夜のドライブにはピッタリだ。
九時を過ぎると環八も246も空いているので、一時間もしないで自宅まで着く。なにせよ、環八をまっすぐ走り、瀬田で左折すればいいだけだ。瀬田交差点も外回りの左折は左折専用レーンなので車も少ない。
ある時、いつもの様に羽田から妻を助手席に乗せて、環八を走っていた時、玉川インターのカーブを曲がって暫く走った辺りで、何か煙かモヤのような白いものがスッと交差点を横切った。それと同時にバンッと云う音、いや音というより頭の中で何かが鳴ったような感じだ。
「何だ?」
「何?」
私と妻は同時に叫んだ。
「今なんか横切ったよな?」
「煙か蒸気みたいだったど…」
「お前にも見えたか?」
「あなたも?」
二人は同時に同じものを見たようだったが、それが何だったのかは判らなかった。結局何もなかったので、そのまま家まで帰った。
それから一月ほどして、あのことはすっかり忘れてしまった頃、またあの白いのが現れた。
いつものように羽田空港で妻をピックアップし、環八を走り、そろそろ瀬田交差点に差し掛かろうとしていた時、左から私の車の真ん前にスッと白い煙が飛び出して来た。
私は咄嗟にブレーキを踏んだが、隣の車はそのままのスピードで走っていった。
白い煙は右折しようとしている対向車線のセダンに当たり、そのまま通り抜けていった。
その時、いきなりそのセダンが曲がってきた。
私は更に強くブレーキを踏んだ。
セダンは私の横を走っていた車の横に激突し、激突された車は、私の車の直前を飛んでいき、ガードレールに当たり、跳ね返って右の方に転がった。
衝突した方も前がぺしゃんこになり、後続の車がよけきれずにぶつかった。
ぶつかった方の車はボンネットが吹き飛び、エンジンから火が燃え上がった。
私は車を停めて、トランクを開き、中に入っていた消火器を持って燃え上がっている車に近づいた。
キキーッ、キキーッ。
後続の車も次々と停車して車を降りてきた。
「救急車だ!救急車を呼べ」
「誰か、警察に!」
次々と消火器を持った人達が車から降り、私はその人達とともに炎上している車の消火活動をした。
「こっちはドアがあかない!」
「おい、意識失ってるぞ!」
あちこちから救助している人の声がした。
「動かさないで!私、看護師です!」
後ろの方から女が駆けて来た。
「私は医者です。ちょっとそこをどいて!」
「そこのコンビニでAED借りてきて!」
次々と救助の手が加わる。
「ちょっと、何、この匂い?」後ろで妻の声がした。
振り向くと、妻が口を抑えて咽ている。
私の後をついてきたようだ。
「ガソリンの匂いだ」
私はよろけそうになる妻を抱きとめた。
「油じゃない…。何この匂い…」ケホ、ケホとまた咽る。
「どうしました?」
私服の看護師が駆け寄ってきた。
「ちょっと、目眩がして…」妻が言った。
「事故を見た事でショック症状を起こしてるんだわ。うちは近いの?」妻の脈を図り、目を覗き込んだ後、看護師は私の顔を見て言った。
「ここから五分位のところです」
「すぐ家に帰って寝かしてあげて。朝になっても治らないようなら最寄りの医者に診てもらって」
そう言うと看護師は走って事故車両の方に戻っていった。
私は救助に加わるべきだと思いながらも、妻のぐったりした顔を見ているとそういうわけにも行かず、妻を助手席に乗せ、飛び散った車の破片や残骸をよけながら、事故現場を後にした。
家に帰る途中で、私は妻に白いモヤを見たかと聞いた。すると妻は見ていないと言った。私の錯覚だったのか?
いや、確かに見た。その時、監査役の言葉を思い出した。
「この辺りもかなりアブナイんだから」
あれはどういう意味だったのだろう?
翌週の監査役出勤日を待って、監査役に聞いてみよう。
翌週、監査役に昼食を同席させてもらいたいと申し出ると、監査役はいつもの様に人のいい笑顔で承諾してくれた。
昼になると、監査役はいつも行くという老舗のソバ屋に連れて行ったくれた。
監査役が頼んだ海老天せいろそばと私が頼んだ大盛りせいろそばが届き、何口か啜った後に、私は先日の事故の話をした。
監査役はそばを啜りながら、黙って頷きながら話を聞いていた。
「監査役が危ないと言っていた道です。何かご存知なのですか」
監査役は頬張った海老天を咀嚼しながら暫く考え込んでいた。
「うーん、こういう表現はしたくないんだか…。厄だな…」
「ヤク?」
「厄介の厄だよ。今の人は地縛霊とか言ってるみたいだがな。私はそういう言い方は気に食わん」
私は監査役がそんなオカルトめいたことを言うので驚いた。監査役は現実主義で幽霊とかUFOとかは信じない人だ。
「昔はああいう辻には道祖神を祀ったものだよ。災いが入ってこないようにな」
監査役はまた一口蕎麦を啜った。
「私も信じがたいのだがね、道祖神を祀ると、不思議と災厄が無くなるのだよ。厄が走り回らなくなるんだな」
「厄は走り回るんですか?」
「そうだ。走り回るから厄介なんた。じっとしとれば何もない。だから、じっとさせる為に道祖神を祀るんだ」
「走り回る霊が、人間に危害を加えるって事ですか」
「うーむ、霊と言っていいのかどうかは分からんが、ソイツは悪さをしようとして何かするわけではないんだ。只、どういう訳か、辻に道祖神を祀ると大人しくなる」
「じゃあ、ソイツと事故はやっぱり無関係なんですね」
「いや、恐らく関係があると思うよ」
監査役はまた蕎麦を啜った。
「私の友人の言い方で言うとな、地縛霊はよく目が見えないので、人や車が流れていく方向に進もうとするんだそうだ。交通量が少なければ、行動範囲も小さいが、交通量が多いと行動範囲も広がる。だから、道祖神を祀ってそこから動けないようにするそうだ」
監査役はまた一口そばを口に入れた。
「道祖神ですか…」
「道の神様だな。だが、古代の神様だから、荒ぶる神と云うわけだ…。認めたくないが、昔の人は良く物が見えていたように思える」
監査役はししとうの天ぷらを口に放り込んだ。
「私は何度もソイツを見たことがある。白い煙のようなものだ。あの辺りは頻繁に走り回っとるよ」
私は背筋が寒くなり、全身に鳥肌が立つのが分かった。
「問題はソイツが人間の体にぶつかってすり抜ける時、魂を引っ張っていくということだよ」
「魂を引っ張る?」
「ああ、実際は頭が真っ白になったり、信号や周りの車が見えなくなるんだろうな。脳の一部が機能しなくなるんだと思うよ。それで事故が起きるんだ」
「じゃあ、やっぱりソイツが事故を起こしてるんですね?」
「そうは言っとらんよ。ソイツは只々走り回ってるにすぎん。何の考えも持たずにな。人間が当たって脳に支障をきたすなど考えてもいないんだ。まぁ、本当のところ、私は磁場や電磁場なんかが働いてるんだと思うがね。或いは人類がまだ知らないエネルギーがあって、ソイツが脳に影響を与えてるんだと思うよ。でも、それも証明できん。不思議な力、としか言いようが無いな」
「ソイツに匂いとかはありますか?」
「はて、そんなことは聞いたこともないし、体験したこともないな。頭の中で、バンッ、と大きな音を立てることは時々あったけどな」
監査役はそう言うとお茶を一口飲んだ。
「魂を引っ張るんですか…」
監査役は何も言わなかった。もうそれ以上自分は何も知らないと無言で語っていた。
私はその現象が霊の仕業なのか、自然現象なのかはどうでも良かった。
霊が存在するなら、それはそれでいい。
あの事故以来、すべての記憶を失ってしまった妻の記憶が戻るなら…
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