猫じゃ猫じゃ

安良巻祐介

 

 近所の猫が念仏を唱えているというので、そんなおかしな話があるか、漱石髭の書き散らした滑稽小説じゃあるまいし…と憤りつつ、内心非常に興味が沸いて、はてどういう理由でどういう猫が、どういう念仏唱えているかと、クスノキ下駄を突っかけて、昼玄関を飛び出した。猫じゃ猫じゃと情報くれた角の鉄屋の婆さんの塩辛声が煩くて、埒が明かぬと力の限り受話器を叩き切ったため、近所と言っても猫の所在の詳しいところは藪の中。ひとまず飛び出した勢いのまま、裂帛気合猛進し、使いどころのない廃材が積み重ねられて悪童どもの基地と化しているバク広場、泥肌湯屋や塩蛸屋、偽目玉売りの並びを横目に、数年前の火事の後、骨だけになった商店街の、瓦礫を踏み砕きつつ過ぎて、大突き当たりの神社まで、あっという間にやってきた。しかしこうしていざ見ると、近所と言っても狭くなく、その指すところ意外と広い。猫町詩人の話ではないが、ふとした違う角度から見慣れたものを見てみると、驚くほどに様相が変わる。日々是発見、エウレカの種が、思わぬ場所に転がっている。ともあれ今は世にも稀なる、念仏をする猫の面を、ぜひともこの目で見なければ。さてこの前の石段の上は神のまします社であり、仏を念ずる猫にとっては、宗旨も方向もまるで違うと、踵を返しかけたけれど、ちょうどその時石段の上から、ニャアと一声、艶のある声。ぴたりと足が止まったところへ、またもう一つ、ニャアの声。狙い澄ましたかのような、鶴の一声、いや猫の声。そう言えば聞いたことがある、あのお社はその昔、本地垂迹神仏習合、混じり祭りの宮であったと。とはいえくだんの猫かと言えば、さあわからぬと言う他ないが、飛び出してきたこの足が、踊らにゃ損と浮いているから、直情径行突き進むのみ。下駄をカンカン鳴らしつつ、不転百度の石段を、呼吸の限り駆け上がる。緑が左右を埋めていき、光がようよう薄くなる。ぎしぎし痛む四肢を叱咤し、上がり切ったら目の前に、すうと吹き抜く風の音と、でんと構える社の偉容。けれども妙な具合には、狛犬二頭「あ」と「あ」の口で、呆けたように横倒し。歩かぬ犬も棒に当たるかと、呆れつつまた驚きつつ、ハテあの声の主はいずこへと、片手を刀に首巡らして、いささか大仰に呼ばわった。念仏猫よ何処におる。俺はお前に会いに来た。先ほど二度も声を上げ、こちらを呼んだではないか。するといきなり社の扉、がらりと開いて生臭き風。不意を打たれて腰抜かし、見上げてアッと声が出た。中に居たのは招き猫、それも山ほどあろうかという、大恵比須顔の大猫が、本尊の段に肘掛けて、我が物顔に寝そべりて、べろりべろりと舌出して、「おおむまさうな」と呼ばわりぬ。並び鳥居よりなお赤い、その口の中を見た瞬間、アッ謀られたと思ったけれど、時すでに遅く我が体、扉の内へと吸い込まれ、ペロリと呑まれて腹の中。さもうれし気に唱えらる、南無阿弥陀仏を聞きながら、歯軋りしつつ思い出す。角の鉄屋の婆さんは、数日前に死んでいた。

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猫じゃ猫じゃ 安良巻祐介 @aramaki88

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