ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症(2/5)
針間精神科診療所午後の部が開始する時刻の午後四時、その三十分前に白夜はタイムカードを打刻機に通した。ガシャンコと機械音が冷たく時間を区切る。ここからは診療所での勤務となる。誰もいない更衣室で、白夜はまだ、空中庭園で抱いた感情の整理がつかずにいた。脳裏に浮かぶのは、何かを拒絶する瑠璃仁の姿だ。そしてそんな瑠璃仁と心通わせている春馬の姿。薬の助けも、それどころかまともな言葉を交わすことさえなしに。
(白夜くんは、薬を、僕に渡してくれるだけでいい、か――)
逆に自分は、結果的に瑠璃仁を激昂させあんな拒絶の言葉を吐かれてしまった。
自ら異国に飛び込むようにして一条家の住み込み看護を担当したけれど、当然ここには親切な教師などいなくて、そこかしこに何らかの結果だけが転がっている。NOの結果だけが返されて、それで終わり。自分がなにか間違えていたのか、やむを得ない結果だったのか、それさえもわからない。
看護師として優先事項を守って行動したつもりだった。だから、それで患者から憎まれてしまったのなら、報われない職務だなあ、と諦めて我慢するべきなのかもしれない。何はともあれ、服薬させることはできたのだから、看護師としては合格のはず。自分にそう言い聞かせるも、心の中の曇り空は晴れぬままだった。気分を新たに切り替えるよう意識して、白衣を着替える。白夜は自分の頬を叩き、問診室の中へと足を踏み入れた。
この診療所には四人までの看護師が交代で勤務しており、一条家の担当看護師の白夜は別枠の非常勤看護師として基本的に好きな時間に出退が可能なポジションにさせてもらっている。だが、ストレス社会の現代において精神科といえば目まぐるしく忙しく、また数はそう多くはないがここには入院患者もいるため夜勤もある。一条家に戻らねばならない白夜が夜勤をすることはないが、サポートのためにも手の空いている時はできる限り診療所の勤務に入るよう白夜は針間医師から命じられていた。初めはハードな毎日のように感じたが、一条家と診療所は大きい庭さえ無視していえば隣近所なので、慣れてしまえば少々広い病棟内を行き来しているようなもの。自分の住居までその中に用意されているのだから、そういった意味では楽チンとまで思えてくる。
外来診療が始まる前に、一条家患者の看護記録を針間医師に提出するのが白夜の日課だ。この診療所の長であり一条家主治医である針間はそろそろ来るはずで、白夜はそれぞれの血圧、体温から、瑠璃仁が相変わらず服薬を嫌がる等といったサマリーを記入して待っていた。春馬が瑠璃仁との一連の出来事も、もれなく記入して。
聞きなれた早い足音がして、針間が出勤したとわかった。白夜が立ち上がると同時に、長白衣の裾を翻し針間が入室する。
「お疲れ様です」
「おー」
針間が目も合わせず、挨拶ともいえぬ適当な言葉を投げてよこすのはいつものことだ。全部後ろの方へかきあげたままに縛られた前髪、尖るように細い顎。映るもの全てを威嚇するように細められている切れ長の鋭い目。この相貌で心のお医者というのだから驚きだ。
針間は椅子に腰かけると、本日午後の予約患者の電子カルテに素早く目を通していく。状態が安定している患者のカルテはちらっと一瞥するだけだ。一通り見たところで、最後に一条家のページへ飛ぶ。
「……まあ、こいつらはこのまま様子見で充分だな。日常生活送る分には、薬もちょうどいい」
「そうですか」
一条家患者に対して白夜は毎日看護をしているが、彼らは入院しているわけではないので、往診日以外は針間も白夜の書いた問診を読むだけだ。
それならばすぐに通常の外来診療を始めるだろうと思っていると、しかし針間は何か考えているように、手を止めている。もしかしてまだ何かあるのかと思い少し待ったものの、結局「……いや。始めるぞ。患者入れろ」と打ち切られた。
針間精神科診療所を受診する患者は、予約時間通りに受付を済ませば待ち時間はほぼ無い。都心ということもあり、電車の時刻表のように分刻みで管理された信頼できる予約システムを好む患者はそれなりにいた。その代わり、診療内容と診察時間も厳格だ。
「この一週間どうでしたか」
「やっぱりまだ死にたいです」
暗い虚ろな表情で丸椅子に座る女性患者に、針間はパソコン越しに淡々と問いかける。
「薬は飲んでますか?」
「はい。でも死にたいです」
「んー、そうですか。昨日はどんな風に過ごしてましたー?」
電子カルテに針間が文字を入力する音が響く。
「昨日ですか……? 朝はなかなか起きられず、十一時ごろ起きて、ご飯を食べました。少しだけテレビも見ました。仕事には行ってません。人とも会ってません。死にたいと思います」
「テレビを見たんですねー。受診する前は見てましたっけ?」
患者が何度も死にたいと口にするも特に動揺することもなく、針間は問いかけていく。
「見ていなかったと思います」
「あーじゃあテレビ見れるようにはなったわけですね。いいことですね。ご飯も食べてるみたいですしね。はいこの調子、来週火曜日に予約入れますので来てください。同じお薬出しときますねー」
流れを作って、患者を押し流すように外来診察をこなす。患者たちは、そのあまりの簡潔さと早さに驚きを隠しきれないまま追い立てられるように待合室へ行くことになるが、回復するにつれ、そういうものかと受け入れていく。一人でも多く診察し、一人でも多く治す。それが針間のスタンスである。
白夜が次の患者を呼ぼうとして予約一覧に目を落とすと、次の予約時間は二十分も先だった。
「あれ?」
ヒヤリとする。これはまずい。
予約患者はみっしり隙間なく並んでいるのが常だ。おそらく事務員か看護師の誰かが患者の予約変更を失敗している。
流れが止まってしまう……。
針間と目が合った。
「南ぃ!!」
すると針間は体を仰け反らせて声を張り上げ、一人の看護師を呼びつける。
「ひっ。はいぃ……」
どこからか、脱兎のごとく駆けつけるのは、童顔の男性看護師、南颯太だった。
「てめーぇぇ……予約変更受けたのお前だろ!?」
電子カルテ上に表示されている操作者の名前は彼だったらしい。これから叱られそうな雰囲気を察知し、南は早くも表情が固まっていた。
「あっ、はい……! ぼくが電話受けて……あのあの……あの人が死にたいって電話で何度も言うから……」
理由を聞き針間は眉間のしわを深く深くすると、怒鳴った。
「よくも、こんなどおおぉーーーーでもいい患者を三十分枠に回しやがったなァ」
「うええっ!? ご、ごめんなさいごめんなさい!!?」
どーでもいいと言われ南は驚愕したものの反射的に謝った……が、針間は容赦なく追撃する。
「こいつ一人のために二人分の予約逃しただろーがあ!! ありゃあ鬱なんだよ!! 初診で診断済んでんだ!! 三十分もいらん! これぐらい見分けろ! バカか!」
遅刻してきて後に回していた患者の診察も終わってしまっていて、しばし暇になってしまった。しばらく南をいじめて時間を潰すことになるだろう。
それならば、と白夜は大きな目玉に涙をためている同僚の救済も兼ねて針間の横に進み出る。
「あの、一条家の瑠璃仁様のことで相談が……今よろしいですか?」
「ああ……なんだ」
針間は今にも南を蹴り倒しそうな勢いだったが、すんでのところで回転椅子をこちらに向けた。
「瑠璃仁様の薬、減らせませんか?」
「はー?」
腕組をして椅子の背に深くもたれた針間は脇に立つ白夜をぎろりと一瞥する。さすがに緊張が走る。一瞬で頭の中を整理し、白夜は続けた。
「服薬を拒否していて困っています。どうにか飲ませていますが、本人は飲みたくないと言っています。集中できなくなるそうです」
「ふーん」
針間はもう視線を別の方向に向けている。
「幻覚や妄想は今は見られないようでした。でも、これ以上薬を減らすことは……」
柱にかかった時計を見ているらしい。
聞くまでもないだろう。
「できま……せんよね……?」
針間はもう、白夜の報告など聞いてもいないかもしれない。
「薬やめて再発したらどんどん取り返しつかなくなるっつとけ」
やはりそうだ。
これは今の瑠璃仁にどうしても必要な分なのだ。
「わかりました」
「おー」
こんな申し出をして、自分も叱られないだけマシだったかもしれない。
「他になんかあるなら今のうちに言えー」
しんと静まり返る診察室。
何人たりとも無駄な口出しは許されない。だが必要な情報を差し出さないのももちろん駄目だ。行動は最短経路で、効率よく。
静寂を切り裂くようにカーテンが開いて、
「次の患者が早めに来ました!」
事務員が大急ぎで知らせにきた。
「あー、じゃーまあ診るわ」
ほっと弛緩する空気の中、針間は白夜と南をしっしと追い払うジェスチャーをした後、椅子を回転させた勢いのまま南の尻に蹴りを入れて、机に向き直る。一切無駄な動作のない華麗な蹴り。……まあ、殺されなかっただけマシだ。
まだメソメソしている南に付き合って、白夜は入院病棟の廊下を一緒に歩いていた。
南は病棟の担当だったが、小さな診療所なので外来診療エリアも入院病棟エリアもすぐ隣。そこにいた南にまで声が届くような呼びつけ方をして、患者に聞こえていないのか甚だ疑問であるが、南が叱られるのはよくある事なので入院患者も慣れているに違いない。
「うう……失敗してしまいました。あう……怖かったです……うええん」
「あー、泣くなよ。次うまくやればいいって」
廊下を歩く患者たちは、看護師が泣いている姿を見て一瞬驚くが、南であることを確認すると何だいつものことかと日常に戻っていく。いつものことだった。
その時背後から、叫ぶような声が聞こえた。
「すいません!! ごめんなさい!」
リノリウムの床の廊下を行く足を止め、白夜と南は振り返る。弾けるように開く一室のドア。そこから一人の男性が飛び出してきた。白髪交じりの髪の下の額に脂汗を光らせ、血走った目の周りが大量の涙で濡れている。
「ど、どうしました!?」
南は慌てて駆け寄る。白夜も追いつき、
「俺がやっとくから、南は先に行ってろ」
南を先に行かせる。こういう突発的な患者の対処は、非常勤の白夜の仕事だ。
「あっ……あ、すみません」
南はぺこっと頭を下げると、自分の持ち場へ向かう。
「あーっ! 行かないで!!」
後ろから患者に呼びかけられ、南は後ろ髪引かれるように一度振り向くが、白夜に目で追い払われて立ち去っていった。
「どうしたんです?」
白夜は努めて冷静に尋ねた。四十代男性患者。名前は萩野だ。萩野は血相変えたまま、
「あの、あのっ――! もしかしたら、すいません、私、人を殺してしまったかもしれません!!」
息も絶え絶えに追い縋ってきた。
「それは、ただごとじゃありませんね」
「そうなんですよ……。血、血、手を見てくださいよ! ほら、見て!? 手! 血!!」
「はい、どれですか?」
白夜は彼のてのひらと手の甲を左右とも、隈なくチェックする。若干の手汗は生じているものの、血痕のようなものは付着していないことを確認し、それを伝える。念のため二回ずつ繰り返す。さらに、窓際で肩をぶつけて誰かを墜落させたのかもしれないと言うので一緒に部屋に入り、窓はきっちり閉まっていて、割れてもおらず、下に何も落ちていないことを二人でしっかり確認した。それでもまだ「自分はやった、やったんだよ……」と打ちひしがれていたが、幾分かは安堵したようで、静かにベッドに横になってくれた。
病棟では、これもまた日常茶飯事だ。毎日繰り返される一連の儀式のようなもの。萩野は瑠璃仁と同じ統合失調症で、加害妄想とそれによる幻覚に苦しんでいた。今日は手の血痕チェックと窓の安全確認だけで気が済んでくれたのでまだ楽な方だ。症状が悪いときには、今すぐこの場で警察に問い合わせをしてほしいと頼み込まれたり、外までいって地面を掘り返して、埋めてしまったかもしれない死体を捜したいと懇願されたりもする。入院病棟に携帯電話は原則持ち込み不可だし、スコップなど凶器になるようなものは貸与できない。そうなったら納得してもらう別の方法をどうにかこうにか看護師側でひねり出さねばならない。気が済むまで掘り返してもらえたら日ごろの運動不足も解消されて良いのだが。
針間精神科診療所は外来診療も入院診療も行っている。入院患者を少数受け入れる精神科診療所というのは全国でもかなり珍しい。というかほとんどあり得ない。ある程度の大規模な設立をしないと、夜勤を含めた看護師の最低必要人数に対して患者数が釣り合わず、経営上成り立たないのだ。だが、ここ針間精神科診療所の出資元は、実は莫大な資産を持つ一条家だった。邸のすぐ近所に医者を常駐させたいという理由で、愛長医科大学病院に勤務していた針間を小規模に独立させようとしてここに設立された。
当初針間は「金持ちのわがままに付き合ってられるか」などと憎まれ口を叩きながら独立移籍を拒否し、大いに揉めていたようだ。重症の患者まで含めた診察経験を積み最新の臨床研究を続けたいというのが本当の理由で、その為には医科大学病院に所属し勤務医を続けるしかない。そこまでを理解した一条家は要望に応える形で採算度外視の最先端の入院設備と従業員を整え、愛長医科大学病院にまで手を回して提携し、針間を説得した。さすがの針間も、そこまで用意されたものを断りはできなかった。結果、一条の思惑通りに針間は一条家の近所に住むまでに至った。――こんなことは通常あり得ない。いろいろとあり得ない。でも、現にこうしてあり得てしまっている。一条家の住み込み看護師として既に巻き込まれている白夜は、金の威力を思い知らされた気がして震撼としたものだった。資産家にとっては、望む形の診療所を建てるなんてのは自分の庭に犬小屋をこしらえる程度の造作もないことなのだろうか。
そろそろ白夜も診療所での看護を切り上げ、一条家に帰る時間だ。行かなければ。
萩野の病室を去る間際、背中越しに必死の声が聞こえた。
「たのむ、南さんに会わせてくれ。そうしたらわかってくれるはず……」
「南は今頃、作業療法に出てますので」
「ああ……南さんに話を聞いてもらいたかった……」
ちくりと胸が痛んだ。
俺じゃダメなのか。
南ならうまく心を汲んでやるのだろうか。でも院内を自由に回っていられるのは非常勤の白夜だけ。とはいえ、だらだら話してもいられない。それは患者自身のためでもある。夜中にも飛び起きて確認行動を取ったりする上、こんな妄想に日常を支配されているのは消耗が激しいに違いない。まだ壊れていない精神の部分まで摩耗してしまうかもしれない。出来るだけ早く落ち着かせて眠らせてやるべきだ。
「よく、寝てください」
白夜は打ち切るように言うと、扉を閉めた。
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