ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症(3/5)

 外来診療はつつがなく終了し、片付けを終えた白夜は南と共に更衣室へ向かった。午後の外来診療は、仕事帰りの人でも受け入れられるような時間帯から始まるため、終わるのも早くはなかった。帰る頃にはほとんどの店が閉まっている時間帯になる。早く帰宅して一条家が提供するおいしいまかないを食べたいと思いつつ着替えを終えた白夜がスマートフォンの画面をつけると、メッセージが届いていた。差出人は春馬だ。もちろん文字は書かれていない。代わりにスタンプと絵文字が並んでいる。

「んん……なになに?」

 ねぎらう笑みを浮かべたキャラクターが差し出すコーヒーのスタンプの意味はもちろん「お疲れ様」だろう。彼の所持するスタンプは数多く、お疲れ様スタンプだけで非常にバリエーションに富む。彼にとってイラストは唯一といっていい意思疎通手段なので必然かもしれない。それはいい。難解だったのは、その後の絵文字五種が連続するメッセージだった。

 眼鏡、薬、泣き顔、目玉、ピン。

 「眼鏡」は、一条家で唯一眼鏡を掛けている瑠璃仁のことを指しているだろうと推察する。春馬から彼を指す意味で送られてくることがこれまでにもあった。記号二番目に「薬」も添えられていることからもまず間違いないだろう。「泣き顔」も、瑠璃仁が泣いているということを伝えようとしているのだろうか。だとすると、「目玉」と「ピン」はなんだろう。白夜は「目玉」と「ピン」をコピー&ペーストし「?」を添えて送る。すぐに既読になった後、春馬からなにやら画像が送られてきた。受信が完了して開いてみれば、それは白夜が春馬に最後に見せられたあの不可解な人間二人の絵を撮影したものだった。弧の上に立つ二人の人間。内一人の顔は、駐車禁止マークのように斜線が引かれている。そんな図が黒いペンで描かれている。改めてまた、どうしてこれを送ってきたのだろう? 「目玉」と「ピン」の絵文字と関連があるのだろうか。

「どうしたんですか白夜さん。そんなに難しい顔をして」

 隣でノロノロと着替えをしている同僚の看護師、南颯太に尋ねられた。南とは勤務時間が同じ時は近くまで一緒に帰るのが流れだ。いつも待たされる白夜は、いいから早く着替えろよと言いたいところだったが、

「ああ、ちょっと見てくれるか?」

 と南の顔の前にスマートフォンを差し出す。南はスマートフォンを両手で握り、小さな身を興味深く乗り出すようにして、くりりとした両目を画面に落とした。

「……これって、春馬さんからですか? 失語症の」

 南は白夜の担当している患者のことまでよく気にかけてくれ、春馬のことも知っていた。個人情報の管理には、一条家には特に注意を払うよう言われているものの、往診とはいえこの診療所の患者のことだとして白夜は南によく相談していた。

「そう。この絵、昼にも見せられてさ、わからなかったんだ。また送られてきて、さすがに気になる……。どういう意味なんだろう」

「うーん。なんか、まるで暗号みたいですね……」

「だよなあ。なんだろ、これ」

 南もやはりわからないらしく、首をひねっている。その後も何度かこちらから絵文字でさらなるヒントを要求する旨を伝えたが、春馬からは「本」や「病院」の絵文字が返されるなど、ますます謎は深まるばかり。しばらく二人考え込んでみたものの、結局答えは出なかった。

 埒が明かないので帰ろうと支度を進めていると、今度は先程呼びかけてきた統合失調症患者の様子を見に行きたいと言う。もし「南に話を聞いてもらいたがっていた」などと伝えたら、南はますます行きたがるだろうと判断し、もう遅いから帰ろうと無理やり連れ立って外に出た。

 真っ暗闇の中涼しい風が吹いていた。これから一条家に戻り、患者の様子をさっと見て、それから寝支度してすぐに寝る。そしてまた明日も同じ一日が始まる。明日も春馬に意図を問うてみようか。

「はー」

 白夜は南と顔を見合わせる。南も同じタイミングで大きなため息をついていた。

「南もため息かよ」

「うー。はい」

 南は苦笑し、陰鬱気味に首肯する。

「これから勉強なのです……」

「じゃ、こんな相談してる場合じゃなかったな。悪いな」

 結構長い時間付き合わせてしまった。明日も早いだろうに、寝るまでにあとどれ位勉強できるだろうか。というか、それなら患者の様子を見に行きたいなどと言ってる場合でもない気がする。

「いえ、いいんです……ぼくが気になっただけで……はああ……」

 南は看護師をやりながら勉強をしている受験生だ。医学部を受験するのだという。幼い頃から医師になりたいと思いながらも、おまえには無理だと周囲に言われて自信をなくし進路を変え、四大の看護大学を卒業して看護師になった――だが夢をどうしても諦められず、白夜と同じ二十三歳にしてこれから医師を目指すという。今日もこれから家で勉強だろう。

「でもさ、いいな、受験かー。楽しそう」

 ふと、そんな言葉が白夜の口をついて出た。即座に南からは文句の声が上がる。

「うえぇ、どこがですかー……。しんどいです。覚えること多すぎて、早くも溺れそうです……」

「でもゴールに向かってまっすぐ泳ぐだけじゃん」

 求める結果がはっきりとしていて、それに沿った最短経路を、ただひたすら、歯を食いしばって駆け抜けることのみが求められる戦い。一つ一つの答えさえ、解説付きで用意されている。

「羨ましいよ」

 心からそう思った。

「そんなこと言うの、白夜さんくらいだと思いますよ」

 南が恨みがましさのこもった目で反駁してくる。

「え?」

「世界中の誰が、受験生を羨ましいと思うんです?!」

 そういう言われ方をすると、一般的にはたしかにそうかもしれない。でも、と白夜は言葉を探す。かつて受験戦争で奨学金を勝ち取った日々のほうが、性に合ってか生き生きと楽しかった。これもまた事実だ。

 現在の自分はどっちを向いたらいいのかもわからない。自分の置かれているのがスタート地点もゴール地点もない広大な海のどことも知れぬ場所で、言葉も通じない人に囲まれてただ生きていかなくてはならないだけの人生に思えて、鬱屈としてくる。

「いや、羨ましい」

 改めて、心の底から言う。

「はー。何言ってるんですか、それこっちのセリフなのに……」

 南は両の拳を握りしめて言い返す。

「あのっ! ぼく白夜さんのこと、その百倍羨ましいですからね!! 一条家の住み込み看護師さんだなんて、楽しいに決まってますー! あんななぞなぞみたいなのメールでやりとりして……」

「はい?」

 白夜は呆気にとられて顔を上げた。

「目的地まで一人でまっすぐ泳ぐより、みんなと水遊びの毎日の方が楽しくて当然ですっ!」

 不幸のただ中にいる自分にこんなことを言わせるなんて罪だとでも言うように。

「み、みんなと水遊びぃ?」

 なにか勘違いしていないだろうかコイツは。

「ずるいですー。毎日楽しそうでずるいですー。ぼくは……ぼくはひとりぼっちでまっすぐ泳がないといけない日々! 苦痛ですよっ! 替わってください替わってください!」

 一つたりとも共感できなさ過ぎて、白夜は頭を抱えた。

「替われるもんなら替わりたいよ俺だって……」

 わがままな患者に振り回されながらも、治療だって進めなきゃならないし、医療ミスはあってはならないし、患者といえば自分の思い通りに動いてくれないし……。しかも、業後にこんな暗号文を送りつけてこられたりする。

「言っとくが、病人を海に連れてって溺れさせるわけにはいかないんだぞ。水は怖いぞ。すぐあっちこっちで溺れかけて、時には防ぎようもなくて。そんな中、たのしい水遊びの仕方を知ってるなら教えてくれよ……」

 かつて瑠璃仁は人に後遺症を負わせるような事故を起こしたことまであるのだ。

「そんなの、時と場合で変わります!」

 その通りだ。だから困っている。

「だから、良いのに」

 心底羨ましそうに笑う南を眩しく感じ、白夜は目をそらす。

 ――南さんに話を聞いてもらいたかった。

 笑顔を患者に提供できるような、優しい看護師でありたかった。だから、頑張ろうと思っていた。無理してでも頑張ろうと思っていた。

 でも、純粋に無意識に、心から勝手に気になって、行動できる人間もいるのだろうか。まるで楽しむかのように。

 やはり自分には才能がないのだろうか。

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