一条家の箱庭

友浦乙歌

ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症

ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症(1/5)

 歩くこと数十分。それは派遣元の針間精神科診療所からの時間ではなく、の時間のことだ。ここは日本庭園と西洋庭園それぞれを持っているような大富豪のお宅で――訪問看護と外来看護の両方を受け持つ加藤かとう白夜はくやは、ここと診療所を行き来する日々を送っていた。住所通りに一般家庭を訪ねるつもりで行くと必ず遅刻するため注意が必要で、今後休日代替えしてくれる同僚にはアドバイスが必須だと思う。とはいえ今のところ、この家の看護担当は白夜一人だけ。毎日、朝・昼・晩・深夜、一日も欠かさず白夜が行っている。なぜそんなことが可能かと言えば、白夜はここ「一条家」を住み込みで看護担当しているからだ。

「ただいま戻りました」

 このお邸には、精神的な病を抱えた患者が複数人いる。

 白夜は邸の使用人数人と挨拶を交わしながら、勝手知ったる大廊下を行き、正面階段を上がってすぐの部屋へ足を運ぶ。ノックを二回鳴らし、

「白夜です。失礼します」

 返事がないのでそのまま中へ入った。経験上、この場合おそらく主人は二階から繋がる空中庭園に出ている。白夜は荷物も降ろさずに部屋を突っ切って、やはり開かれたままの大窓からバルコニーへ出た。春めいた心地よい風が吹き、鼻がむずむずした。穏やかな昼過ぎの日差しの下、もうずいぶん青くなった芝生の上に、彼はいた。脇に分厚い本を何冊も積み上げたまま手をつけず、芝に直接座り込み、ぼうっと陽の光を浴びている。上品に切りそろえられた黒髪に、丸い眼鏡がよく似合う青年。その透き通るように白い肌は、どこか病的な儚さも感じさせる。顔立ちの美しさと相まって、なんだかこの世のものではないみたいで、白夜はどこか惹き込まれるような心持ちのまま、歩みを進めた。

「戻りました、瑠璃仁様」

 白夜の呼びかけに彼――一条いちじょう瑠璃仁るりひとは視線をこちらへ向けた。そして微かに笑みを浮かべる。中性的な雰囲気が広がり、ますます人間から遠のいていくような妖しさを醸している。その笑みが儚く散るように消えると、彼はまた芝園の精霊のごとき存在に戻っていく。挨拶代わりのつもりだろうか、それで反応は終わりだった。

「おかげんは変わりないですか?」

 白夜は彼をこちらの世界に呼び戻すように、そう質問を投げた。幻想の住人になったままでいいのは美術作品の中だけで、この現実の世界に生きていくため、少しずつでも力をつけていってもらわなくてはならないという思いが白夜の中にあった。

「うん」

 瑠璃仁はゆっくり目を細めると、空に向かって言葉を吐いた。

「静かだよ」

 それを聞いた白夜は白衣のようなスーツの胸ポケットから(ここでのユニフォームだ)ペンを取り出して、さらに質問を重ねる。

「もう、声は聞こえませんか?」

 瑠璃仁は天を仰いだままに、頷いた。「聞こえないね。数が、何も語りかけてこなくなった。本を読んでも、何も浮かんでこないのさ……」

 白夜は一条瑠璃仁と題された表紙の紙カルテに、本日の日付と「幻聴なし、関係妄想なし」と記入した。調子は良いようだった。

「その調子です。今日のお薬はまだですね、お持ちしますよ。こちらで飲まれますか?」

 瑠璃仁が頷くので、白夜は先ほど通ってきた部屋を一旦引き返す。カルテやら辞典の入った鞄を下ろし、内線電話で水を注文してから、待つ間に薬を用意する。服薬管理は重要な看護業務の一つ。看護師である白夜がここに住み込んでいるのは、主に彼の全面看護のためである。

 一条瑠璃仁は現在十九歳で、統合失調症に罹患していた。統合失調症というのは、精神の病で、幻聴や妄想が主な症状である。「気が狂った」などと表されて精神病院に運び込まれた場合、大概がこの病による症状だ。誰もいないところで声や物音を聞いたり、現実にありもしない空想を信じ込んでしまう病気であり、太古の昔から存在する精神病。瑠璃仁の治療はようやく「寛解期」を迎えつつある。つまり、症状が安定してきたところだ。やっとここまできた、といった感じだった。少し前の、「急性期」のころの瑠璃仁の症状といえばひどかったものだ。一人きりで「見えない誰か」と一日中ずっと会話していたり、耳から脳みそがこぼれてくると言って両手で耳を塞いでしゃがみこんだまま動けなくなっていることもあった。時には意味の通らない言葉を並べてしまい、邸の使用人の中には怖いと言って距離を置く者も多かった。健常者にはなかなか理解してもらえぬ病気であり、だからこそ看護の手を必要とする。服薬治療により今はようやく安定してきて、会話もできるようになってきた。このまま日常生活が可能なレベルにまで落ち着いてくれたらいいなと白夜は思う。

 瑠璃仁の部屋で紙袋から取り出した薬の名前を確認していると、ノックの音が二回して、扉が開いた。水を持ってきたのは、メイドではなくすらりと背の高いスーツの男性だった。ミルクティーのような髪色で、そこには見ている者の心を落ち着かせる笑みが添えられていた。

「春馬さん。こんにちは」

 笑みを返して彼からグラスの載った盆を受け取る前に、白夜はさりげなく紙カルテを二冊目に持ち替える。二冊目のカルテには「渡辺春馬」と題されている。白夜が住み込みでここで働いているのは瑠璃仁の全面看護の為ではあるが、担当患者は他にもいた。その二人目の担当患者が今入室してきた男性――渡辺わたなべ春馬はるまだ。春馬は元々ここ一条家のお抱え庭師であり、瑠璃仁の看護のついでに一緒に白夜が看ているのだった。

 春馬は瑠璃仁の飲料水の他に、白夜のためのお茶を一緒に出してくれた。白夜はありがたく受け取ると、「変わりありませんか?」と歯切れよくはっきり尋ねた。春馬はにっこり微笑み返して頷いてくれる。そして、腰に巻いた革製の腰袋からイラストブックを慣れたように取り出すと、何度も開いて折目のついたページをめくる――そこには力こぶを自慢するような元気のいい男の絵が描かれていた。これは日常会話で使用頻度の高い単語を絵で表してある会話補助材。よかった、元気ですね、と白夜は微笑んだ。

 春馬は言葉が理解できない。だから、イラストで会話をする。電話はできないがスマートフォンは所持していて、絵文字やスタンプでのメッセージのやり取りならばなんとか意思疎通できる。彼はブラウンの髪をしているが外国人というわけではない。元々は柔らかな日本語を話す二十七歳の普通の男性だった。脳の言語中枢のどこかが損傷を受けて、言語能力が失われてしまった。「全失語」の失語症――それが渡辺春馬の病気だ。彼の場合は文字が認知できない以外の知的障害はないことが医師によるテストで判明しており、言語能力のリハビリに励みつつ庭師の仕事もやっている。草木を相手にする仕事だったのが不幸中の幸いだ。

「瑠璃仁様に薬を届けてきます」

 白夜の言葉に、春馬は首をかしげるしぐさをした。わからないという意志表示――白夜は薬を指さしてから、外を指さす。春馬は承知したように何度か頷いてみせると、しかしまたイラストブックを取り出し、めくり始めた。だがその中に言いたい内容のイラストがないらしく、彼は腰の革紐に吊り下げていた小ぶりの画板をたぐり寄せると、右手にペンを持った。どうも何か伝えたいことがあるようだ。春馬に向き直り、絵の完成をじっと待った。それはなかなか描き上がらなかった。白夜はゆっくり待つことにした。別に看護の段取りが決まっているわけでもない。通常は患者が病院に入院してくるものだが、住み込み看護というのはその逆で、患者の住居に看護師がお邪魔する形になる。郷に入りては郷に従えというように、基本的に看護師が患者の要望に合わせて動く形だ。患者に求められることもより繊細で高度なものになってくる。もちろん保険適応外、つまり全額患者の自費負担であるが。

 白夜は患者個人に心から寄り添う看護をすることにずっと憧れがあった。だから迷うことなく「心」を扱う診療科、精神科の看護師になったし、精神医療の住み込み看護師を探していると聞いた時は即断で志願した。かつて医大病院でせわしなく働いていたころは、一人一人丁寧に看ていてはとても追いつかず、患者の一挙手一投足に細やかに注目して、深く考えを巡らせる余裕などなかった。重症度によって患者に優先順位をつけ、細かいことには極力目をつむり、個々人のわがままを許さず、できるだけ量を捌くように働くことが推奨されていた。白夜はそういった効率主義的な仕事が、どちらかといえば苦手ではなかった。むしろ得意で、普通にしているだけで他の看護師には頼られ、仕事ができると褒められた。その場で働き続けている方が出世も望めただろう。だがなりたい自分はそうではなかった。本当はいつも細やかに気を配って、患者一人一人に寄り添う「優しい看護師」になりたかった。そのために白夜はこれまで生きてきたのだ。自分にとって楽で都合のいいばかりの環境にいては成長もないまま簡単に流されてしまうと悟ったから、自らそこを抜け出すように、ここ「一条家」に転職したのだ。患者の住居に住み込んで、患者の人生に向き合って看護をすれば、きっと憧れた自分になれるに違いない。言ってみれば、手っ取り早く英語を話せるようになるために、アメリカに留学を決めてしまうようなもの。初めは苦しいが、逃げ場がなければ成長するだろう。自己実現が確約されていると思えば、辛くても頑張れる気がした。

 だから、

「これは……うーん?」

 やっと描き上がったらしい春馬に差し出されたイラストが、棒人間に毛が生えた程度の人物が二人、しかもうち一人には顔に斜線が一本入っているという謎に満ちたものだとしても、白夜はあきらめたくはないのだった。

「??? ……これは、なんでしょう……?」

 しかしそれは難解で、何かを伝えたがっているのはわかるが、彼に絵心があまりないのが悔やまれる。棒人間の足元には弧が描かれている。野原だろうか。だとしてもいったいこの絵は何を意味するのだろう。頭部に該当するところが、駐車禁止マークのようになっているのがやはり明らかに妙だ。なんだこれ。もう少しうまくなってくれると非常に助かるのだが――春馬の絵は下手だった。簡単な言葉しか理解できないからとはいえ中身は二十七歳のままである彼を子ども扱いしてはならないと医師から釘も刺されていたが、イラストは男子小学生のように下手。古くから春馬をよく知る同僚に聞くところによると、彼の美術の通信簿は小学生のころからずっと1だったらしい。どうも元々素質がないらしい。

 すると、外へ出ようと春馬が手を引っ張るので、白夜はそのままついていくことにした。行けばこの絵の意味もわかるかもしれない。瑠璃仁に飲ませる薬一式と飲料水の載った盆も忘れずに抱えて外へ向かう。洋室のため靴を履いたままなのをいいことにバルコニーから出る。二階の窓から芝生の庭に出られるというのは不思議なものだが、それはこの豪邸の脇に筑山が高く盛られているからで、それで通称「空中庭園」とロマンチックな名前で呼ばれているのだった。その代わりこの二階部屋の下は、地上階にもかかわらず窓がなく地下室のようになっていて、夜中眠れない住人が集まる雰囲気のいいバーになっている。

 白夜は先導する春馬に追いつこうとして少し小走りになった。春馬は丘の頂でぼうっとしている瑠璃仁の元へ一目散に駆けていく。飼い主に従順かつ人懐こい大きなゴールデンレトリバーが尾を振るように近づいてくる春馬を、瑠璃仁はおもむろに見上げると――思いつめた表情で目を逸らした。あれ? 白夜は少し上がる息を抑えながら、どこか引っかかる瑠璃仁のその様子を観察していた。すると、逃げるようにこちらを向いた瑠璃仁と目が合った。

「ねえ、その薬、飲まなくちゃいけないかな?」と瑠璃仁は細い声で呻いた。

「飲みたくありませんか?」

 錠剤と水の入ったグラスはまだ盆に載せたまま、白夜は半身を屈めて訊ねる。

「ああ。考えに集中できないんだよ」

 瑠璃仁は脇に積み上げた本を、途方に暮れたように見ている。脳と科学、精神外科――難しそうな専門書だ。集中力が保てないというのはたしかに統合失調症の薬による副作用だった。

「先生にはご相談なさっていますよね」

「うん。――でもこれは飲まなきゃダメだって」

「そうですよね……」

 瑠璃仁が薬を嫌がるのはこれまでにもあった。しかし、これをのまなければ、たちまち病気は再発するだろう。あるはずのないものを見たり聴いたりするようになる。考えは妄想化し、意味不明な行動をとるまでに発展する。

 それは避けねばならない事態だ。そうなってしまった瑠璃仁が、一時、傷害事件を起こしたことがあった。被害者が訴えることをしなかったため警察沙汰にはならなかったが、相手には重い障害が遺った。現在まで一条家が全面的に治療費を負担している――瑠璃仁の病気の再発には、そういった危険行動に繋がる可能性をはらんでいた。

「服薬し始めて、すごく良くなってきていますよ。ここで中止してしまったら、また元に戻ってしまいます」

「でも僕には世界を変える役目がある――。人生は短いんだ。急がないと間に合わないかもしれない……」

「ゆっくり、治していきましょう。世界を変えるのは、それからですよ」

「それじゃ困るんだよ!」

 瑠璃仁は悲壮な表情で、手元にあった本を一冊、白夜に投げつけた。白夜が驚く間もなく、二冊、三冊と。白夜はなんとかかわしたが、本はすぐ後ろに移動していた春馬にバシッと大きな音を立てて当たった。

「瑠璃仁様、ちょっと落ち着いてください!」

 白夜はたまらず、持っていた盆を芝の上に置いて、暴れる瑠璃仁を止めに入る。瑠璃仁は振り切って立ち上がると、悲鳴も上げられず尻もちをついている春馬に寄っていった。

「読めないんだ!」

 悲嘆の声で、訴えかける。

「読めないんだよ! こんな簡単な論文すら――! ああ、もう、どうしたらいい」

 春馬はじっとその様子を見ていた。言われた言葉の意味を考えているのだろうか、暗い水底に沈み込んで何かを探すように瑠璃仁に耳を傾けている。一方で白夜の中には明快な回答が用意されていた。躊躇うことなく口にする。

「でも、瑠璃仁様、薬を飲まなければ予後が悪くなります。再燃を繰り返して、重篤な人格荒廃にまで陥る危険もあるんです。だから、飲まなくてはいけないんです」

 全て教科書に書いてあった。返済不要の奨学金で看護学校を卒業した白夜の頭には、看護の歴史から編み出された対応策が、体系化されて叩き込んであった。

「いや僕はもう終わりだ。脳みそがゴミになった。だったら死にたい。生きていたって意味がない」

「そんな、とんでもない。今のままなら、瑠璃仁様は充分、社会的治癒を目指せますよ。ほとんど完治まで来ています!」

 だから、迷いなんてなかった。元気よく盆を拾い上げ、努めて明るい笑顔と共に両手で差し出した。

「はい。どうぞ」

 白夜がそう微笑みかけた瞬間、両手に爆発するような風を感じ、そして手が軽くなった。

「バカにしないでくれ!」

 盆が、コイントスのように回転しながら重力に逆らって飛んでいくのが見えた。白夜はそれを呆然と眺めた。何が起きた? 手に持っていたものが視界から消えたと思うと、水しぶきが頭から浴びせられる。目の前の瑠璃仁は白夜を睨んでいた。あまりの殺気に白夜は一瞬ひるむ。ぎらりとしたその瞳は、怒りと苦しみ、そして悲しみに染まっていた。下からアッパーで殴りかかるようにして盆がひっくり返されたということが白夜にも遅れてわかった。瑠璃仁は白夜に向かって限界いっぱいまで力を込めて噛み付くように叫んだ。

「僕を誰だと思っている! なんのために医者がいる! 何がほとんど完治だ! それじゃ意味がない! 僕は一条瑠璃仁だ! 社会など知ったことか!」

 瑠璃仁は芝にぽとんとぽとんと落ちている数錠の薬を見つけると、数度にわたって力いっぱい踏みつけ、一つ残らず粉砕してしまった。瑠璃仁の激昂ぶりに、白夜は反対に冷静になるよう自分に言い聞かせる。

「か、代わりを――お持ちしますね……」

「ふざけるな。いらない! もう、薬なんていらない――。こんな状態で、何年かかるっていうんだ……? だったら僕は……僕は、もう自由にやる!」

 白夜はもう落ち着き払って、脳内に収めた教科書をめくる。

 この場合は、えーと、どうしたらよかった?

 脳内でヒットした検索結果は三件。白夜は焦ることなく、ベテランの役者がセリフを読み上げるように、心から感情を作り上げて声を発する。

「瑠璃仁様、思うようにならず、辛いのはわかります……。でも、経過は極めて順調です。焦らないで大丈夫ですよ!」

 この声掛けに対する瑠璃仁の返事は聞こえてこない。

 違ったか。

 それじゃ、次の一件。

「僕は瑠璃仁様の生活を良くしたいと思っています。服薬を続け、もっと安定してきたら、減薬することも可能だと医師からは聞いています。ですので今は耐えるべきです」

 瑠璃仁は両手で耳を塞ぎ、とうとう頭を抱えてうずくまってしまった。

 だめか。じゃあ最後の手段だ。白夜は耳元で、少し声を大きくして呼びかける。

「飲みづらければ、注射剤に致しましょうか? 僕が傍にいて管理しますよ。安心してお任せください」

 この状況下、笑顔を添えることまで忘れない。よし。ここまで全て完璧だ。これでだめなら今後もう自由を抑制することも考慮に入れ始める。侵襲的で、すすんで行いたくはない手段だが、ここまで嫌がるならば致し方ないだろう。早めに医師へ相談しておこう。この薬剤の中には、心を落ち着かせる作用のあるものも含まれている。まずは継続して飲ませなくては。

 冷徹に計算する白夜の心の内を見透かしたかのように、瑠璃仁の相貌が憎悪に歪んでいく。でも下手に動揺してはならない。これが正しい対応。歴史から学んだこれ以上ない成果だ。白夜は涼しい顔で流してしまう心積りだった。

 すると春馬が飛び出してきた。感情のままに、何かを叫びながら。そして、その胸に瑠璃仁を抱き寄せた。瑠璃仁はとっさに振り払おうとしたが、春馬は意地でも放さないようにぎゅうぎゅうとしがみつく。

「は、春馬さん?」

 予想外のことについたじろぐ白夜になど、春馬は見向きもしない。瑠璃仁を抱きかかえ、そして白夜から少し離れた場所まで、連れていく。避難させるように。何がしたいんだ……? でも、ひとまず瑠璃仁のことを春馬に任せられそうではある。こうなったらこの隙に、芝の上にぶちまけられてしまった水のおかわりを取りに行くことに白夜は決めた。転がっている盆とグラスを大急ぎで回収し、給仕人に頼むこともせずに自分で適当に水を汲んで、ダッシュで踵を返す。

 白夜が再び戻ると二人は芝生の上でじっと肩を寄せ合って大人しく座っていた。よし。助かった。白夜は後ろから早足で近づいていく。いやはや、なんとか薬を飲ませなくては、今日の看護を終えられないぞ。白夜は、服薬を嫌がる患者への応対パターンをあれこれ脳裏に思い巡らせる。

 春馬は瑠璃仁を片手で抱えたまま、空いている片手を伸ばし、先ほど自分に投げつけられたまま散らばっている本をたぐり寄せている。そして、一冊を手に取ると、一ページ目を開いた。失語症の春馬には読めるはずのない文字が並んでいる。読めないとわかりきっている本を開き、一体何をしようというのだろうか。白夜の疑問をよそに、春馬はページの中に何か文字を発見して素早く指さすと、ぱっと顔を上げて瑠璃仁に微笑みかけ、今度は視線を空の下の遠くに飛ばし、西洋庭園の向こうに広がる日本庭園の中の小川あたりを勢いよく指さした。

「うん……川、だね」

 瑠璃仁がぼそりと口に出して頷き、空中に指で「川」と文字を書く。

 文字の練習?

 春馬にとっては、見たままを単純にかたどった象形文字の漢字は比較的わかりやすく、逆に意味のないひらがなは全く理解できないらしい。春馬はページをぱらぱらとめくっては「木」「山」などイラスト的にわかりやすい漢字を見つけては、外の風景から、同じ意味のものを指さすことを繰り返した。瑠璃仁は一つ一つに対し、穏やかに小さく頷く。

 その光景はまるで幼子に文字を尋ねられながら母親が、慈しみ深く絵本を読み聞かせる様子に似ていた。春馬が、ゆっくり、文字に指をさしていく。それに瑠璃仁が一つ一つ答える。白夜は看護師としての責務も忘れ、声をかけて中断させるのを躊躇うほどだった。濃密で雄弁な会話の真っ最中。とてもゆっくりとした時間が流れていた。瑠璃仁はもう穏やかに身をゆだねている。もう追い詰められてなどいない。

「そう、この字は、人だ。二本足で立つ姿から……」

 言葉を詰まらせる瑠璃仁は泣いていた。春馬はその涙を真剣に見つめている。

「春馬、君は不安?」

 瑠璃仁が呼びかけるも当然、返事はない。春馬には質問の意図もわからないだろう。

「僕は不安だ――」

 嗚咽するように、

「押しつぶされそうだ。手でも足でも、持っていけばいい。でも、思考だけは、渡さない。僕は、学者だ……それが全てなんだ……」

 慟哭するように、

「そうでなきゃ、僕は僕を許さない。絶対に」

 瑠璃仁は立ち上がると、一冊、一冊、散らかした書物を拾い上げる。春馬も手伝い、瑠璃仁に手渡していく。

「春馬、僕の背中を押してくれるかい」

 春馬はゆっくりと頷いた。そして、瑠璃仁の背中を、ぽんと軽く叩く。

 失語症の春馬には、言葉の意味など理解できていないはずだ。それなのに、白夜より明らかに調和して成立しているような気がした。全ての本をその両手の中に積み上げたとき、瑠璃仁は泣き笑いを浮かべると、目を閉じ、春風に涙を乾かした。そうして鼻から息を深く吸い、次に目を開けたときには、決意の炎をその瞳に宿していた。

「白夜くん、薬を渡してもらえるかい?」

 こちらを振り返りもせず、瑠璃仁は命じる。

「は、はい……」

 立ち尽くす白夜の声は小さく震えて消える。白夜が差し出す薬を、体に入れる毒を前にするような目で、瑠璃仁が見ている。

「うん。飲むよ。医者が飲めと言うんだろ。飲んだ上で、僕は僕として生きよう。もしくは、死ぬさ」

 この場には白夜と、言葉の不自由な春馬しかいない。だがその言葉は、白夜に語り掛けているわけではないことだけはわかった。

「白夜くんは、針間先生から受け取った薬を、僕に渡してくれるだけでいい」

 白夜は言われるがまま、言葉を失ったように手渡すしかなかった。

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