9コマ目 案外安い
「えっと、
怒っていると言い表すのは適切じゃない。今までにないくらいに呆れていると言うほうが近い。
予定通りにお説教タイムに入り、私たちふたりは地学室から漫研の部室に移動した。部室は広くなく、むしろはっきりと狭く、四方にコンクリートそのままの壁があり、それを隠す形で、漫画本が詰まった本棚や、様々な画材を収めたプラスチックの書類棚がある。その部屋の中央で、私と
もう黙っていればいいものを、糸子先輩は――ほとんど、もう別の形で聞いているものを繰り返して――反省しきりの
「その、本屋に並んでる漫画、一冊二百ページとかあるのが、十巻も二十巻もあるから、漫画のページ数ってそんなものなのかな、って思っちゃってて」
私は
しかし気になって私の目は糸子先輩に向くまま。普段の糸子先輩は、美しいと、そう形容する他に言葉がないのだが、反省しきりの
「もういいです。言うべきことは言いましたし、知らなかったわけですし、もうそれはしょうがないので。次に活かしましょう」
それを聞いて、糸子先輩はほっと息を吐く。さっきまで呼吸の仕方を忘れていたとでもいうように。
私はやはり
と、それを伝えたのが今日なんだけど、昨日も一昨日も似たような程度のことを言った。まだ階段を一段も上れていない、そんな感があった。
そんな私をよそに、かわいい
「そうだよねえ。彩ちゃんが描いた漫画、四ページだったもんね」
自分の人生を変えた漫画がどんなものだったか、やっと考えがいったようだった。自作について
ここにある蔵書は、部員なら好きに借りていっていいことになっている。ただし一度に三冊まで、加え、そのために用意したノートに、借りる本のタイトルと自分の名前を書くこと。
もう部室に用はなく、また、今から地学室に戻っても、部活の時間はすぐに終わってしまう。このまま帰宅の途につく心算だった。
借りる本の目星はつけてあって、私はするすると本棚から三冊を抜き出し、部室の隅に置かれた白のローテーブルの前に腰を下ろした。ノートを開き、そばに置いてあるボールペンで、タイトルと名前を書き込んでいく。
ふと、書き込んだ自分の名のすぐ上にある姓名に目がいった。
自然、つい先程の、地学室でのやり取りが浮かぶ。
――もう少しで、
宇良先輩が最後に言い足した言葉が思い出される。
「糸子先輩、宇良先輩と組む予定があったんですか?」
嫉妬というのではなかった。組む相手はひとりに限るなんて約束事もないわけで、孤立しがちな糸子先輩のことを思えば、組む話があったなら、むしろ積極的に進めたほうがいいと感じた。
「うーん、あるにはあったというか。宇良ちゃんから、境谷と組みたい、って話をされてはいたんだよ」
糸子先輩は、少し悩ましい顔つきになる。私の手前、というのもあるんだろうし、特に宇良先輩を嫌っているわけでもないのだろう。
「私はずっと、組む相手は彩ちゃんがいいって言ってたんだけど、実現はしてなかったから、それなら、秋が終わるまで、十一月末まで待つから、それでだめなら自分と組んでくれって、半ば強引に。もちろん、私は頷いたわけじゃなかったんだけど」
ずいぶんな執心で、何も知らないで起きた話ではなさそうだった。
「というと、糸子先輩の小説、読んでもらってたんですか」
「あ、うん。昼休みに、たまたま教室で、印刷した原稿に赤ペンでチェック入れてたんだけど、それを見た宇良ちゃんが、読んでみたいって」
意外なような、同じクラスにいる部活仲間なんだから、そうあって然るべきのような。糸子先輩はふっと表情を変え、いたずらめいた笑みでちらと舌を出した。
「ちなみにその後、私が有名小説家の愛人だって噂が駆け巡ったんだけどね」
一瞬でかわいくなれるものらしく、どうにも腹立たしい。美貌と愛嬌が羨ましいというのが半分、私以外にも愛想良くすればいいものを、というのが残り半分。
ともかく、
「本当は、彩ちゃん以外に見せるつもりなかったんだけど、その時たまたまお金なくて、焼きそばパン買ってくれるっていうから、それで」
私からすれば、誰にどう見せてしまっても別にいいんだけど、でもこの人、案外安い。別にいいけど。
宇良先輩は、作画のみならず、物語の構成やセリフ回しも含め、相当な実力者で、すぐにデビューの話がきたって驚かないほどだけど、それを超えて糸子先輩の書くものは尋常でないから、タッグの相手として求めても違和感はない。
「それでね、その後は、お金が足りない時、こっそり小説を見せてパンを買ってもらってた。あ、一回だけ、ケーキも」
訂正。すごく安い。別にいいけど。
糸子先輩は、心なし高揚した顔で、動作ははっきりとはしゃぐようにして、私の隣に座り、名案とばかりに提案するのだった。
「彩ちゃん、これから、合作の作戦会議しようよ」
私の顔は、あからさまにげんなりしていたと思う。眉根が寄ったのが自分でわかる。
「先輩、あえて言葉を間違いますけど、それ、私とデートしたいだけですよね」
「なんでばれたかな」
もはや明白なこととして言っても、糸子先輩にとっては騙し通せる予定のものだったらしい。
「どうしてばれないと思ってたんですか。作戦会議は喫茶店で雑談してるだけだったし、あげく勉強会と言い出した時は、ペンギンの生態を描いたドキュメンタリー映画が見たいと言い出して……それで何をどう学べというんですか」
人気の恋愛映画を見て、人の感情の描き方を学ぶはずだったのが、結局、私が学んだことは、ペンギンが南極でどう生きているか、なのである。
きつく言っても、どうしてか、こういうことでは怯まないのが境谷糸子という人だ。
「アイデアがあってね。主人公は普通の女の子なんだけど、なぜか、ペンギンのクラスメイトが七匹いてね。その七匹ともが主人公を好きな――つまり、ちょっと新しい逆ハーレム漫画をね?」
先輩は、逆ハーレムという用語を、つい昨日覚えたらしい。
口からでまかせで言っているんだろう。そんなことを考えてペンギンの映画を見たわけでは決してない。糸子先輩、ペンギンの生き様に感動して泣いてたし。
「それで、他のクラスメイトは人間なんだけど、どうしてか
「もういいです。帰ります」
ただのでまかせなのに、もし糸子先輩が全部描けば、うっかり二十万部くらい売れてしまいそうで、たちが悪い。
彩糸 香鳴裕人 @ayam4
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