第2話――恋敵がアザラシでね?

8コマ目  浦瀬宇良



糸子いとこ先輩、これ、どういうことですか?」

 我ながら、刺々とげとげしい声音を発したと思う。

 漫画研究部にあてがわれた放課後の地学室を私の声が貫き、他の部員たちの視線が、机を挟んで向かい合う私たちに集中する。

 昨年度まで私服だった高校であるから、面々の服はばらばらで、規準服――制服ではないが着ることが推奨される服――であるブレザーを着ているのは、私と糸子先輩だけだった。たまたま女子しかいない部なのだが、ゆえにこそ気を抜くのか、おしゃれからは遠いところにある服装が多い。

 机に置かれたトレース台の向こうで、糸子先輩は少し不安げに、わからないという顔をする。そんな表情までいちいち美しいので、余計に腹が立つ。

「えっと、つまらなかった?」

 案の上の、的外れな返事。こと創作において、糸子先輩が的を射た返答をよこしたためしがない。糸子先輩の書くものがつまらなかったためしもない。

「すごく面白いです。断言します」

 即答してみたものの、糸子先輩がどれだけ的外れなことを言ったのかというのは、きっと伝わらないんだろうな。

 私の手もとにあるのは、糸子先輩が書いたシナリオだ。コピー用紙に印字されたそれ。私が漫画として形にする予定になっているもの。最後まで読みはしたものの、最初の最初から致命的な問題があるのは明らかだった。

 私は糸子先輩を睨み、きつく訊ねることになる。自分が大和撫子だとは言わないが、好んでこうありたいわけでもない。他にどうしろというのか。

「一行目です。シナリオの一行目。これ、どういうことなんですか」

「中学校、校庭?」

 糸子先輩は原稿を見返すことなく、正しくそらんじてみせた。けど、それでは不十分だ。

「それだけなら許せます。問題は次です。次! 運動会、組体操、六段ピラミッド複数、観客多数! そこに穴の空いた飛行船が不時着って! これ、悪意ととられても文句言えないですよ!」

 それを漫画に描くのがどれだけ大変か、神経以外は全部ある糸子先輩には、ちっとも想像がつかないのだろう。本当に、神経がない。日曜にカラオケに連れて行かれて、検証がてら採点機能をつけてみたら、百点が十三回、九十九点が一回だった。九十九点のほうは、カラオケ側が間違っていたんだと思う。もちろん歌唱力はプロ顔負け。

あやちゃん、それ、二行目と三行目」

「何行目だろうと同じことです!」

 問題が集中しているのは、糸子先輩の言う通り、確かに二行目と三行目だ。だからって大問題であることには変わりない。

「そういう、無理やりな正当化、どうなのかなあ」

「加えてこれ、どうして校庭なんですか。なんで河原じゃだめだったんですか。いっそ、誰もいない鳥取砂丘にしてもらえませんか」

 砂丘であれば、飛行船が落ちてくる絵を描けばだいたいは済む。手間はかかるにせよ、砂が激しく舞えば、難しいところはむしろごまかせる。運動会で組体操で観客多数の校庭に飛行船が落ちればどうなる? 私は描きたくない。

 糸子先輩は頷かなかった。首を横に振って言った。

「そういうわけにもいかないの。ちゃんと伏線だから」

 全身に悪寒が走る。嫌な予感、というよりは確信が湧く。なぜなら、まだ伏線として活かされた様子がないから。

「ちなみに、いつ回収されるんです?」

「十一話目」

 糸子先輩は何の疑問も抱かず、澄ました顔でさらりと言うのだ。

 私は一話で完結しているものとばかり思い込んでいたのだが、どうも違ったようで、渡されたシナリオは壮大な長編の冒頭であったらしい。

「一話二十ページだとしても、二百一ページ目以降ってことですね」

「彩ちゃん、私のこと馬鹿にしてる? いくら何でも、二桁のかけ算くらいできるよ」

 たぶんこれ、殴ったとしても正当防衛が成り立つと思う。かけ算を考える前に、二百ページ超の漫画を描くのにかかる時間を計算して欲しい。

「もういいです。後でお説教タイムを設けますから、その時にちゃんと学習してください」

 漫研の活動場所はもっぱら地学室であるが、部室は部室で別にある。面々がいる地学室で小言こごとを一から十まで並べていては迷惑になるので、その際は部室に移動することにしていた。これで今週五回目のお説教となる。つまり今日は金曜日。

「はい。よろしくお願いします」

 そう言って、糸子先輩は神妙に頭を下げるのである。これではどっちが先輩なのかわからない。

 私たちに視線を集めていた部員の面々は、もう目を落とし、自分の原稿と向き合っていた。この一週間、糸子先輩とはずっとこんな調子なのであれば、何だ、またか、と、そういうたぐいのことになりつつある。私は不本意ながら、境谷さかいや糸子の飼い主という立場を盤石なものとしつつあるようである。実際に昨日、どうやって手なずけたのかを聞かれたので!

 てっきり、昨日と同じように、全員が自分の作業に戻ったと思っていた。けれど、今この時、目を据え続けるどころか、立って近づいてきた人がいた。

「境谷」

 糸子先輩を苗字で呼んだのは、浦瀬うらせ宇良うら先輩、二年生で、糸子先輩と同じクラスだ。服が汚れることを嫌って、部活中はいつも小豆色あずきいろのジャージでいる。

 長い前髪が半ば双眸そうぼうを隠しているが、その奥に愛くるしい黒目がちな眼があることは知っている。他方、手入れが面倒だからと、後ろ髪は短い。漫画を描く時に視界に髪がかかってしまうことは、面倒ではないのだろうか。

 宇良先輩の実力は相当なもので、うちの高校の漫研の二巨頭の一などと称されたりもする。私としてはこうべを垂れて教えを請いたいのだが、宇良先輩は寡黙かもくで考えが読みづらく、要するに話しかけづらくて、いい機会を掴むには至っていない。

 近づくほどに、宇良先輩の目が私に向いていないことがわかる。糸子先輩だけに向かっている。そのまま、ぽそりと、ともすれば聞き逃してしまいそうな声音で、宇良先輩は糸子先輩に話しかけた。

「心の整理がつかなくて、言うのが遅れてしまったんだけれど……おめでとう。彩ちゃんと組むことになったんだね」

 さらにその後に加えられた言葉は、なお声量に乏しくなったが、でも、聞き間違ったとは思えなかった。

「もう少しで、境谷と組めたのにな。残念だよ」

 長い前髪の陰で、本当に寂しそうな瞳が、ひたむきに糸子先輩を見つめていたから。




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