人魚のひいさま

或るコ

人魚のひいさま

 深い、深い海の底。そこに珊瑚でできたお城がありました。ふわりふわりと揺らめくのは、壁に咲く色とりどりの海藻や魚たち。貝殻の屋根は気まぐれに開いたり閉じたりして光を瞬かせ、透き通った琥珀の窓越しに見ると、すべては絵画のように美しく輝いていました。

 そこに、人魚のひいさまも住んでいました。ひいさまは6人姉妹の末っ子で、大変物静かで思慮深い少女でした。ひいさまは物語を聞くのが好きで、大変嬉しそうに話を聞いてくれるので、海の仲間たちはひいさまに物語を聞かせることを楽しみにしておりました。気難しい海底の深海魚たちでさえ、ひいさまが来るとなると顔をほころばせながらお話を聞かせてくれたといいます。人魚の国では15になると海面にあがり、海の外の世界を見に行く許可が与えられます。5人の姉が外の世界を見て来ては見聞きしたことを教えてくれるのを、ひいさまは羨ましく、そして楽しみにしておりました。

 ひいさまが15になった日、この国を治める女王である、おばあさまから15の祝いを頂きました。それは真珠で出来たネックレスと、外の世界でも呼吸ができるようになるという魔法の丸薬です。その丸薬をしっかりと飲み込んだひいさまは、心躍らせながら海面にのぼります。顔を出したときには、海は穏やかな闇に包まれていました。空には真珠を散らせたように星が輝き、丸く大きな月が黄色く微笑んでいます。初めて触れる空気がひんやりとひいさまの頬を包み、ひいさまは驚きました。冷たい空気が喉を通り、風がひいさまの長い髪をなびかせます。その感触に、ひいさまは今外の世界にいるのだと強く感じました。ザザァと波音が聞こえて振り返ると、遠くから船がやってくるのが見えます。橙色の明かりが海面を照らし、波間からそっと見上げる船内は宝石箱のように魅力的に見えました。船のデッキからは音楽が聞こえ、海藻が揺らめくようにドレスを着た女性たちが踊っています。キラリとその船首が瞬いた気がしてひいさまが目を凝らすと、そこには黄金の冠をかぶった一人の青年が立っておりました。じっと見据えられた気がしてひいさまは思わず波間に身を隠します。その愁いを帯びた瞳に、ひいさまは思わず惚けてしまいました。そっともう一度船首を見てみますが、もうそこには誰もいません。幻でも見たのかと、もう少しだけ船に近づいてみます。あちこちとその姿を探し、諦めかけたときにもう一度その姿を見かけました。彼は船室の中央奥にある、豪華な椅子に腰掛けていました。そこでひいさまは、彼が王子であることに初めて気がついたのです。ゆったりと腰掛けた王子は、頬杖をついて退屈そうにしています。窓の陰から彼の方を覗き込むと、その唇が薄く笑んだ気がしました。ひいさまはそこからのことをあまり良く覚えていません。気がついた時には海の底のお城で、彼のことばかり考えているのでした。魚や仲間たちがいくら楽しい物語を聞かせてくれても、ひいさまの様子を心配してくれても、心に描くのは彼の瞬きばかりです。ひいさまは、王子に恋をしたのでした。

 さて、人魚の国の奥深くには、誰も近寄らない茨の森がありました。そこには恐ろしい魔女が住んでいるという噂です。その魔女はあらゆる知識や魔法を知っていて、命を操ることすら出来るということでした。ひいさまが知る中でもいちばんの博識者である亀のおじいさんでさえ、その魔女のことはあまり詳しく知らないということです。

 王子に恋い焦がれたひいさまは、思い余って魔女の元を訪れました。普段生い茂っている茨が掻き分けられ、まるでひいさまのことを待ちわびているようでした。少しでも身動みじろぎすれば鋭い棘が刺さってしまいそうです。ひいさまはゆっくりとその奥を目指します。奥へ進めば進むほど光が届かぬ海の底、辺りはどんどん暗くなり、迷路のような茨がひいさまの周りを囲んでいます。その透き通った肌に無数の傷がついたころ、ひいさまはどうにか一つの洞にたどり着きました。ほんのりと灯った明かりは穏やかな夕焼け色です。何かの骨のようなものが吊り下げられ、不思議な揺らめきをしています。ひいさまが奥を覗き込むと、妖しく光る水晶や真珠を並べた、一人の年老いた人魚がいました。そのヒレは幾股にも裂けていて、軟体動物のように複雑に動いています。魔女は不意にひいさまの方を見据えると、ゆっくりと近づいてきます。そして優しくひいさまの顔を両の手で包み、二人の目が合いました。深く入った皺は無表情で、何を考えているのかわかりません。ただ、その瞳は深い悲しみを湛えているようでした。ひいさまが思わずその手を取ろうとすると、魔女がはっとして手を離しました。それから一度奥へ引き返すと、不思議な色の液体が入った小瓶を手にしてやって来ました。ひいさまは一目見て、それが王子に近づく唯一の術だということがわかりました。魔女はその小瓶の栓を開け、ひいさまに渡しました。どうして老婆が小瓶をくれたのか、この小瓶の中身は本当に望むものなのか、ひいさまには何一つわかりませんでした。けれどこの小瓶を使えばきっと王子に会える、そうひいさまは確信していました。その液体を一気に飲み干します。燃えるように熱く、同時に凍えるように冷たい液体が喉を通ります。魔女は今しがたひいさまが通ってきた茨の森を指して頷きます。細かい茨の棘などもう気にしていられません。なるべく早く、海の外へ、彼の下へ。そう思いながらひいさまは鮫よりも早く泳いでいきました。

 海面に顔を出したときには、日差しが傾こうとしているところでした。ひいさまは辺りを見回して、近くに見える陸地を目指します。その途中、再び王子の船を見つけました。ひいさまはもう居ても立ってもいられない気持ちで船に近づきました。指先は冷たく、けれど頬は火照るようです。次第に体から力が抜け、ひいさまは意識を手放しました。

 ひいさまが次に目にしたのは抜けるような青空でした。ズキズキとヒレが痛み、思わず手をやるとそこにあったのは硬い鱗ではなく柔らかな皮膚。ひいさまのヒレは人の子と同じように、脚へと変化していました。その体があるのは船のデッキのようです。ひいさまは王子の船に引き上げられていたのです。そしてあんなにも恋い焦がれた王子が目の前にいました。王子は何か言いながら柔和な笑みでひいさまに手を伸ばします。人間の言葉を知らないひいさまには、何を言っているのかはわかりませんでしたが、その微笑みは不安を全て打ち消してくれました。王子は自らのマントをひいさまにかけてくれます。そのときに自分が一糸纏わぬ姿であることに気づいたひいさまは、顔を赤らめながらも王子の手をとって立ち上がりました。その脚に激痛が走ります。思わずよろけたひいさまを王子は優しく抱きとめてくれました。そしてひいさまの手を引いてゆっくりと船室へ入って行きました。

 それからひいさまは王子の城に連れて行かれました。離れの一室で海の魔女によく似た老婆がひいさまの体調を看てくれました。ヒレを失った代償か、はたまた外の世界に来たからか、ひいさまの声はこの世界ではかすれて聞こえないようです。老婆がいろいろと薬を出しては、世話をしてくれました。海を見下ろすテラスの付いた広い部屋と使用人が与えられ、ひいさまはそこで過ごすようになりました。王子とはあまり会えませんでしたが、時折顔を見に来てくれ、ひいさまを連れて船を出してくれることもあったので、ひいさまはそれでしあわせでした。脚は変わらず酷く痛みましたが、ゆっくりと城の庭園を散歩するのがひいさまの好きな時間でした。大輪の花は色とりどりに咲き、小鳥のさえずりや雨音でさえひいさまには珍しく思われます。海に行ったときには仲間たちの姿を探しましたが、海の底で生活する身、大きな船に乗っているひいさまとはすでに世界が違ってしまったのでしょうか。誰にも会えず、それだけはひいさまの胸を切なくさせました。老婆の出す薬は次第に多く、そして怪しげなものが増えてきました。それにともなって王子の面会は減り、海へ連れて行ってくれることもなくなってきたのです。ひいさまは部屋の窓から海を眺めては、王子のことを恋しく思う日が続いていました。

 ある日、ひいさまは王子が豪華なドレスを着た女性と歩いているのを目にしてしまいました。仲睦まじく手を組んだ二人には多くの使用人が傅き、女性の身分も高いのだとひいさまにも理解できました。寄り添いながら王子はひいさまにするように柔らかく微笑みます。そしてひいさまにするよりももっと優しく彼女の手を引いていきます。ちらりとひいさまの方を見た気がしましたが、王子は視線を外して多くの人を従え宮殿に入っていきました。

 ひいさまは痛む脚も気にせず部屋に駆け込みました。人魚にはないはずの涙がボロボロと流れます。ひいさまは外の世界に出て初めて、声をあげて泣きました。枕に顔を埋めながら、ひとしきり泣いた後、ひいさまはあることに気付きました。音が変わって聞こえるようになっていたのです。驚いたひいさまは泣き腫らした目をこすりながら部屋を出てみました。先程まであれほど痛かった脚が、今は羽根のように軽やかです。人魚にはない涙を流したことで、体に何か変化が起きたのでしょうか。部屋の外には人がおらず、おそらく王子たち二人と行動を共にしているのではないかと思われました。ひいさまは小走りで王子を探します。すると廊下の先を老婆が曲がっていくところが見えました。静かに老婆の後を追うと、何か呟きながら部屋に入っていきます。そしてすぐに出てきました。どうやら何かの記録を残した書類を部屋においてきたようです。ひいさまは老婆が飲ませてくれた薬のことを思い出して、そっとその部屋に忍び込みました。老婆の部屋は海の魔女の洞に負けないぐらい不思議なものがたくさんありました。机の上には乱雑に書類が置かれています。ひいさまはふとその書類に目を落として驚きました。文字が読めるようになっていたからです。ひいさまはやはり人間になってしまったのかもしれません。老婆の残した書類には大したことは書いてありませんでしたが、本棚に置かれた日記帳には衝撃的なことが記されていました。人魚の肉には人間を不老不死にする力があり、王子はその力を欲しがっていること、ひいさまに魔法をかけて王子のもとに誘いだしたこと、人魚としての存在価値のないひいさまをもはや見限ったこと、人魚の肉を手に入れるために隣国と政略結婚をし、協定を結んで共に人魚の国を襲おうとしていること。ひいさまはすうっと目が覚める思いでした。あれほどまで王子に恋い焦がれたのは、老婆のかけた呪いとも呼べる魔法だったのです。ひいさまの心も体も引き裂かれるように痛みはじめました。これは呪いにひいさまが気づいてしまった代償かもしれません。ひいさまはふらつきながらも自室に戻ります。猛烈に海に包まれたくなりました。脚が痛んだときよりも鋭い痛みが体を襲います。それでもひいさまは海を目指しました。ひいさまの部屋のテラスは、海を一望できる突き出た構造になっています。ひいさまはそこから身を乗り出し、一息に海へと飛び込みました。もう人間になってしまったであろうその身は、人魚だった頃のようには受け入れてもらえないでしょう。けれどひいさまはそれでも海に帰りたかったのです。ひいさまの体は海に入ると泡沫のように沈んでいきました。

 海の魔女は真珠を選ぶ手を止め顔を上げました。そして静かに茨の森を抜けて出ていきます。茨の森を抜けた先には、ひいさまの祖母である女王がおられました。魔女が目を伏せると、女王は深く頷きました。それから二人は音もなく海面に向かいます。二人が顔を出した先には王子の船。ひいさまがいなくなったことなどなかったかのように、王子は宴に興じています。女王は両手を組んで何やら祈りを捧げ始めました。すると船近くに渦が巻き始めたのです。それは女王の深い悲しみであり、強い怒りでありました。揺れる船内は一気に慌ただしくなりました。誰かが知らせたのでしょう、老婆が甲板に飛び出してきます。老婆は魔女の姿を見て目を見開きました。それもそのはず、老婆と魔女は血を分けた姉妹だったのです。老婆は一人の人魚を犠牲にして、人間の世界に取り入りました。自らの身体を実験台としたそれで、人魚から人間の身となりながらも老婆は不老不死に近い体を得たのです。更に確実な不老不死の体を得ようと、また、同じく不老不死を望む王子に近づいて富と名声を得ようと、人魚の肉を狙っていたのでした。渦は一層大きくなり、船を飲み込みます。バキバキと音を立てながら船が壊れ、王子も老婆もそのまま海に投げ出されました。その二人の体を魔女の脚が捕まえます。二人は藻掻きながらも魔女とともに深い海の底へと沈んでいきました。

 一夜明けて、得体のしれない化物に王子と老婆が海に引きずり込まれたと、城では大変な騒ぎになりました。人魚の肉を狙っていたことを知っている人は僅かでしたが、ほかの場面でも王子の利己的な部分が見え隠れしていたこともあったのでしょう、祟りだという声が絶えませんでした。人魚の肉を手に入れるために重要な役割を担っていた老婆がいなくなったこともあってか、隣国との協定も立ち消えとなり、必要以上に船を出すこともなくなったようです。

 丸く大きな月が黄色く微笑む夜、女王と魔女はひいさまが身を投げた海面で祈りを捧げていました。女王が15の祝いに送った真珠のネックレスが、岩陰に引っかかってキラキラと光っています。魔女がそれを手に取り、両手で包み込みました。するとその真珠はさらさらと粉になり、風にのって舞い上がっていきます。それはまるで、空気の精霊がひいさまの御魂を空高く連れて行ってくれるようでした。

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