第24話

『――忍センパイ! 相談があるんですけど!!』

 そう、山本さんからチャットが来たのは、高橋くんの相談に乗った翌週の平日夕方五時。

 オフィスでの作業に飽きてフロアの隅っこにある自販機まで来たところだった。

 近くの談話スペースで、冬島さんが最近よく見かける男性に話しかけられているのが気になってしまい、気付けば文面の確認もしないままチャットを開いてしまった後だった。

 まぁ山本さんについてはまたあとで考えるとして、そんなことより椅子に座って俯く冬島さんと、それを立った状態で覗き込むように話しかける彼らの雰囲気が気になってしまい、僕は会話が聞こえる位置に座って耳をそばだてる。

「ねぇ~、いいじゃん? いつならいい? 奢るからさぁ」

 と、男性は何かを積極的に誘っているが、冬島さんが明らかに困ってる様子が背中から伝わってくる。

「あ、次の土曜? 土曜ね、おっけー。じゃあ、土曜夕方六時ね。よっろしくぅー!」

 何も言っていない冬島さんに約束を取り付け、スーツ姿の男性は隣接する喫煙室へ背中越しに手をひらひらさせて消えていった。

 僕は胸がザワついて、冬島さんに近づいて話しかける。

「あの、冬島さん……?」

「ひゃあっ!?」

 驚いた拍子に机上のコーンポタージュが倒れ、白い円卓に流れ出た。

 幸い、残りは僅かだったようで、近くにあった共用のキッチンペーパーで慌てて拭き取り、数滴落ちた床も、僕は地面に這いつくばって近くにあった備え付けのキッチンペーパーで床の絨毯を叩いた。

 運動不足の腕がちょっとぷるぷるする。

 冬島さんは困った笑顔を浮かべ、

「すみません、ボケッとしてて。ほんとダメですね、私」

 冬島さんが自嘲するように笑う。

 何かフォローしなきゃと言葉を探すうち、「すみません、戻りますね」と冬島さんは顔を隠して席を立ち、去ろうとする。

「あ、ちょっと」

 僕は咄嗟に細腕を取っていた。

 数秒、迷ってから、

「零しちゃったんで、弁償しますから」

「あ、いや、そんなお気遣いなく……」

 猫背になって遠慮する冬島さんに、「まあまあ、僕もちょうど休憩だったので。話し相手欲しかったんすよ」と笑いかけつつ手を引いて誘導し、椅子を引いて座らせた。

 その位置は、喫煙室からなるべく遠く、背を向ける形。

 近くの自販機の前に立って振り返り、声をかけた。

「同じのでいいですか?」

「あ、はい。大丈夫です」

 つぶつぶ入りのコーンポタージュと、アルギニン推しの炭酸を買った。冬島さんに缶を手渡してから、円卓なので斜め向かいに座る。

 指先を震わせながら、休み休みプルタブを起こそうとするところを見て、僕が代わりに栓を開けた。

 無言で二口ほどお互いにすすったところで、僕は単刀直入に聞いた。

「さっきの人、前からウザ絡みしてますけどなんなんすか?」

 両手で缶を持ち上げて、口元に運びかけていた冬島さんに腕が止まった。ややあって、口をつけることなく机の上に戻す。

「前の部署の方なんです。私、本当に役立たずなんですけど、本当によくしていただいて……。その、悪い人じゃないんです」

 僕は思わずブフッと失礼な笑いを漏らしてしまった。すみません、と一言断りを入れて、

「でも、まだそんなに一緒にお仕事するようになって、日が経ってない僕ですら冬島さんが嫌がってるの、すぐ分かりましたよ。嫌なことをする人のどこが『いい人』なんですか?」

 冬島さんの感情と、言葉の矛盾に言わずにはいられなかった。

「それは……」

 眉根を寄せて何か言おうとする素振りは見せても、声にならないようだった。冬島さんが何か言ってくれるまで、言葉を待つつもりだった。

 ああそうか。イライラしたんだ。そう、すごく。いつかの自分を見ていたようで。

 気まずい固まった空気が僕らの間に溜まったままで少し経って、さっきの男性が喫煙室から出てきて、こちらへ顔を向けながら休憩室を出て行く。薄く笑んでいたのがますます気に入らない。

 視界から消えるまで、自然と睨みつけるような視線になって追って彼を見送ったあと、

「こんなとこでサボって、いちゃつくのは感心しませんね」

 と、今度は不意に背後の頭上から声が降ってきて、体を文字通り跳ねさせながら振り返った。

「相沢さん、これは……その……」

 今度は僕が何も言えなくなる番だった。気が動転して、説明をする言葉が何一つとして出てこなかった。

 端から見たら、冬島さんを詰問しているように見えたかもしれない。誤解されることだけは避けなければ、何かを言わなければと、そればかりが思考を支配していた。

 相沢さんは、僕の右隣の椅子を引いて腰を下ろして、一度眼鏡を上げてから僕を見た。

「で、ほんとは? 何かあった?」

 僕が一度深呼吸をして説明をしようとした機先を制し、冬島さんが言う。

「私がっ! ……私から、言います」

 そこからさらに数秒待って、相沢さんは急に優しい声音で言った。

「コンポタいいですね。俺もちょうど飲みたいとこだったんですよ」

 えっ、まさか関節キス!? と、面食らったが、さすがにそんなことはなく、一度席を立って冬島さんのものと同じコーンポタージュを購入しようとして、指先を迷わせてから、僕と同じ黄色い缶を買っていた。あっ、売り切れか。と呟きが聞こえた。

 僕のと同じ黄色い缶を持ち、席に戻ってきて言う。

「利田さん。代わります」

 いつもみたいに口の端を釣り上げているくせに、目が笑っていない彼の目線に頷いて、僕は席を立った。


 自席へ戻ってから、三十分くらいして二人は何事もなかったかのように戻ってきた。

「いろいろと、ありがとうございます」

 相沢さんはそれだけを僕に言った。

「いえ、結局何もできませんでしたけどね」

 小声で返した僕に、笑った。今度はちゃんと目元も笑っていて、少しほっとしてしまう。

「たまには上司らしいこともさせてもらいたいものです。 ……困ってたなら、もっと早く言ってくれればよかったのにね。それができないから、悩むんでしょうが」

「あのあと、どうしたんですか?」

 話の流れから気になっていたことをぶつけてみたが、相沢さんからは「プライバシーです」と教えてもらえなかった。ただ一言「大丈夫ですよ」とだけ。

 けれど、宙ぶらりんになっていた疑念はすぐに晴れた。ほかでもない、冬島さん本人から個人チャットが来たからだ。


『お疲れ様です。ご心配をおかけしてしまってごめんなさい。土曜日ですが、行く必要はないというのと、上に相談すると相沢さんに言っていただけました。それもなんだか悪い気がして困っていたら、じゃあ俺と出掛けますかって言われて、先約ってことで田村さんにはお断りすることにしました』

『あ、でも相沢さんには言わないでくださいね。内緒ってことになってますから』

 ニチャァとした笑みが、僕の口元に浮かぶ。やるなぁ、相沢さん。

 僕は、『了解しました。楽しんできてくだあしくださいね!!』と勢い余って誤字った返信を返してしまった。

「ニヤニヤしないでもらえますか」

「してないです」

 ぎくりとして、不自然な笑みを不自然な真顔で繕う。

「単なる不可抗力ですよ。他意はないです」

 あまりにも温度のない声で言うものだから、僕はそれ以上は何も言えなかった。

 とりあえず、冬島さんには黙っておこう。そう心に決めたところで、ブブ、とスマホが鳴った。


『既読無視しないでくださいよぉー』


 山本さんからだった。忘れてた。

『今、仕事中なので。どうしたんですか?』

 短く返信をし、個別の通知をオフ。僕や詩穂にも影響があるような、よほど大切なことだと嫌なので、一応尋ねておく。

 帰りにでもまた見ることにして、僕は画面を切り替えて詩穂から来ていた雑談に返信した。近々帰りの時間を合わせて、飲みに行こうと話してたところだ。

 ……早く会いたいなぁ。

 胸の中がウズウズしてくすぐったくなってしまい、終業までの残り時間を確認し、スマホを見たいという気持ちを我慢して作業に戻った。


 帰り道、通勤電車の中。

 気が進まなかったけど山本さんからの新しい通知を見る。

『最近、高橋くんの束縛が酷くて、辛くて……。忍センパイに守ってほしいです……。こんなこと、センパイにしか頼めないんです』

 うへぇ、めんどくせぇぇぇ。

 口を閉じたまま、深呼吸のようなため息をついてしまう。満員電車だから仕方ないとは思うものの、ツンと鼻の奥を突く汗の臭いに、反射的に顔をしかめてしまった。

 ゴテゴテギラギラ絵文字満載のチャットに返信する文面を考えているだけであっという間に最寄りについてしまった。駅を出たところで一度足を止め、山本さんには『具体的に、どうしてほしいんですか』と短く返しておいた。

 すぐに既読がついたが、僕はそこから先を見る気も起きなくてアプリを落としてスマホをポケットに突っ込んだ。できれば察してくれなくてウザいとか思ってもらって、自然消滅してくれるのが理想。

 モヤモヤと今後のことを考えていたら、夕食をどうするかすっかり忘れていて、思い出した時にはすでにスーパーは通り過ぎてしまったあとだった。

 アパートまでの道も半分以上来てしまっていた事実がなおさら食欲を削ぎ、それでも少し戻ってコンビニで済ませることにした。

 ……お酒、買って帰ろう。

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まつりのあと ハル @Falcram

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