川瀬省吾6

 雨に濡れながら徒歩で50分程かけて茜さんの部屋の前に辿り着いた。


 チャイムを鳴らすと同時に、勢いよく扉が開く。


「省吾くん! どうしたの? とりあえず入りな」


 茜さんはすぐにバスタオルを持って来てくれた。


「茜さん……」


 扉が閉まると、バスタオルを受け取らず、ずぶ濡れのまま玄関で茜さんを抱き締めた。

 茜さんの顔を見た瞬間涙が溢れ、只々茜さんの温もりを感じたくなった。

 俺のせいで茜さんも濡れてしまうとか、この時はもう何も考えられなかった。


「省吾くん……」


 茜さんも抱き締め返してくれた。茜さんの温もりは雨で冷え切った俺を、少しずつ優しく温めてくれた。

 茜さんの艶のある髪、シャンプーの匂い、白い肌、少し鼻にかかる声、華奢な身体、どれも愛おしくて茜さんの全てが欲しくなった。

 そして汚れてしまった自分を、けがれのない綺麗な茜さんで洗い流したかった。いや、むしろ茜さんを俺で汚したかったのかもしれない。



 数秒の沈黙の後、半ば強引にキスをした。舌を絡ませ、深く深く口づけを交わす。茜さんの全てを飲み込んでしまいたいと思った。


 そして見つめ合うと

「はぁ、はぁ……いいよ」と深いキスの影響からか、茜さんが吐息を漏らしながら言った。


 そのまま体も拭かず茜さんの寝室にあるベッドに向かう。


 茜さんをベッドに押し倒すような形で、再びキスをした。

 そして俺は欲情のままに茜さんを汚した……何度も何度も……

 そんな俺を茜さんは受け止めてくれた。何一つ理由も聞かず。



 事を終え時計に目を向けると、茜さんの家を訪れてから2時間ほど時計の針が進んでいた。

 そして茜さんが口を開く。


「省吾くん。私達……付き合おっか」


 俺が自分の痛みを紛らわす為に、茜さんを利用した事など、微塵も感じていないように優しく微笑んで言ってくれた。

 その言葉の意味は俺にとってとても重く、心の深い所に突き刺さった。


 そして自然と涙が溢れた。


 冷静になり、自分がした事の重みを知る。

 自分が関わる事で命を落とした、あの暴力団の事ではなく、愛する人を自分の手で汚してしまった事の重みを。


「はい」と答えて茜さんを抱き締めた。今度は優しく。


「じゃあ宜しくね」


 抱き締めた腕の隙間から茜さんが顔をひょっこり覗かせて言った。


 この人の笑顔を絶対に守ると、俺はこの日誓った。




 月日は流れ、俺達は沢山のデートを重ねた。その中で、いつしか2人の呼び方も変わり、俺は『茜』と呼ぶようになり、茜も『省ちゃん』と呼ぶようになった。

 そして茜の28回目の誕生日をお洒落なバーで過ごしていた。


「誕生日おめでとう。これからも宜しくね」と持っていたグラスを茜に近づける。


「ありがとう。けど歳はとりたくないなぁ」


 そう言って茜は俺のグラスに自分のグラスを軽くあてた。


 しばらく話をしながら、この店のバースデーディナーと言われているコース料理を楽しんだ。

 頃合いを見て俺がバーテンダーに合図を送ると、茜の前にバースデーケーキが運ばれて来た。


「え!? 嘘!? こんなの用意してくれてたの? 嬉しい……」と茜は涙を流した。


 どうやらサプライズは成功したみたいだ。付き合ってから沢山の時間を一緒に過ごしたが、茜の涙を見たのはこれが初めてだった。

 そしてバースデーケーキを持って来た女性のバーテンダーが、すぐに白ワインを持って来た。


「この度はお誕生日おめでとうございます。こちら川瀬様からのプレゼントで、28年前のシャトー・ディケムです。このワインは貴腐ワインと呼ばれるもので、白ワインを作る過程で貴腐菌というものが付着し、糖度と芳香が高まったワインとなっています。またデザートワインとも呼ばれ、蜂蜜のような甘さが特徴ですのでお楽しみ下さい」


 そう言ってバーテンダーが笑顔でグラスに注いでくれた。


「えっ!? 嬉しい! 生まれ年のワインなんて初めてだよー。しかもシャトー・ディケムってずっと飲んでみたかったやつだぁ。値段も高いし、なかなか手に入らなくて諦めてたのに。ありがとう、省ちゃん」


 茜が両手で口を覆い喜んでいた。

 俺にとっては、その喜ぶ茜の姿が何よりのご褒美だった。


「喜んでもらえてよかった。じゃあ飲もう飲もう」


 俺達はワインに口をつけた。


「……美味しい」と2人の声が重なる。


 口に含んだ瞬間、ビスケットのような優しい風味と、杏ジャム、蜂蜜、ヴァニラの香りが渾然一体となり、複雑な香りと味が鼻と口を刺激した。

 ヴィンテージ物のワインの場合、この複雑性が味の良し悪しを決める。複雑性が増すほどに深い味わいがあり、その味は一度味わうと忘れる事が出来ない。



 ワインやケーキを堪能していると

「さっきの女性のバーテンダーさん、本当に素敵だったね! 立ち振る舞い方とか本当に憧れちゃうなぁ。

 いつかさぁ私、省ちゃんとバーを開きたいなぁ。省ちゃんがマスターで、私がバーテンダー。レトロな雰囲気で洋楽なんか流してさぁ。小さくてもいいの、そこに数人のお客さんが集まってね、私達も混ざってくだらない話をしたり、色々なお酒を飲んだりしたいなぁ。楽しそうじゃない?」と左のえくぼを露わにして笑顔で夢を語った。


「やろうよ。俺、今よりもっと料理とか上手くなって、美味しいつまみもいっぱい考えるし! 茜は今の会社のコネ使って、沢山のお酒を仕入れてくれれば、きっとお客さんが満足出来るような最高の店が出来るよ」と真剣な表情で言った。


「いいの? なら私も頑張るから計画たてよ! 色々とお金もかかると思うから貯金していかないとね」


 この日、2人にバーを開くという共通の夢が出来た。決して簡単ではないし、大変なことの方が多いかもしれないが、茜とならどんな事でも笑って乗り越えられる気がした。





 数日後、茜は俺が住んでいるボロアパートに引っ越してきた。一緒に暮らした方が遥かに貯金できるし、バーを開くという夢を少しでも早く実現したかったからだ。

 茜の住んでいたマンションに暮らす案もあったが、少しでも早くという茜の強い希望により、家賃の安い俺のボロアパートに住む事となった。

 ボロアパートでの暮らしはお世辞にも快適とは言えなかったが、長い時間一緒にいれる事がお互い何よりも嬉しかった。

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