川瀬省吾7
一緒に過ごし始めて3ヶ月が過ぎた。
クリスマスも年越しも、このボロアパートで過ごしたのだが、その間俺は裏世界での仕事は全て断るようにしていた。少しでもちゃんとした人間になり、茜と夢を叶えたかったからだ。
普通の仕事は裏世界での報酬に比べれば収入も少なかったが、2人で働けばそれなりに貯金も出来たし、後ろめたい気持ちもなく幸せだった。
そんなある日、茜が体調を崩した。
「ごめん……今日かなり気持ち悪いわぁ。会社休むね」
脇腹に手を当てながら茜が険しい顔をしている。
「大丈夫? 無理するなよ。今の時期ノロウイルスとか流行ってるから、病院で診てもらってゆっくり休みな」と茜の腰をさすりながら言った。
もう少し一緒に居て看病してあげたかったのだが、仕事の時間が迫ってきて家を出発することにした。
「ゴメン。じゃあ行ってきます。何かあったらすぐ連絡してな!」
「うん……行ってらっしゃい」
営業職の社会人向けセミナーを終えて、俺は急いで家に帰った。
朝の様子からしてもかなり体調が悪そうだったので茜が心配だった。
1秒でも早く顔を見て、無事か確認したい。
「ただいま。茜、大丈夫?」
玄関で脱いだ靴も揃えずリビングに向かった。
まだ朝晩と寒さが残っていた為、片付けていなかった時期外れのコタツに茜は入っていた。
「省ちゃん、おかえり。大丈夫だよ。朝より楽だし」
その言葉を聞いて俺は安心した。
心配で
だが次の瞬間
「大丈夫なんだけど、これ……」
そう言って茜は、小さな紙袋を渡してきた。
恐る恐る紙袋を開けると中から、陽性反応を示した妊娠検査薬と、母子手帳が出てきた。
「なんか吐き気すごくて、変だと思って検査薬使ったら妊娠してたみたい」
「……本当に? 俺が父親になるの?」
あまりの驚きに何が起きているのかよくわからない。嬉しさと不安と色々な感情が湧いてきて体が少し震える。ただ、最後には喜の感情だけが残っていて、自然と涙が頬をつたう。
「私達の赤ちゃんだよ。省ちゃんがパパだって! なんか変なの! ……幸せだね」
茜の目にも涙が滲む。その涙を指でぬぐいながら、母子手帳の中にあった1枚の写真を見せてくれた。
「今3ヶ月だって。見て! まだぼやっとしてるけど頭とか手とかあるんだよ」
2人で顔を近づけ1枚の写真を見る。
写真を見ると確かに頭や胴体らしきものが見える。ほんの少しだが実感が湧いてきた。
「大事にしていこうね」とお腹を優しくさすりながら言った茜の顔は、既に母親の顔をしていた。
お腹をさする茜の手の上から、俺も一緒にさすった。
「あぁ。大事にしていこう」
優しく茜にキスをした。
その後、
俺も仕事をしながらも可能な限り家事をして、サポートをした。
その甲斐あって、順調に赤ちゃんもお腹の中で育っていった。
「今日の晩御飯何が食べたい? 茜さんに言ってみなさーい」
「言ってみなさーい。ってか作るのは俺でしょ! 茜料理苦手じゃん」
そんな冗談を言いながら、俺達は近所のスーパーで夕飯の買い物をしていた。
「赤ちゃん、今日も順調だったね。よかったぁ。てか女の子だったねー! 性別分かったし、そろそろ名前も考えなきゃ。あと、おくるみとか肌着でしょ、それにバウンサーとかも買わなきゃ。やる事多くて忙しいね」
買い物カゴを乗せたカートを押しながら、茜が笑顔を見せている。
赤ちゃんの話をする時は決まってこの顔だ。そして俺にとって、茜のこの顔を見る事が何よりも幸せだった。
「ほんと忙しいよな! まぁでもそれが楽しいんだけどな。名前かぁ……どうやってつけたらいいんだぁ? 難しいなぁ」と茜の顔を見て言った。
茜は頷いて
「うんうん。難しいね! 今日から本とか携帯とかで調べながら考えよう!」と返した。
「省ちゃん、見て! いいなぁ」と言った視線の先には手を繋ぐ親子の姿があった。
父親と母親の間に挟まれ両手を繋いでる女の子。年齢は3歳くらいだろうか。
「あたしきょうツルツルが食べたい」と女の子は両親の顔を笑顔で交互に見つめ、おねだりしている。
「おっ! いいねぇ! パパもツルツル大好きだから今日はツルツルにしようか」
そう言って父親はそうめんをカゴに入れた。
「もぅ、2人共勝手に決めないの! ちゃんとお野菜も食べるんだよ!」と母親が言うと、父親と女の子は「はぁい」と声を揃えて、顔を見合わせた。
そして3人共笑った。
「幸せそうだなぁ……」
思わず言葉が俺の口からこぼれ落ちる。
そして、茜のお腹に向かって小さい声で
「赤ちゃーん。パパとママ待ってるからね」と話しかけた。
「ホント早く会いたいなぁ」とお腹をさすりながら茜も赤ちゃんに話しかけた。
ーーその日の夜ーー
2人で布団に入っていると、急に茜が泣き出した。
「どうした? どこか痛む?」
急な出来事に戸惑いを隠しきれない。
お腹が痛むのか、辛い事があったのか……ただ長く一緒にいて茜の涙を見るのは、これが2回目の事だった。そして悲しい涙を見るのは初めてだったから、どうしていいか分からなかった。
「あたし、お父さんやお母さんみたいに早く死ぬのかなぁ? 省ちゃんと、お腹の赤ちゃんとずっと一緒にいたいよ……」と茜の涙は止まらない。
「何言ってるんだよ! 絶対大丈夫だから! 心配しなくて大丈夫だよ」
【マタニティブルー】という言葉を聞いたことがある。もしかしたらその影響なのかもしれない。茜のこんなに弱々しい姿は初めてだった。
「あたしも癌になっちゃうんじゃないかなぁとか思うんだ。……!? 今蹴った! お腹蹴ったよ」と驚いた茜が俺の手を自分のお腹に当てる。
たった今まで不安定だった茜の心は一瞬で落ち着いた。
俺にはその行動が、落ち込んでいたママを赤ちゃんが励ましているように感じられた。
「……!? 分かった! 確かに今蹴ったよね」と俺達は顔を見合わせた。
俺の手にもお腹を蹴る衝撃が伝わってきた。まだまだ弱いが、あたしはここにいるよ。という強い意志みたいなものを感じる。
その衝撃は俺達に勇気を与え、前を向かせる。希望の光が見えた、まさにそんな感覚だった。
「赤ちゃんの名前さぁ、
「うん。いいと思う! ひかりぃ。待ってるからねぇ」
茜はとても嬉しそうにお腹に向けて話しかけた。
「ひかりぃ。パパも待ってるから頑張るんだぞぉ」
俺も茜の真似をした。
赤ちゃんの名前も決まり、茜は笑顔を取り戻した。そして2人は晴れやかな気分になり眠りについた。
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