小村香織7

 食器の片付けを終えて10分程リビングで休み、絵を描く準備をしていると香織がシャワーを浴びて部屋に戻ってきた。


「お待たせ。このくらい濡れていればいい?」


 上下、グレーの部屋着に着替えた香織が髪の毛を触りながら聞いてくる。


「大丈夫です。乾いてきたら、霧吹きで少し濡らしますね! じゃあ早速ですけど準備してもいいですか?」


 俺は笑顔を見せ、リュックから道具を取り出した。


 時刻は午後9時を過ぎたところだった。

 今回、香織の絵を描く最大の目的は俺の事を好きになってもらう為だったが、絵を描く者として純粋に香織を描いてみたいと思った。

 それ程までに小村香織という女性は綺麗であり、内面の強さや逞しさ、また弱さや寂しさなども持ち合わせていて、とても魅力的であった。


「ここでいいかな?」


 香織はベッドの端に座ってバスタオルを横に置いた。


「そこで大丈夫です。えっと……やっぱりバスタオルを辞めてそこの薄めの羽毛布団にしましょうか」


 バスタオルではいまいち雰囲気が出せないと思い、羽毛布団に変更した。


「こんな感じかな?」


 部屋着を着たままの状態で布団を羽織り、香織が背を向けた。


「うん。バッチリです! じゃあ始めるので脱いでもらってもいいですか?」


 イーゼルにキャンパスを立て掛け、椅子に座り、服を脱ぐよう促した。


「はい……なんかいざとなるとやっぱり恥ずかしいね」と照れながら香織が脱ぎ始める。


「そうですよね。無理言ってすみません。でも絶対良い絵が描けると思うのでお願いします! 脱ぎ終わったら言ってください」


 香織が脱ぎやすいように後ろを向いて話した。

 今香織にしてあげられる配慮はこれくらいしかない。


「下……も?」


 少し不安そうに香織が尋ねてくる。


「下は布団に隠れるので脱がなくて大丈夫です。風邪引いたら大変ですしね」


「そ、そうだよね。……脱ぎました」


 香織が準備を終えた。


 振り返ると背中が羽毛布団のたるみでざっくりと見えている香織が、顔だけ少し振り返りながら恥ずかしそうにしていた。

 あまりにも魅力的で、すぐにでも描き始めたいと思った。


「香織さん……すごく綺麗です! 早速描かせてもらいますね。寒かったり疲れたら言ってください。少し長くなると思うので休憩しながら描きたいと思いますので」


 そう言って描き始めた。



 15分程黙々と描き進めた所で香織に質問をする。

「香織さんて今までどんな恋愛してきたんですか?」


 描いている手は止めないで聞いた。


「うーん。ここ最近は全くかな。6年くらい前、入社したての時に当時、同じ課の課長だった人と付き合ったのが最後かな。仕事も出来て、部下にも優しく丁寧な人でね、社内でも人気のある人だったの。仕事の相談を乗ってもらってる間に自然と2人でご飯に行くようになって、そのまま付き合う事になったんだぁ。他の社員の人にバレないよう秘密にするのも何かスリルがあって刺激的だったの。でもね……その人妻子持ちだったんだぁ。

 斉藤さんとご飯行った時に家族の事聞かされたの。課長と社内でも少し仲良くしてたのもあって遊ばれる危険があるから気をつけなよって忠告を受けたんだけど既に付き合ってたから言い出せなくてね。

 それから3ヶ月くらいかな。結局家族捨てる気はないって。はっきり言われた。なんかそれから恋愛ってめんどくさいなぁって思って今に至ってます」と苦笑いしながら話してくれた。


「そんな事があったんですね。確かにそういう経験したりすると、なかなか次の恋愛って踏み出せないですよね。でも恋愛って悲しいだけじゃなくて、嬉しいとか幸せとか、頑張る力みたいなものをもらえる時もありますよ! 心理学の講義の時に学んだんですけど、人は人と心が繋がった時、思考する事なく幸せを感じる事ができる。ってドイツの学者が証明したらしいです。その幸せがまた次の幸せを連鎖的に生みやすいので、恋愛って人が前向きに動く原動力になるみたいですよ!

 てか偉そうなこと言って俺も4年くらい彼女いないんですけどね」とこちらも苦笑いを返した。


「そうなんだね。じゃあ前向きに考えてみようかなぁ」


 俺の話を聞いて香織は少し晴れた表情をしている。


「てかあたし達なんだかんだ似てるよね」とクスクス笑いながら続けた。


「似てますね」


 俺も笑顔で頷いた。

 やはりここでも『共感』というものが効果を発揮した。

 香織の胸の中にある、嫌な経験を少しずつ溶かしていくようなそんな力が今回の共感にはあった。



 絵を描き始めて1時間半、時刻は夜の11時をまわっている。

「半分くらい出来ました! 少し休憩しましょうか。コーヒーいれますね」


 モデル慣れしていない香織からは、さすがに疲れが見え始めていた。

 とはいえ驚異的なスピードで描き進めていた。今までの経験からしてもこんなに速く描けた事はない。

 きっと香織から出ている魅力が、俺の描くスピードをあげたのだろう。


「じゃあ少し休憩にしよう。慣れない事したからさすがに疲れちゃった」


 香織は部屋着を羽織り、ソファーに座った。


「眠くないですか? あっ……てか絵を描きあげたいんでまだ居てもいいですか? 描き終わったらタクシーで帰るんで」


 両手を合わせてお願いをした。


「まだ眠くないよ。てか居てもいいに決まってるじゃん! 描き終わるまでがお礼だから。泊めるつもりだったから気にしないで!」


 明るい表情で香織が言ってくれた。


「ほんとすみません。じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」


 コーヒーをいれ、香織の隣に座った。

 コーヒーの香りと味は2人の疲れた体を癒してくれた。



 15分程ストレッチなどをして休憩をした。長丁場になる事も視野に入れ、歯磨きも済ませ、描くのを再開した。


 そして描く事、4時間半。遂に完成した。


「ふぅ。出来ました! 香織さん。ありがとうございました」


 集中して描いていたのもあり、描き終えた瞬間にどっと疲れが襲ってきた。


「お疲れー。絵、見てもいい?」


 慣れないモデルに香織も疲れていたはずだが、それよりも俺が描いた絵が気になっている様子だ。


「いいよ」


 薄い羽毛の布団を羽織ったまま近くに来て、絵を一緒に見る



「…………」


 絵を見た香織の頬には涙が流れていた。



 絵に描かれている香織はベッドの端に座りながら、横顔が見えるくらい振り返っている。

 少し濡れた長い髪から水滴が、布団の隙間から露わになっている背中に滴り落ちている。

 華奢な肩に背中の筋も綺麗に通っていて、その透き通るような白い肌はギュッと抱きしめると居なくなってしまうような、どこか幻想的な雰囲気も醸し出していた。

 羽織っている薄い羽毛の布団も、その軽さを上手に絵で表現されていた。香織の姿と一緒になると、まるで天使の羽根のようにも見える。


 また振り返っている香織の表情は優しい表情をしているが、どこか寂しそうで何かを求めているようにも見えた。

 そして実際よりもわずかに幼く描かれていた。


 見る人によっては天使が何かを微笑みながら与えてるようにも見え、また別の見方をすると、何かを失い何かを求めている若い女性の姿にも見えた。


 この絵にタイトルをつけるとするならば【心】と名付けるだろう。

 見る人の心の状態によって見え方が変わってくる、また純粋な美をも兼ね備えたその絵はまさに人の心に何かを訴える絵になっていた。




 香織には後者の見え方をしていたに違いない。

 何かを失い、何かを求めている若い女性の姿に潜在的に思い当たる節があったのだろう。

 寂しさを埋めたい。

 甘えたい。

 共感したい。 

 繋がりたい。

 そんな感情を絵を通して自分の事をこんなにも理解してくれる人が近くにいるのだと感じていた。

 俺にはそんな涙に見えた。



「香織さん。凄く綺麗だよ」


 そう言って泣いている香織を後ろから抱きしめた。


 抱きしめる事で、香織の細めの体がよく分かったし、心の寂しさが伝わって来た。それは羽織った布団の上からでもよく分かった。


 香織は振り返り、俺の胸に顔を埋め涙を流した。

「変だね。絵見ただけで泣いちゃって」


「ううん。変じゃないよ。俺には香織さんはこう見えたから……」



 見つめ合い、ごく自然にキスをしてそのままベッドに向かう。

 時間も遅く疲れていたが、やっと理解しあえる人と出会い、心が繋がった。香織はそんな風に思っているように見えたし感じた。

 そして何度も何度もお互いの体を求め合った。






 いつの間にか寝てしまい朝になっていた。隣で眠る香織の顔はやはりどこかあどけない少女の顔をしている。


 服を着て【心】と名付けた絵を見ると、部屋に射し込む朝日がその絵を更に幻想的な物に変えた。

 それを見て絵に色を加える。



 色を塗り終わり絵が完成した時、ちょうど香織が目を覚ました。

「おはよう。よく寝れた?」


 俺は優しく話しかけて香織の隣に座った。


「おはよう。うん。よく寝れた」と香織が少し照れた顔と声で答えた。


 照れた香織の顔を見て、俺はキスをする。


「本当にありがとう。香織さんのおかげで最高の絵が描けたよ」


 互いのおでこを当てながら香織の目を見つめて笑顔で言った。


「こっちこそありがとう……あたしね、拓海君の事好きだよ。迷惑じゃなかったら付き合ってもらえないかな」


 頬を赤らめた香織の姿は、綺麗と可愛さを兼ね備えていて非常に魅力的だった。


 普段強気な態度で振る舞っている彼女が見せる恥じらい。このギャップにおちない男性はいないのではないか? 俺を除いては。

 心理学を学んでいなかったら、マスターとの賭けをしていなかったら、もしかしたら俺も惚れていたかもしれない……


「俺も好きだよ。迷惑なわけないでしょ! 宜しくお願いします」


 そう言ってもう一度キスをした。





 香織の家から帰るとその足でバーに向かった。


 ーーカランカランーー


「今日は早いな。てかやけにでかい荷物だな」


 持っていた絵と沢山の道具を見てマスターが少し驚いている。


「終わったよ」


 一言、香織との事を伝えた。


「そうか……お疲れさん。これな」


 あたかも成功するのが分かっていたかのように、さっと20万の入った封筒を渡してきた。


「てかどうした? やけに元気ないじゃねぇか」


 心配そうにこちらをじっと見ている。


「うん。今回のは何ていうか自分と少し重なるところがあってさぁ……何とも言えないし、どうやって別れようかなってね」



 メンタリストとして自分をコントロールする事は何よりも大事だが、亜矢や香織を告白させるよう誘導させる中でそれぞれの心に深く触れた。それが原因なのかわからないが俺自身、情というか人間味が前より増してしまった気がする。

 メンタリストとしてはあまり良くない傾向だった。


「ところでマスターはこの絵、どんな風に見える?」


 香織を描いたキャンパスを見せて聞いた。


「おっ……これはまた……俺にはこの女性が何か大事なものを失って何かを求めているように見えるな」


 マスターは何かを思い出している様子だった。


 きっとマスターも何か大切なものを失い、今もまだ求め続けているのであろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る