古いアルバムのにおい(1)

 木造の廃屋。少女が懐中電灯の明かりを頼りに廊下へ足を踏み出す。腐りかけているらしい床が、ギィと音を鳴らした。

 佳織はもう既にいやな予感がしている。居なくなった友人とかどうでもいいから家に帰ろう、と叫びたくて仕方がなかった。もちろん、そんなことができるはずはない。

 ほどなくして懐中電灯に照らし出されたのは、今にも倒れそうな扉だ。部屋の名前を示すための金属プレートは錆びがひどくて読み取れない。

 その扉を開けてはいけない。佳織は確信を抱いている。しかしその願いが叶うことはない。

 少女が扉を開けた直後、バッジャーンと恐怖を煽る効果音と同時に、口が頬まで裂け鬼のような形相をした老婆がスクリーンに映し出された。

 ひっ、と佳織の息が止まる。座席のひじ掛けを強く掴んで、背中を丸めた。後ろの方の席からは遠慮なく悲鳴が上がっている。そうか、映画館と言えどこういうシーンは我慢しなくてもいいのかと、佳織はいまさらな知識を得た。

 目を閉じて耳を塞ぐ選択肢はない。そんなことをしたら、きっと物語の結末が分からないまま、怖さをいつまでも引きずってしまう。

 大丈夫、これは作り物だと自分に言い聞かせる。ホンモノだったら、佳織に見えるはずがないのだ。あの老婆が映画のポスターに映っていた山姥だということだって、ちゃんとわかっている。だから怖くない。

 視線をスクリーンに戻す。少女が空き部屋に逃げ込んで扉の鍵をかけ、一息をついている。カメラがゆっくりと少女を回り込むように動いて、その背後に何の前触れもなく先ほどの山姥が映り込んだ。

 佳織は今度こそ悲鳴を上げた。


   ◆


「面白かったねー!」

 ファミレスのテーブルでへこたれている佳織へ向けて、そんな言葉を堂々と言える島崎さんは心が強い。

「嘘つき……あんまり怖くないって言ってたのに……」

「あ、あはは……」

 ジト目でにらみつけると、島崎さんは目を逸らしてわざとらしく笑った。いや、もちろん島崎さんも初めて観る映画なのだから、前評判で判断するしかない。嘘つきと言われても困るのは佳織にも分かっている。

「や、言い訳だけどオカ研の友達から十段階評価で六番目って聞いてたの。怖さは。だから大丈夫かなって」

「それたぶんカレーの辛さの三段階目が普通の辛口、みたいな評価基準……」

 ホラー好きがホラー好きのために用意した十段階評価なんて、上への幅が広いに決まっている。

 映画を一緒に観に行こう、なんて約束したのが間違いだったのだ。

「二条さん、反応よかったからまた誘いたかったんだけど……」

 残念そうに目を伏せられると弱い。怖かったけれど、確かに面白い映画だったのだ。

 先ほどドリンクバーから取ってきたコーヒーを一口飲んで、佳織は気持ちを切り替える。

「今度は怖さの評価がもっと低いやつだと、嬉しい」

 ぱっと島崎さんの表情が明るくなる。映画を面白かったと言っていた時よりもいい笑顔をしてくるのはずるい。

「やった! ホラーはやっぱり怖がってくれる人と一緒に見なきゃ嘘だよね」

 言われてみれば、島崎さんもクライマックスの除霊合戦では悲鳴を上げていた。彼女こそはまさに、怖がりなホラー好き、なのだろう。

「去年はオカ研の子たちとも来たんだけど、なんか終わった後で感想を言ってると評論が始まっちゃうんだよね。演出手法とかオカルト考証とか」

「ああ、少し分かるかも」

 佳織自身もゲームや漫画が好きな方だ。そういった作品に触れたあとは、ただ面白いとか好きとか言っても伝わらない気がして、ついつい理屈をこねくり回してしまう。

「考察とか語るのも好きなんだけどさ、やっぱり映画を観たあとは、死霊術師に噛みついた山姥がめちゃくちゃ怖かった、とか言って盛り上がりたいし」

「あそこは、うん、怖いっていうかもう、血がたくさんで……」

「あ、もしかしてスプラッタ苦手だったり」

「苦手だって今日判明した」

 佳織は重々しく頷いた。高校に上がって悪臭の原因が幽霊だと知り、ホラーというジャンルを避けていたのだ。おかげで、十五歳未満では見ることのできなかった血とか内臓が飛び散るタイプの映画は初体験である。

「次からは避けるね……?」

 そうやって島崎さんと話をしていたら、ポケットの中でスマホが着信音を鳴らし始めた。映画館を出る時に電源を入れ直したのだけれど、その時にマナーモードを解除してしまったらしい。

 ポケットから取り出して、ちらりと画面を見る。家族からではない。……というか、綿乃原先輩だった。歪みそうになる顔を引き締める。

「……出ないの?」

 島崎さんが不思議そうな顔で首をかしげる。

「わざわざ電話なんて、急用かもしれないよ」

 いや、それは違う。単に電話番号しか知らないだけだ。深い意味もなくスタンプを送りあったり、最近食べた美味しいものの写真を送りつけたりする理由がない。

 でも、それを説明することもできなかった。

 それじゃあ悪いけどと島崎さんに断って、佳織は電話に出た。

『佳織ちゃん、今って暇?』

 ほらやっぱり、と佳織は思う。どうせまた、くさい時間へのお誘いだというのに、綿乃原先輩の声は今日も変わらず甘い響きをしている。

 この声を耳元で聴き続けるのは心臓に悪い。佳織はいつものように耳から少しスマホを離した。

「今は暇じゃありませんね」

『あれ、今って佳織ちゃんのやっとるゲーム、イベント中じゃなかったやろ』

 綿乃原先輩はもしかして、佳織が休日に引きこもってゲームするしか趣味がない人間だと思っているのだろうか。だいたい正解なだけに腹が立つ。

 佳織はちらりと島崎さんを見て、にっこりと笑って電話に答えた。

「先輩。私、可愛い女の子とデート中なので、込み入った話は後にしてもらっていいですか?」

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