生物室のにおい(3)
振り返った佳織の視線の先、片手に通学鞄をさげた綿乃原先輩が立っていた。そういえば、窓を開けた記憶はあるけれど、入ってきた教室の戸を閉めた記憶はない。
佳織が着ている制服と同じデザインのはずだけれど、腰の高さとか華奢な肩とかで印象が大きく変わるという身も蓋もない現実と一緒に、綿乃原先輩がこちらへ歩いてくる。
なぜだか綿乃原先輩は、歩きながら教室の中をきょろきょろと見回している。
「綿乃原先輩こそ、何してるんですか」
そう問えば、綿乃原先輩にきょとんとした顔で見返された。
「ん、ここに何かおるんやろ? せやないと佳織ちゃんがマスクしとるわけないし」
佳織は言葉に詰まる。なんてひどい人だ、と心がざわつく。
「だから最初に聞いたんよ。こんなところで何しとるの、って」
「……友達が、肝試しに参加したあと、七不思議で呪われた、らしいんです」
呻くように返した言葉が小さかったのは、息を大きく吸えないからだけではない。それを綿乃原先輩に言うのは、すごくずるいことであるように思えた。
しかし、佳織の後ろめたさなんて気付いていないのか、綿乃原先輩は不思議そうに首を傾げた。
「ははあ、呪われた。なに、そのお友達とは席が近いん?」
「ひとつ後ろの席です、けど」
席の近さが何か重要だろうか。それとも、どうせ佳織には席順くらいでしか友人ができないだろうということか。
「それはまた難儀やなあ。授業中もずっとくさかったら集中できんやろうし」
「えっ?」
予想外の返答に思わず素で返事をしてしまった。息を深く吸ってしまって、そのくささでむせる。
「結構くさそうやね。先にこっちを終わらせよか」
頷いて、綿乃原先輩は視線を教室の片隅へ向けた。人体模型の置いてある場所とは、完全に逆方向だ。その天井近くを指差す。
「あそこにおるんやけど、佳織ちゃん届く?」
また訳の分からないことを言われた。
佳織は背後にある人体模型へ視線を走らせる。そのことに気がついたらしい綿乃原先輩が頷いた。
「ああ、生物室の追っかけてくる人体模型、やったっけ。それと違うよ。佳織ちゃんがくさいのはあそこにおる蛙のせい」
綿乃原先輩は再度、教室の隅の天井近くを指差した。
「蛙……?」
「たぶん生物部あたりが解剖で使ったやつやろ。動物霊になる確率なんて、うちもよう知らんけど。それで、佳織ちゃんのジャンプは届きそう?」
佳織は慌てて首を横に振った。いくら綿乃原先輩より背が高いと言っても、運動部でもない佳織には無理な話だ。何より、スカートで全力垂直飛びなんてしたくない。
「しゃあないなあ」
そう言って、綿乃原先輩は鞄を手近な机に置いて、中からルーズリーフのノートを取り出すと、一枚のページを破り取った。元から切り取り線が入っているタイプだったのか、白いノートは綺麗な長方形をしている。
そこへ、綿乃原先輩はボールペンを使って何やら漢字のような記号のようなぐねぐねとした文字を書き連ねていく。
何をしているのかと問うことをためらっている間に、先輩はペンを置いて、そのページを折りはじめた。
「あの……なにしてるんですか」
「紙飛行機。作ったことくらいあるやろ」
タイミングが遅かったせいで、聞きたいことと違う答えが返ってきてしまった。
綿乃原先輩は手早く紙飛行機を折ると、それを持って教室の隅へ歩いていく。
「えい」
そんな掛け声と共に、紙飛行機が綿乃原先輩の手から飛ばされた。バランスが取れているのか、ふらついたり曲がったりすることなく、紙飛行機はコツリと音を立てて天井にあたってから床へと落ちた。
佳織の方へと綿乃原先輩が振り返り、今度は足元の床を指差した。
「落としたから、今はここにおるよ。ほら、急いで」
言われた内容に気づき、小走りで綿乃原先輩のもとへ近寄る。濃くなるにおい。間違いなく、この辺りにいるのだ。
膝をついて、何もない床へ向かって手を構える。もしもこんなところを島崎さんに見られたら、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。
「ここ、ですか」
「そう」
ためらわず、佳織は平手を振り下ろす。
お風呂の水面を叩くような感触。ついで、ばちりと手の平が床を打った。
冷たい床の温度。
そうして、さっきまで感じていた吐きそうなにおいが嘘みたいに消えていく。
「さすがやねえ」
頭の上から、面白がるような声。顔を上げれば、綿乃原先輩と目が合った。
「さすがなのは……」
口をつきそうになった言葉を飲み込む。
佳織は早口で違うことを言った。
「な、七不思議と関係ないって、どういうことなんですか。あと、授業に集中できないとか言ってたのも」
「んー?」
この距離で聞こえていなかったわけはないのに、綿乃原先輩はにんまりと目を細めて、ことさらゆっくりと床に落ちた紙飛行機を拾う。
それからようやく、口を開いてくれた。
「佳織ちゃんの反応でだいたい分かっとるんやけど……その様子やと佳織ちゃんの教室はくさくなかったんやろ?」
「はい、そうです、けど」
答えながら、佳織は立ち上がる。膝をついていたからか、なんだか膝先が赤い。痺れてはいないけれど、膝を軽く手で揉んだ。
「それなら、呪いはその子の気のせいやよ。呪いがあるかないか、言うたら存在はしとるけど、それは幽霊みたいなもんが場所じゃなくて人にくっついとる時や」
以前に綿乃原先輩が言っていたことを思い出す。多かれ少なかれ、人は五感に霊能を持っていて、それと確かに認識できるほどではなくても霊の近くでは耳鳴りや眩暈、吐き気のような体調不良を起こすことが多い、という話だったはずだ。
「せやから、本当にその子が呪われとったら、佳織ちゃんが傍におって平気なわけがないんよ」
順番に説明されてみれば、筋が通っている。思い返してみても、今日の島崎さんをくさいとは少しも思わなかった。
「でも、人体模型に追いかけられる夢を見たって……」
「昨日の肝試しに参加した子やろ? 大好きなオカルトイベントで気持ちが盛り上がりすぎてしもたんやないかな」
綿乃原先輩は気まずそうに目を逸らす。
「言うたらなんやけど、ほとんどそうなんよ。思い込みとか、気のせいとか」
佳織は友達のために怒ってもいいはずだった。
だけど納得の方が先に来てしまった。
だって、生物室に一人で来た。
島崎さんを誘おうなんて、少しも考えはしなかった。
「まあほら、たぶんあの蛙は昨日もここにおったんやろうし、それに当てられて体調崩したまま引きずってた子もおるやろうけど、すぐにようなるよ」
「……ありがとうございます」
「別に気を使って言ったわけとちゃう」
そうではない、と佳織は首を振った。
「手伝ってもらいました」
呪いなんてなかったとはいえ、佳織一人では蛙をどうにもできなかったはずだ。
「ん、せやな。いつもと逆や」
綿乃原先輩は、くるりと表情を変えて、悪戯っぽく下から見上げてきた。
顔が近い。佳織は一歩を下がる。
「私、お金ありませんよ」
「あほ」
ストレートに罵倒された。
「一緒に帰ろ。そんでアイスでも奢ってな」
綿乃原先輩は、そう言って自分の鞄に紙飛行機をくしゃくしゃ丸めて詰め込んだ。
「ファン倶楽部の人達に目を付けられそうで嫌なんですけど」
「えー、お礼してくれるんやろ」
島崎さんの言葉を思い出して、佳織はため息をついた。もっと遠い人なら、ファンにだってなれたのに。
佳織は生物室の窓を閉めながら答えた。
「安いやつですよ」
「うん、それでええよ」
綿乃原先輩の声が弾んでいる。
なんだか恥ずかしくなって、佳織はもう一つだけ残っていた疑問を口にしてごまかした。
「そういえば、綿乃原先輩はどうして生物室に?」
「言うとらんかったっけ。波多野ちゃんから頼まれたんよ。呪われたとかって言うとる子がいつもより多いって」
なんだか、ひどい答えが返ってきた。
「波多野さん……というとオカ研の部長さん、ですか」
「そうそう。同じクラスなんよ。で、うちが休んどる間のノートと引き換えに七不思議の現場を見て回っとたわけやな」
ぴりっと、佳織は自分の頬が引きつるのを感じた。
「アイスなし」
「なんで!?」
佳織はそんな悲痛っぽい叫びに騙されたりしない。
「知りません、知りません。後輩にたかろうとしないでください」
「そしたら、うちがアイス奢るから一緒に帰ろ」
まじまじと、佳織は綿乃原先輩の顔を見た。なるほど、少し気持ちが分かった。
「馬鹿ですか」
なんで、ひどい、と頬を膨らませる綿乃原先輩から視線を外す。
佳織はあほで、綿乃原先輩は馬鹿だった。これはなかなか深刻な問題と言える。
今度、島崎さんに相談しようと心に決める。席順が近いという理由で友達になった相手だけれど、だからこそベストな選択だと思う。
「ほら、帰りますよ」
できるだけ素っ気なく、佳織は綿乃原先輩に声をかけた。
〈生物室のにおい・了〉
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