生物室のにおい(2)

 島崎さんが伸びきったうどんをしょんぼりした表情で完食していた翌日。しょんぼりどころか、どんよりとした雰囲気を背負って島崎さんは登校してきた。

 佳織のひとつ後ろが島崎さんの席だ。どさり、と投げ出すように机へおろされた通学鞄の音まで重々しい。

「おはよ……」

「おはよう。大丈夫? 顔色、悪いよ」

 振り返って見上げた島崎さんの顔は青いというよりも白い。いつもより濃いメイクで隠されているけれど、目の下にクマができているのが分かる。

「ちょっと、夢見が悪くてさあ」

 弱々しく笑った島崎さんが席へ腰を下ろした。通学鞄へもたれかかるようにして顔を伏せる。

 短い沈黙。それを否定するように、ぼそりと島崎さんが呟いた。

「昨日の肝試し、来なくて正解だったよ。二条さん」

「え……?」

 唐突に振られた肝試しの話題に、佳織は疑問を返す。

「七不思議、本物だった。私……呪われたかもしんない」

 ぼそぼそと告げられた言葉で、佳織の背中にじわりと汗がにじんだ。熱いとも寒いともいえない、身体の輪郭がぼんやりとしたような感覚。

 この感覚は知っている。

 何よりも先に「行かなくてよかった」と思ってしまった自分へ向けられたものだ。

 席を立って後ろへ回り、佳織は島崎さんの背中をゆっくりとさすった。

「ごめん、何もできないけど……大丈夫、大丈夫だよ」

 島崎さんが鞄から少し顔をあげて、ふわりと笑った。

「ありがと。そう言ってもらえるだけで楽になる」

 そうやって島崎さんが平気そうに振る舞うのを見ているだけで、佳織はどんどんといたたまれない気持ちが大きくなってきた。

 幽霊とかお化けとかいう不可思議なものが、その辺に存在していてもまったくおかしくないということを、佳織は誰よりもその鼻で知っていたはずなのに。

「オカ研はさ、こういうときは大喜びで解呪とか除霊とか試すから、ほんと、気にしなくて大丈夫だよ。波多野部長とか凄腕なんだから」

 強い、と思わず本当に笑いがこぼれた。本調子ではなさそうな島崎さんが、それでも学校へやってきたのは、そういう理由があるからなのだ。

「オカ研、格好いいね」

「お、入る? 歓迎するよ?」

 青白い顔のまま、いつものノリを頑張って出そうとする島崎さんも、格好いい。

「呪われるかもしれない部活動は……いやだな」

「今日の私を見てたら、そうなるよねぇ」

 苦笑を浮かべる島崎さん。佳織はそっと目を逸らした。

 それから、なんでもない風を装って、聞いた。

「呪いと言えば、結局どんな呪いなの? できれば、本物だった七不思議とか近づきたくないんだけど」

「ああ、そっか。そうだよね。ええと、七不思議の四番目、聞いたことないかな。生物室の動く人体模型の話」


   ◆


 生物室にある人体模型の臓器を外して隠すと、人体模型が臓器を取り返すために追いかけてくる。

 それが葉桜高校に伝わる七不思議の四番目。島崎さんが呪われた原因。

 なんでも、肝試しの時には何も起こらなかったけれど、家に帰って眠ろうとしたら夢の中に人体模型が何度も何度も出てきたらしい。

 そうして佳織は放課後になったいま、一人で生物室の前に立っている。

 まだ、くさくない。

 佳織は深呼吸をひとつする。鞄の中から、三重構造で花粉をガードというキャッチコピーのマスクを取り出して、つけた。

 マスクは予備も含めて常にいくつか持ち歩いている。いつどこでくさい思いをするか分かったものではないから、当然の備えだ。

 できる限りの準備を整えて、佳織はそろりと生物室の戸を開いた。

 ……くさい。

 お刺身が入っていたパックをまとめて捨てて置いたゴミ箱。火にかけすぎて焦げたやかん。牛乳を拭いて洗い忘れた雑巾。そいつらを全部ひとつのスーパー袋に詰め込んで、口元に押し付けられたような気分。

 つまり、これは、本物だった。

 換気したところで意味があるとは思えないけれど、生物室へ入った佳織は真っ先に窓を全開にした。

 佳織が一年生のときに実験で生物室を使ったときは、こんなにおいはしていなかったはずだ。そうするとやはり、昨日の肝試しで島崎さんたちオカ研が行ったという七不思議の再現が原因なのだろうか。

 呼吸をできるだけ浅くしながら、佳織はぐるりと部屋の中を見回す。

 目的の人体模型を見つけた。漫画に出てくるみたいな、というよりは漫画の方が模型を再現しているという方が正しいはずの、身体の半分だけ筋肉や臓器がむき出しになった人形。それが教室の後方右奥にひっそりと立っていた。

 もちろん、動いたりはしていない。

 佳織は人体模型に近づく。今はもう、臓器も全て返してあるようで、足りないパーツはないようだった。

 しかし、ぺたぺたと人体模型を触っても、くささは収まってくれない。

 今さらながら、佳織は後悔していた。

 確かにこの教室はくさい。何かがあるはずだ。そしてそれは、佳織が叩いたり蹴ったりすれば、きっと倒せる、のだと思う。

 けれど佳織一人では、どこにどんな問題があるのか、全然わからない。

 島崎さんは今晩も、悪夢にうなされるかもしれないのに。

「あれ、佳織ちゃんやん。こんなところで何しとるの?」

 それこそ、こんなところにいるはずのない霊能アイドル巫女の声が、佳織の背後からした。

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