工事現場のにおい(2)
雨上がりの錆びた鉄骨。梅雨に部屋干しした生乾きの洗濯もの。道路でつぶれたヒキガエル。野菜室の底から見つかった液状化した玉ねぎ。そいつらを全部ひとまとめにして閉め切った部屋の中、鍋で煮込んだような……いや、もちろんそんな頭のおかしい闇鍋をしたことはないのだけれど。
つまり、くさい。
「大丈夫? すごい顔になっとるけど」
「……うん」
あまり大丈夫とは言えなかった。眉間におそろしく深いしわが刻まれているだろうことは、佳織自身よく理解している。
工事現場を仕切る壁のような衝立の中へ、綿乃原先輩に先導されて踏み込む。明かりなんて当然なかったけれど、スマホのライトを二人でつければ足元を照らすには十分だった。
建設途中だというビルは骨組みもまだ終わっていないのか、周囲のビルと比べれば随分と低い。それでも、見上げた鉄骨や足場は学校の屋上よりも確実に高くて、どの辺りから落ちたのかにもよるけれど、これは確かに助からない高さだなと納得してしまった。
「こっちや」
綿乃原先輩にスマホを持っていない方の手を引かれる。佳織が進もうとした先とは逆方向。足の向くままに歩いていれば、無意識に避けてしまっていただろう。そっちの方がくさいのだ。
心霊スポットで事故や体調不良が多いのは、無意識に避けたいはずの場所に留まり続けることが原因であるらしい。人の五感は多かれ少なかれ霊能があるそうで、なんとなく居心地の悪い場所として霊の居る場所を避ける。無理にその場所へ関わり続ければ眩暈や吐き気、耳鳴りといった形で影響が出るのだそうだ。
「うー」
以前に綿乃原先輩にされた講義を思い出しながら、手を引かれるままに歩く。口から漏れるのは意味をなさない唸り声ばかりだ。
そうして向かった工事現場の隅、白い山のような何かが五つ。等間隔で円を描くように盛られていた。夜の暗さの中でスマホライトに照らし出された白い山は、ひとつにつき高さが二十センチくらいはあって、あまりにもシュールすぎた。
「あれ……何です?」
「盛り塩。見たことあるやろ」
「ないよ」
思わず敬語が崩れた。少なくとも佳織の十六年と少しの人生であんな盛り方をされた塩を見たことはない。
「ないかー。まあ、分かりやすく言うたら結界とかそういう奴やね。地縛霊っぽい感じで工事現場の中を這いずっとったから、少しずつ端っこに追い詰めてな。こう、とりあえず邪魔にならない場所まで来たところで閉じ込めたわけや」
だからエセと違うで、と胸を張る綿乃原先輩。たしかに、においはその結界とやらの方から漂ってくる。
「いつも通り、やればいいんですよね」
「そうそう。霊になった人の無念とか、あんま考えんでええよ。生きとる人が優先やからな。声が聞こえたらまた別かもしれんけど」
幸いなことに、佳織も綿乃原先輩も、聴覚に霊能はない。
綿乃原先輩から手を放し、ぎゅっと拳を握りこんだ。今からきっと、とても乱暴なことをする。
佳織は嗅覚だけでなく、もう一つ、触覚にも霊能を持っていた。
つまり、霊を殴ることができる。
「この辺……?」
盛り塩で作られた結界に近づいて、中へ向かって二発、三発とパンチを繰り出す。
自分でも腰が引けているのが分かる。別に格闘技を習っているというわけではないのだから、当たり前だ。
綿乃原先輩に連れられて除霊の手伝いをするのは初めてではないけれど、佳織にはいまいち自分のパンチで除霊ができるという理屈がよく分かっていない。
「もっと奥で、あと下の方やね。結界の中に入った方がええよ」
結界は意外に広くて、等間隔に配置された盛り塩の円は直径で二メートルくらい。ここにいる霊というのが工事の作業員だというのなら、たしかに結界の外から手を出していても届かないだろう。綿乃原先輩の言う通りにパンチをしていれば、そのうち手応えがあるはずだ。
指示に従って、結界に踏み込む。
踏み込んだ瞬間、においが濃さを増した。湿気の多い温室に入ったかのように、空気がねっとりと重い。
「先輩……におい、籠ってる……」
絞りだすようにして言う。あまり息を吸いたくも、吐きたくもないけれど、文句は言いたかった。
「あれ、ごめん。結界を張るとそうなるんやね」
綿乃原先輩も予想外だと言いたげな口調。
思わず言い返そうとして、息を吸ってしまった。むせる。
駆け寄って来た綿乃原先輩が背中をさすってくる。
「うー、ありがたいですけど、それより場所を教えてほしいです」
「えっと、小さく三歩ほど前で、少し右。二時くらいの方向」
そう言いながら、綿乃原先輩はスマホのライトで地面を照らしてくれた。そこ、ということだろう。
足を一歩踏み出す。
「あ、ちょう……」
ずるりと、足が地面へつく直前で滑った。何か柔らかいものでも踏んづけたように。体のバランスが崩れて、倒れこむ。
「やっ……」
倒れこみながら、スマホを腕の中に抱えた。受け身よりなにより、大切なデータが詰まったそれを守ることを優先してしまった。
結果。
「へ、ぶっ」
佳織は地面へ顔面から突っこんだ。
したたかに地面へ打ち付けられるはずの身体は、途中で水の中に潜ったような抵抗を受けて不自然に減速した。
「痛、くない……」
身体を起こして呟く。スマホも無事だ。
顔を上げると、スマホライトの薄い明かりに照らされた綿乃原先輩が、目を丸くして固まっていた。その表情が崩れて、眉間にしわが寄る。泣きそうな、笑いをこらえているような、どうにも表現しづらい表情だった。
「どうしたんですか」
「いや……見えないって、強いなぁ」
気が抜けたというように、綿乃原先輩が今度こそ笑う。
「ほら、掴まり」
差し出された手をとって立ち上がる。
やっぱりスカートにしなくて良かったと思いながら、佳織は服についた汚れを手で払う。
「そしたら……佳織ちゃん、除霊完了おめでとー」
「え?」
おめでとうと言われても、今日はまだ何もしていない。
「さっき転んだ時に、見事な頭突きが決まってたんよ」
言われて、転んだ時に感じた不自然な抵抗を思い出す。
「あんなことで……」
「でも、くさくのうなったやろ?」
佳織はいまさら、普通に会話できていることに気付く。さっきまでの異臭が嘘のように消えていた。
「と、いうわけで……はい、約束の報酬」
綿乃原先輩が肩にかけていたポシェットから封筒を取り出した。
「なんか、納得いってませんけど……先輩がそれでいいなら貰います」
ありがたく受け取って、スマホと一緒にポケットへしまう。
「中身、確認せんでええの?」
「暗いですし。約束より少なかったら電話します」
何はともあれ、この収入のおかげで今月の食費を使い込んだのはチャラだし、数ヶ月はお金に困らない。……そう、推しのガチャが来なければ。
「この盛り塩、片づけはどうするんですか」
「それはまた明日やね。うちが偉い人の前でそれっぽい儀式して、これで安心ですって言うとこまでがお仕事やから」
そういう言動がいちいち詐欺くさいのがすごく問題だと佳織は思っているのだけど、綿乃原先輩はなんだか楽しそうだった。
「ね。佳織ちゃん、本格的にうちと組む気ない?」
「えっ、いやですよ。恥ずかしい」
自称霊能者のコンビなんて、それはもうアイドルじゃなくて芸人だと思う。
「恥ずかしい……って、霊能者の方だけでええんやけど」
不思議そうに返されて、言葉に詰まる。顔がどんどん熱くなっていくのが分かった。
「んー、佳織ちゃんはなー。顔は間違いなく美人さんなんやけど、心霊スポットにロケしにいったら絶対くさくてひっどい顔するからなー。アイドルはなー、難しいかもしれんなー」
綿乃原先輩の声は完全に笑っている。
「ああ、もう! 知らない! 帰ります!」
佳織は一人で工事現場から出るため歩き出す。後ろから「ごめんて」とか声が聞こえてくるけど、振り返ってなんてやらない。
「なあ。また、うちの手に負えん依頼があったら、よろしゅうな」
「やですよ、くさいもん!」
叫んだ拍子にずれたマスクをむしり取るようにして外した。蒸れていた顔を撫でる夜風が、少しだけ気持ちよかった。
〈工事現場のにおい・了〉
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