狂気の橋

「押し通れ、いや、退け!」

 前線は、たいそうな混乱である。最前線に位置する村国男依むらくにのおよりの軍は、近江方の施した策によって次々と兵を瀬田川へと転落させてしまっている。

 瀬田川にこの橋が架かるところは中州があり、水深は川の中心を除いてそれほど深くはない。だが、浅いところでも腰か胸くらいまではあるから、鎧を着たままであれば間違いなく溺れ死ぬ。

 橋板が落とされたのは、中洲の向こう側。

 何十、いや何百の兵を失ったか分からぬほど。川に転落する以外にも、橋板が無いのに気付いて足踏みをする者どもに向かって絶え間なく射込まれる矢によっての死傷者が多い。最前線を固めるはずの盾兵は既になく、そのあとに続く武を自慢とする者が次々と死ぬか脱落するかして、散々な有様である。

 ――これは、敗ける。

 村国男依の軍の後方、前線部隊の指揮をしていた仲麻呂は、そう見た。背後の高市皇子の軍は、やや離れている。この橋から一旦離脱をした前線を収容することのできる位置にまで高市が前進していれば、その被害は高市にも及ぶだろうから、懸命な判断である。

 ――高市がここまで進んで来ることはない。いや、進んでは来れぬ。橋の上は男依の軍四千が次々と死骸を重ねており、足を踏み入れる隙間もない。川は深く、この川幅をとても泳いで渡れるものでもない。

 このとき仲麻呂が率いている兵は、豪族の兵なども合わせて六千。その兵を擁していながら、目の前で叫喚の渦が繰り広げられているのを目の当たりにしながら、どうすることもできないでいる。

 ――男依は、ここで死ぬのか。死んだあとは、どうなる。

 仲麻呂の思考は、旋回した。

 橋の上あるいは橋に差し掛かる四千。それがことごとく死んだとしても、結局この橋を渡ることはできない。渡っている最中に火でもかけられれば、大変なことにもなる。

 後方の軍に頼ろうにも、船などない。

 ――どうにかして、ここを渡る。そうでなければ、退くしかない。

 退けば、どうなるか。

 せっかく大海人に加勢した豪族どもは、近江方に大海人が負けて退いたとして心を離すだろう。そうなれば、形勢は一気に近江方に傾く。そういうことがあるかもしれない。そうなったら、もう大海人は立ち直れず、天皇に刃を向けた者として殺されるだけだろう。

 ――それだけは、あってはならない。

 世の光を。誰にも触れられぬ国を。その願いを、ここで潰えさせるわけにはいかない。だから、仲麻呂は近江を脱出してここにいる。

 ――向こう岸で笑っている天皇に、国のことができるはずなどない。

 渡るのだ。そして、向こう岸にあるものを、打ち砕くのだ。

 仲麻呂の激しく旋回する思考はやがて唯一の帰結点へと至った。

 ――これ以外に、無い。

 思った瞬間、声を発していた。

「この戦い、決して負けられぬ。たとえ、この身が砕け散り、この血すべてを瀬田の流れに移したとしても」

 六千の兵が皆、耳を済ませている。それら一人ひとりに染み渡るような声と、声量である。

「なんとしても、ここで。ここを越えれば、もう近江の都はすぐそこだ」

 それは、そうである。ここは東からの最終防衛線であり、だからこそこれほど熾烈な攻防戦が――といっても最前線が一方的にやられているだけだが――が繰り広げられている。

「己がそれをしようとするな。人が求めるべきものを為すのは、己であるとは限らん。我が隣にいる者の顔を見よ。己が子の顔を思い浮かべよ。我らが求めるべきものは、その者らが為す。そう信じるのだ」

 誰もが、隣にいる者と顔を見合わせた。今から、この将は、とてつもないことをしようとしている。そのことだけは分かった。

「橋がないのは、どうしようもない。だが、我が君は、この川を何があっても渡りきらねばならぬ」

 大海人を、対岸に移すこと。そのためには、向こう岸でひしめきあっている近江方の兵――遠望するところ、数万という規模である――を、殲滅しなければならない。

 ふと、背後を顧みた。

 高市。確かな武と才を持っている。どこまでもいけ好かぬ男だと仲麻呂は思っているが、己も武人であると思い定めている以上、彼を認めぬわけにはいかない。

 品治。食えない男だ。いきなりあらわれ、美味しいところを全てさらっていったようなところがある。しかし、大海人が即座にその才を認めるだけあり、並の者では思いもしないようなところにその思考は置かれている。

 彼らの率いる兵。それは、この国の東半分そのものであると言ってよい。

 いや、この国そのものなのだ。

「この国の全てが、望んでいるのだ」

 視線を戻し、また声を張り上げた。喉は渇いて痛み、声は掠れかけている。だが、それが兵にまた高揚をもたらしている。

「王が、この川を渡ることを」

 大海人に、川を越えさせる。

 その手段がひとつしかないのなら、それをする。

 その決断ができる者は、おそらく、己のみ。

 ――見ろ、高市め。やはり、俺の方が優れた将であったわ。

 そう吐き捨てるように言ってやりたいが、後方に見える高市軍は、今から仲麻呂軍が何をしようとしているのか見当もつかず、ただ何か動きがあるらしいという気配を察しているのみであろう。

 ――抜け目のない品治あたりなら、機を逃すはずはない。機がないなら、作ってやる。

 剣を抜いた。兵から、声が上がった。

 もう、兵は、今から仲麻呂が何をしようとしているのか、察している。

「俺に続け。駆けろ。駆けろ」

 そう言って、仲麻呂は川を、そこに架かる橋を目指して全力で駆け出した。


 橋に手を付けられないでいる兵を押しのけ、無数の矢が降り注ぐ橋へ。後ろから、六千の兵が声を上げて追ってくる。

 最前線の、村国男依と眼を合わせた。まだ死なずに生きていたらしい。

「死体を」

 そう言って、転がる兵の死体を背負って見せた。男依は、はじめ何のことか分からなかったらしい。しかし自らと立ち尽くすばかりのその率いる軍を押しのけて橋の上に殺到する仲麻呂の軍を見、声を振り絞った。

「仲麻呂どの」

 もう橋の上に差し掛かっている仲麻呂は、少し足を止めて振り返った。

「やるのか」

「見よや。この俺が、何をするのか、その目でしかと」

 仲麻呂は、矢の雨の中、針鼠のようになった死体を背負って川へとその身を投じた。次々と、兵が同じようにして川へと飛び込んでゆく。

 一部の兵は橋板が外されたぎりぎりのところに留まり、背負った死体と我が身を盾にしながら後続の兵を守った。更に後から続く兵が、橋を支える梁などを壊しはじめ、たちまちのうちに橋の中洲から向こうは浮き島のようになった。

「馬鹿な」

 男依は、仲麻呂の軍のあまりの仕様しざまに、息を呑むしかなかった。

 中州の向こう、最後に残った橋の一部分が、その上にいる兵の手によって、自ら塵となった。

 対岸に至るところには、その残骸や死体を背負って飛び込んだ者などが橋の脚を支える基礎に引っかかっている。

「骸で、橋を架ける気だ」

 男依は、背筋に粟が立った。六千の兵が目を血走らせて中州を渡り、転がる死体があればそれを背負い、壊れた橋の向こうに飛び降り、川の流れの中に折り重なった死体の上を踏んで歩き、途中で矢に打たれて倒れてゆく様を見て、顔が蒼くなるのを感じた。


 異変どころの騒ぎではない。対岸の近江方は、持てる矢の全てを有り得ぬ方法で渡河しようとしてくる仲麻呂軍に向けて放った。最も先頭まで至った者は、そこでやはりその矢に射られ、川を繋ぐための骸の一つとなった。

 百が死に、五百が死に、千が死に、二千が死んだ。その死が積み重なれば積み重なるほど、この広大な川には少しずつ橋が築かれていった。

 注がれる矢の量は半端なものではなく、この天地の間に存在する矢が全てここに集まっているのではないかと思えるほどであった。

 三千が死んだだろう。せっかくそうして作られた死体も、流れに誘われて遥か下流の方に流出してしまうものも多い。

 仲麻呂は、どうなったのだろう。この橋のどこかにひっかかっているのか、あるいはどこかに流れ去り、二度と戻らぬのか。

 男依は、眼を凝らした。

 基礎石に引っかかっている死体のうちのひとつが、動いた。

 がばと手を挙げ、基礎を掴み、一気にその身体を引き上げた。

 そして、我が姿を見せ付けるようにして立ち、声を張り上げた。

「どうした。死ねや、死ねや。まだ足りぬ。我が君を渡らしめる橋となれ。向こう岸へは、まだ足りぬ」

 仲麻呂。これほどに激しい男であったとは、豪族のうちの一人としてわりあい多くの兵を率いてこの軍に参加しただけの男依は知らない。なにか、別人を見ているような。いや、人ですらもないものを見ているような。

「己が死んでも、光はある。恐れるな。駆けろ。行け。そして死ね」

 凄まじい指揮である。いや、指揮というようなものですらない。ただずぶ濡れになり、剣を振り回し、声を張り上げて死ね死ねと言うだけのこれが、指揮などであるはずがない。

 四千が死んだか。心なしか、矢の雨が弱まっているように思えた。その代わり、天には黒い雲が立ち、風が不気味に吹きつけてきた。

「行け、まだ先だ。行け」

 矢の雨は緩みかけているとはいえ、まだ止まぬ。それが、ほんとうの雨と混じった。

「見ろ、天も我らのことに感じ入り、雨を降らせているわ」

 仲麻呂は、笑っているらしい。気がどうかしてしまったのかもしれない。しかし、そうでなくては、この橋は向こう岸には届かぬのだろう。

「行こう」

 男依は、周囲の者にそう声をかけた。自らも、同じように死体を担いだ。

 じつに、この鳰の海(琵琶湖)が流れ出す大きな川の中央にある中州から向こうで、数千の兵がその屍を雨と風と流れにさらしている。自分が連れている四千も合わせれば、一万になる。

 一万もあれば、川はきっと埋まる。敵の矢も使い尽くさせることができる。

 ふしぎと、そう思えた。自分もあのおぞましい狂気の橋の一部になるのだということに対する恐怖は、消えた。

 五千が死んだ。橋が、向こう岸に繋がった。

「行け、渡れ」

 仲麻呂が基礎の上から再び死の橋の上に身を躍らせ、剣で雨を斬った。生きてそれを踏む者は、ことごとくその修羅のような将のあとに続いた。

 矢は、ほとんど止みかけている。それでも、仲麻呂の後ろに続く兵は、次々と死体となり、倒れてゆく。その度ごとに、この橋は強固になってゆく。

 ――高市よ、品治よ、見よ。俺は、貴様らには決してできぬことをしたぞ。

 足が、土を踏んだ。

 その瞬間、雨は止んだ。いや、仲麻呂のずぶ濡れになった鎧は、衣は、なお水を滴らせている。

 雷鳴。雨は、止んでなどいない。止んだのは、矢だった。

 敵が、数万からなる敵が、その持てる矢の全てを使い尽くしたらしい。

 ――見おれ。

 笑った。仲麻呂の兵でこちら側の岸に辿り着くことができたのは、二百ほどでしかない。しかし、その後ろには、男依の軍が続いている。こちらもかなりの数を削られたようだが、それでも半分以上は残っている。

 さらにその後方。

 高市の軍。雨に煙ってはいるが、仲麻呂には分かった。

 動いている。こちらを目指して。それを見て、なお笑った。

「向こう岸におわす天皇オオキミが臣、阿曇仲麻呂あずみのなかまろ、これにあり」

 生きている。馬鹿馬鹿しいことに、生きている。数千の兵の死を積み重ねて橋を架けたはいいが、肝心の自分は生きてこの川を渡ってしまっている。このような馬鹿なことがあるかと思うと、途端に腹立たしくなってきた。

 今は自分が笑っているが、こちら岸で何食わぬ顔をして立っているのを見れば、高市も品治はそれを指差してもっと笑うだろう。

 ――あのいけ好かぬ者どもに、見せてくれる。

 近江方の兵の陣は、明らかに動揺している。恐れているのだ。仲麻呂の軍のあまりの仕様に。兜も無くし、頭髪もざんばらに振り乱しながらその先頭を駆けてきた仲麻呂の、凄まじい立ち姿に。

 だが、仲麻呂とは、彼の言った通り、これでその役目を終えるような男ではない。

 彼は、見せなければならない。この死と狂気で架けた、あるはずのない橋の先にあるものを。

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