瀬田橋の戦い

 連戦である。大海人と史を中心とした吉野方の軍は、その本軍のみならず同心する豪族の軍なども合わせれば、あちこちで同時に大小数々の戦いを繰り広げている。

 近江方は、史の手回しによってあらたに加勢してくるような豪族はなく、なおかつ朝廷内でも背反者が出るような有様だったが、それでも一国の朝廷である。大海人がいよいよ本腰を入れて軍を発したという報せを受け、それに応じるため動員兵力のほとんどを集結させて近江宮を発した。


 それが、瀬田の橋に集った。

 瀬田の橋というのは現在でも瀬田の唐橋で知られる瀬田川にかかるもので、琵琶湖の最南端に位置する。わが国最大の大きさを誇る琵琶湖は、この地点より南は瀬田川となり、蛇行しながら西に向かい、天ヶ瀬ダムを経て宇治川へ、そして淀川に合流し大阪湾に流れ込むわけだが、それは余談。

 この場合、琵琶湖の制海権は葛城や鎌の都市設計の賜物により完全に近江方にあり――もし大海人たちが船で琵琶湖を渡ろうとするなら、あちこちに設けられた津から迎撃の船を発し、たちまちのうちに包囲殲滅されるのが明らかであった――、陸路をもって琵琶湖を大きく迂回して朝廷を突こうとするなら、この瀬田の橋を通る以外にない。

 余談ばかりになるが、実はこの場所は度々会戦の地になっている。東から中原――大海人にとっては近江宮、のちの世ならば京都――に至る上での重要な防衛線となるためであり、源平合戦、後鳥羽上皇が幕府執政である北条氏に対し反旗を翻した承久の乱、南北朝時代の建武の乱において大規模な戦いが繰り広げられており、その度に橋が損壊したり消失したりしている。

 そもそも遥か古代、この場所には橋はなかった。そこに橋をわざわざ架けたのは、他ならぬ葛城であるとされている。彼が近江宮を設営するとき、そもそもの彼の基本政策である各地の交通の改善策の一環として、ここに橋を架けた。

 無論、防衛のためには橋など無い方がよい。近江宮を造るときあれほど防衛のことを気にした葛城が、なぜここにわざわざ侵攻に便利な橋を架けたのか。

 鎌という知能の塊のような男もそばにあったわけだから、いかに各地の豪族への支配を強めて税を納めさせ、中央に力がより集まるようにという施策のためであるとはいえ、わざわざ守らねばならぬようなものを作るということはどうにも道理に合わぬように思える。

 とにかく、ここに橋があるために、大海人らはこの場所を目指した。ここに橋があるために、近江方はこの場所を守らねばならぬようになった。まさか葛城や鎌がそこまで考えていたとは考えにくいが、そのあとに続かんとする大海人がここを目指したというのが偶然であるとも言い難いように思う。


 日本書紀などには、この地に集結した近江方の兵は、その居並ぶ軍の後方が全く見えぬほどの数であったと記されている。彼らは大海人軍をここで完全に葬り去るつもりで、策を敷いて待ち構えた。

 それを見通さぬ史ではない。どのような策が敷かれているにせよ、進むしかないのだ。十分に警戒をしながら、彼らはこの地に至った。

「目指すは、近江。そして、へ」

 大海人が、全軍に向かって声を張り上げる。その先というのは、無論、飛鳥のことである。まだ先帝が消えてから、八ヶ月。また、葛城の治世の末にはその中心は近江に遷されたが、この大海人軍にいる者にとっても近江方の者にとっても、飛鳥という地は非常に馴染みが深い。

 だから、そこを目指すという大義は、大海人側の兵を奮起させた。あの山に囲まれた、静かな都に帰るのだ、という昂奮が次第に全軍に伝わってゆき、兵の気勢は最高潮に騰がった。

 軍同士が出会うわけだから、まず矢合わせといって互いに矢を射掛けることから戦いは始まることが多い。この場合も瀬田川を挟んで向かい合う形で両軍は布陣したから、川の上を無数の矢が飛び交い、両軍の陣地にはそれが雨となって注いだ。


「はじまった」

 大海人は、傍らの讃良と史に、みじかく言った。

「ここを越えれば、飛鳥に帰れるのですね」

 讃良は、近江のことなどもう見えていないようである。それを具現化するのは、史の作戦。

「やはり、なにかありますな」

 史が、陣の最奥、少しだけ高くなったところから橋を遥か向こうに見て目を細めながら呟く。

「なにか、感じるか」

 大海人には、分からぬらしい。細かな戦いのことなど、それを司る史と、実際に武器を取って戦う将に任せきっていて、自分などが戦いのことをどうこうせぬ方がよいと思い定めてしまっている。そうでなくては、自分のその場の思いつきに全軍が従わざるを得ぬようになり、死ぬべきでない者を死なせたり、避けるべき戦いを戦ったりすることになるだろうと。

 史はのちの言葉で言う参謀だから、それぞれの将が意見を述べることができる。そこには大きな開きがあり、それがため史の言うことを大海人がひっくり返すようなことが一度でもあれば、軍の指揮などとても務まるものではない。

 史を信頼するがゆえ、彼をあえて困難な役に就ける。それができるのが史ただ一人であるというなら、彼がまだ年若であるとかいうことは関係なくそれを背負わせる。そういう器量と厳しさのようなものとを同時に持つのは、さすがと言えるだろう。


「川の向こうの動きです」

「大友の兵か。何が見える」

 視力のことではない。観察力のことである。史は十三という驚異的な若さながらその父をも凌ぐ才を持つと言われるだけあり、大海人の一重の瞼の下で光る目などには映らぬものまで見て取ることができる。

「あの、最前線の兵。矢を避ける盾をあれほど集め、何をしているのでしょう」

「盾?――矢を、避けているのではないのか」

 馬鹿なことを言う、というような顔をした。盾というのはこの場合、矢を避けるために手にするものであり、実際降り注ぐ矢に向かってそれを掲げているのだから、矢を避けるためにそれをしているとしか思えぬ。しかし、あえてその当たり前のところに眼を向けるということは、何かあるということである。

「たとえば、一枚の葉を隠したいとき、森の中に隠せば、とてもよく隠すことができるでしょう。あの盾の動きと集まり方から、何かそういうものを感じるのです」


 最前線は、仲麻呂である。自慢の兵を用い、存分に矢を射込んでいる。その更に前に村国男依むらくにのおよりという者の軍が立ち、敵の矢から仲麻呂の兵を守るべく盾を構えている。

 その背後に、高市皇子の軍。伊勢の山道で近江方の軍を巧みに誘い出し、それを打ち破って本軍に合流したあと、突破力なら仲麻呂、持久力なら高市皇子であると品治は史にそれぞれの軍の特徴について進言した。品治は近江に向けて進路を取るとき、来るべき決戦は必ずこの瀬田橋になると見通し、その地形の特性から互いの陣形が東西に長い形になることを言い、まず仲麻呂に敵を切り開かせ、高市皇子がそれを押し開き、持ち前の粘りでもって決して陣形を整えさせることなく崩すという策を立て、史がそれを容れた。

 史が眼をやる最前線は、品治の策に従って決めた通りの動きをしている。高市からさらに退がったところ、大海人のいる本陣の前方に展開してそれを護る品治も、動く気配はない。

 品治は、おそらくかなり大規模な交戦となるであろうこの戦いにおいて、各地の豪族を収容して最大の兵力となった自分の軍を一切動かさぬつもりであった。組織を組み立てるためにあえて嫌われ役を買って出た彼は、この戦いにおいての軍功を全て前線の将に譲ることにしたのだ。いきなりあらわれて軍の直接指揮権と最大の兵力を与えられ、さらに軍功まで華々しいとなれば、ゆくゆく己の身が危ういと思ったのだろう。見た目こそ小肥りで物腰も剽軽ひょうきんであるが、どこまでも頭の良い男である。そういう風に、史は見ている。


 前線が、動いた。近江方の軍が、少しずつ退がり始めた。

 支えきれなくなったのか、縦列のままの橋の上での押し合いを嫌い、西側に引き込んで素早く散開し、飛び出してくるこちらの兵を順番に討ってゆくつもりか。史が、唾を飲み込んだ。何かあると感じたのは、このことなのだろうか。

 いや、やはり盾の動きが妙である。何かを守るのではなく、何かを隠すために構えられているような動きである。

 まさか、と思った。

 退がる近江方を追い、勢いづく村国男依と仲麻呂の軍。橋の上を全力で駆けながら、ぎらぎらと光を閃かせるのが見えた。抜剣しているのだ。

 史は、思わず立ち上がって目を凝らした。

 橋の上を駆けている兵が、次々と消えている。

「まずい」

 声に出して叫んでいた。

「何が、起きている」

 大海人も、異変に気付いたらしい。

「――兵が、川に消えている?」

 讃良が、訝しむように唇を湿らせた。

 彼らは、揃って見ていた。橋の上を駆け、東側の岸に至らんとする兵のことごとくが、川に転落してゆくのを。

 橋板が、外されている。兵の目線から見れば、前の者の背で駆ける先の橋板が無いのが見えず、駆け続けてしまうのだ。自分の前方の者が転落するのを見て気付いても、後ろから目を血走らせた者が駆けてくるから、それに押されて自らも転落せざるを得ない。

 馬鹿馬鹿しいほどに単純な策だが、効いている。あの盾は、橋板を外す作業を隠すためのものだったのだ。

「先を、取られた」

 血が滲みそうなほど強く唇を噛む史の横顔を、大海人は黙って見ていた。

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