飛鳥へ
近江を滅ぼす。これは、讃良によってもたらされた、彼らの規定方針である。そして、同時に、飛鳥を奪う。そのために、
「飛鳥に、帰れる」
讃良は、目を細めて笑った。彼女にとって飛鳥とは幼い頃を過ごした地であり、葛城や芦那など多くの者との思い出の地である。葛城ははじめ讃良に対してさほど興味を示していないようであったが、彼が愛した芦那がいつも讃良に付いてさまざまな話をしたりして過ごしたから、彼女にとっての飛鳥とは、もっぱら芦那であった。
──おばさま。讃良は、帰ります。
芦那は、死んだ。葛城が近江の都の造営をはじめた頃から病がちになり、さいごに讃良が見たときはこのままその姿が透けて消えてしまうのではないかと思うくらいに痩せ、衰えた。
しかし、彼女は、讃良に大きなものを遺した。
「飛鳥に帰る、か」
大海人が、讃良の呟きを聞いてそれを己の口で噛んだ。
近江の東側、鳰の海を見はるかせる高台に敷いた陣で、火を見つめながら静かに二人は並んで座していた。
「近江の都はできて間もない。それを捨てて、飛鳥に戻ると言うのか」
大海人は、讃良の眼を覗き込み、やわらかく笑んだ。芦那によく懐いていた。まるで、母のように。そして、讃良は芦那と葛城の子である。
──なぜ、自分が。
そのときは、そう思った。だが、今なら分かる。
「讃良」
それを、声に出してみようと思った。
「おれは、お前を飛鳥に帰す」
火に注がれていた讃良の眼が、上がった。大海人の方を向いた顔は火の熱にあてられたのか、ほのかに朱が差している。
「あそこには、芦那さまが眠っている」
「──人は死ねば、その身体は朽ち、もう二度と口をきくことはないのよ」
分かっている。葛城の子らしいことを言う、と大海人は苦笑した。
「それでも、おれは生きている。お前も。生きる我々は、亡き先帝や芦那さまのことを思い返し、さらに生きることができる」
芦那が死んだあとの葛城のことを、思い出している。鎌が死んだあとのことも。
「飛鳥には、芦那さまが眠っている」
おなじことを言った。
「いいえ、土を盛り上げて作った墓があるだけ」
飛鳥に帰りたいというようなことを言いながら、讃良は素直ではない。
「しかし、墓とは、死した者のためにあるものではない。生きてその前に立つもののためにあるのだ。おれは、そう思っている」
死したもののための墓なら、なるほど古来のとおり尊きものの墓は壮大でなければならない。しかし、葛城はそれを真っ向から否定し、いかなる王の墓であったとしても七日のうちに造れる程度のものでなければならないとした。考古学的に言う古墳時代を終わらせた彼のこの価値観には、今大海人が言ったような意味合いも多分に含まれているのではないか。
そこに立つことで、死したもののことを思い返すことができる。そして、彼らが何を見、何を感じ、何を伝えようとしたのか、時間の経過と共に薄れてゆくものに、もう一度手を伸ばすことができる。
それを、大海人は飛鳥に求めた。葛城の墓に近い近江ではなく。
あの日、雷雨に打たれながら跪いたこと。猫という名と、生を与えられたこと。自らを弟と呼び、鎌と抱いた志を継ぎ与えたこと。その全てが、飛鳥にある。葛城のことに関してだけ、墓を見上げても何の感慨もない。葛城のあとを必死で追い、ときに己が手を汚してまで求めたものは、飛鳥にあるのだ。
そこに、帰る。
「近江は、道のうちだな」
大海人は、そう言って薄く笑った。いつの間にか、三十を越えている。この間、後ろ頭に白いものが混じっているのを讃良に見つけられてしまった。
鎌も、老いて死んだ。葛城も、また。そのようにして自分も老い、いつか病み、死ぬのだろう。
だが、その道を歩む間は、止まることはない。葛城が遺した沓を履き、ひたすら歩んでゆくのだ。
近江は、道のうち。飛鳥に向かう道すがら、踏みしだいてゆくのだ。
「讃良」
あらたまったことを言うときの調子の声に、讃良が少し眉を上げた。
「今だから言う」
「はい」
「おれは、ずっと、芦那さまを想っていた」
讃良が、思わず吹き出す。そんなこと、娘のときから知っている。今さらあらたまって言ってどうするのだと思った。
「いまだに、お前に、芦那さまの面影を重ねてしまうことがある」
「知っています」
ちょっと困ったように眉を下げて笑うのも、よく似ている。彼女のちょっとした仕草や物言いが、まるで葛城に向けられる芦那のそれのようで、大海人はその度に胸の締まる思いだった。
「だが、知っていてほしい」
なにを、と讃良の眼が問うた。そこには、やはり火が映り込んでいた。
「おれは、どこまでも、だれかのためにしか生きられぬ。己のためになど、生きられぬ」
「ええ、あなたは、どこまでも猫」
「亡き我が主のため。芦那さまのため。そのためなら、おれは猫にでも獣にでもなれた」
「あなたには心がないと思うこともあったわ」
「そうだ。要らぬのだ。おれの心など。ただ、誰かのために生きていたい。それが、おれの心」
讃良は、やわらかく笑んで頷いた。
「あなたは、まことの王になるわ。とても激しく、優しい。あなたがその手を暗い血で汚すたび、あなたは己を殺してきた。それを、わたしは知っている」
頬に浮かぶ笑みと同じやわらかさの掌が、そっと大海人のそれを包む。
「だから」
大海人は、苦笑した。讃良が何を言うのか、分かるのだ。
「あなたのあとは、わたしが王になる。わたしを、王にして」
「わかった」
「我が父。鎌。あなたの手にかかって死んだ我が父の母。芦那おばさま。そして、あなた。その全てを継ぎ、わたしが国創りを終えてみせる」
「頼もしいな」
「あなたがいつまでも芦那おばさまを想っていても、構わない。わたしに芦那おばさまを重ねることで、わたしを王にしてくれるなら。わたしは、それをしなければならない。だから、父はあなたが汚れ、己を捨て、殺すのをわたしに見せたのだと思う」
讃良の言う通り、大海人は彼女に芦那を重ねていた。自らの身体に組み敷くときも。だが、彼女を芦那の代わりだと思ったことはない。それを、言葉にした。
「おれは、お前を、双つ無きものだと思っている」
「嘘」
言葉にして、これほど軽いものになるとは思っていなかった。だが、偽りではない。それを、どうにかして説明しなければならぬと思った。
「だからこそ、飛鳥にゆくのだ。お前とともに。おれは、お前が先帝の子だから、あるいは芦那さまの――」
子であるから、とは言わない。
「――代わりになるから、お前を好いているのではない。お前が、この天地の間のどこにもない、双つ無きものだからだ。お前がいないのなら、国をどう創っても、どうしようもない」
とんでもないことを言う、とでも言いたげに、讃良の顔が開いた。大海人が葛城から受け継いだものは、そのような軽いものではないはずである。
「おれは」
讃良が笑ってそれを混ぜ返そうとしたとき、言葉の響きとは食い違うような重みのある顔を、大海人が向けた。
「だから、飛鳥にゆきたいのだ。お前と共に。そこで、おれは王になる。そこで、お前を王にするために」
自分のためになど、生きられぬ。人のためにあってはじめて王。誰かのために生きてこそ、人。大海人は、讃良がこれまで見たことのある誰とも違う表情で、そう呟き、火に揺れながら笑った。
「亡き先帝は、言った。闇でよいと。光を求め、それを追うのだと。光とは、人の内なるものなのだと。そうならば、お前の内にあるお前というものが、おれの光。人の全てが持つその光を受け、照り返し、人を照らす。それが王。それが国」
讃良は、背筋に粟が立つのを感じた。そして、自らの秘所が濡れてゆくのを。火のためだけではない、火照った頬に、滴が伝うのを。
それを、大海人はひとつ拭い、大げさに片膝をついた。
「ゆきましょうぞ、讃良どの」
讃良も応じて、おどけて見せた。
「ええ、猫」
飛鳥へ。
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