王が見るもの

 史は、不破にあって、この戦いのことを見ている。実際にはまだ小規模な戦闘こそあれど、大規模な戦いにはなっていない。

 そうならぬよう、必死で近江方を抑えていた。たとえば空になった大和に入った近江方の軍も調略によって丸ごと寝返らせていたし、在地の豪族も早い段階から取り込んでいた。

 西。はじめから、近江方の眼がそちらに向くように仕向けている。案の定、近江方は吉備や筑紫など有力な地域に使者を派遣したが、これも史に言わせれば、

 ──遅い。

 という具合であった。

 べつに西には手を付けてはいないが、それらの地域の国司や有力な豪族どもはことごとく近江に参加しなかった。東国という、どこまで続いているのかこの時代の人がよく知らなかった広大な土地とその生産とそれがもたらす兵の全てを掌握した大海人がもはや勝つと見たのか、彼らの近江方に対する態度は冷淡であった。

 ──勝った。

 史は、そう思った。

 ──このまま、一歩兵を進めれば、彼らはたちどころにばらばらに崩れる。機を見るに敏とは、おれのためにある言葉だ。

 とも思ったし、

 ──実を欲するならば、我が手を高く伸ばすことをせず、その実がひとりでにたなごころに落ちて来るようにしなければならぬ。

 とも思った。

 ──どちらにしろ、あの阿呆の大友は、今頃泡を吹いているぞ。

 いかに静かに頭を冷まし、板敷の上に姿勢よく座していても、こうなると小躍りしたくなるものである。なにせ、彼のはじめての事業がこの天地に前例のない大仕掛けであり、しくじれば彼も彼の主人も先帝の遺志も父から受け継いだものも、それらの生も全て失われるのだ。

 この若さでそれだけの大事業を導いたのは、彼が天に選ばれた才を持っていたからではない。

 彼は偉大すぎる父を持ったがゆえ、それに見合う己であらんとして磨いた。父が藤原鎌であるから彼が尊いのではなく、藤原鎌の子たる己が示すべきもの以上のものを成し、示すことで己の存在を証明しようとしていた。

 それが、もう一息で成ろうとしている。


「もう少しですね」

 讃良の声。この透き通りながらも遠雷を見るようなそら恐ろしい声が、はっきり言って苦手であった。ふだんは無口でものに動じぬ大海人が、彼女とねやにいるときはになっているのだろうかなどと思うと、おぞましいような思いであった。しかしそれを色に出すわけではゆかぬから、

「は。讃良さま。今一息で、御身を落ち着けられまするぞ」

 と少年のままの声で返してやった。それについては讃良は何も言わず、

「まことの王が、立つのですね」

 と薄く笑んだ。

「できるだけ、血を流さぬよう。実際、すでに多くの血は流れてしまっていますが、だからといって血は流れぬ方がよいということに変わりはないのです」

 讃良は、何も言わない。なにか含みがあるのかと思い、史がさらに深く言葉を継ぐ。

「近江方が西で力を得ようとしても、うまくゆかぬようになっています。どこを当たっても無駄だと悟らせるまでここに陣を敷いて睨み続け、しかる後に兵を進める構えを見せれば、戦わずして近江は我らの手に収まりましょう」

 規定方針である。讃良も重々承知しているはずであり、今さら言うことに意味はない。しかし、讃良は、史の想像を遥かに超えることを言った。

「ただ逃がす。それでほんとうによいと、史は思っているのですか」

「なんのことでしょう。それは、もう──」

「ただ逃がし、空いた近江を我が君が手にする。そのあとは?」

「大海人さまをまことの王とし、よき国を」

 それを、讃良の笑い声が遮った。決して押し付けるような笑い方ではなく、己の内で何かを噛み殺すような笑い方だった。

「せっかく作ったよき国を、力を盛り返した近江方が、また奪いに来るのですね」

「まさか、そのような──」

「史よ」

 よく聞きなさい、と讃良はこれまで史が見たことのない質の眼になって顔を寄せてきた。女というものを知らぬ史はその放たれる芳しい香りに思わず背中が熱くなったが、耐えた。

「我が父やお前の父が国を作るとき、どうしましたか」

 史とて、知らぬことではない。葛城と鎌は、蘇我の治世を破壊し、これまでの旧習を淘汰し、外国に対抗しうる強力な統治のために蘇我が施してきた準備を簒奪した。そして、ときに身内でさえもその手にかけ、あらゆる災いの芽を摘んできた。そのことを讃良が言っているということは分かるが、なぜ今それを言うのかが分からなかった。葛城らがそうであったからこそ、史は今こうして彼らが求めたものを人々が得るためのに取り掛かろうとしているのではないか。

「お前のように、あとに芽を残しましたか」

「しかし、人死にが」

 また、くすくすと笑う声。

「史よ。わたしには分からぬが、お前の好きな書には、そう書かれているのでしょうね。しかし、我が父やお前の父は、お前の好きな書にある通りの為様しざまで国を創りましたか?」

 答えは、否である。なるほど史は父の求めた山のような書に囲まれて育ちはしたが、父はその全ての内容を諳んじるほどに読み込んでおきながら、おおよそ書にはないような方法でもって己の着想を現実に変えてきた。


 史ほどに明晰な頭脳を持っていれば分かる。父が父たりえたのは、ひとえに葛城という稀代の天才がいたからである。書に載らぬその器を器とし、国や民、まつりごとという水を注ぐには、なるほど書の通りであるべきではないのだろう。

「わたしは、書なるものを目にしたことがない。だが、もっと別のものを見てきた」

 女のにおいがする。何かの花の香りのようにも思えるし、もっと血生臭いものが置き捨てられているようにも思える。それで思わず逸らしそうになった眼を、しっかりと合わせてくる。

「我が父と、お前の父のことを。我が君が、それをたすけてきたことを。芦那おばさまが、我が父に語りかけ続けてきたことを」

「なにを、仰りたいのです」

 なぜか抵抗しなければならぬような気がして、へばりつく喉を無理やり広げて声を発した。

「終わったわけではないのです。わたしの見てきた人たちが迎えた死というものによって、いちど終わったわけではないのです。我が君が継ぐべきものは、創ること」

 その通りである。葛城と鎌という二人の男によって粉々に破壊された瓦礫をどかし、地を均し、柱を建てねばならない。史は、そう思っていた。しかし、讃良はこの若すぎる策士に、別のことを言った。

「創るというのは、壊すよりも遥かに難しいのでしょう。一夜にして蘇我は滅んだと聞きますが、我が父が近江の都を創るのには何年もかかった。大勢の人が土を切り、運び、埋め立て、穴を掘り、また土を運びました。そうしてやっと石組みを敷くことができ、それが成ってはじめて柱は建てられるのです」

 史よ、と甘く、丸く呼びかけた。気をしっかりと持っていなければ、尻餅をついてしまいそうになった。

「思い違いをしてはなりません。あなたがするのは、瓦礫の中から珠を探し出し、それを人の前にかざし、見せるようなもの」

「それのどこが、思い違いだと仰るのです」

「あなたは、その器ではないわ」

 言葉は鋭いが、困ったように眉を下げる讃良の笑顔から棘は感じられない。

「それは、分かっております。我が君こそが――」

「――あの人ですら、我が父が遺した沓を履いて歩いてゆけるかどうか」

 とんでもないことを言う。それでは、誰が王になるというのか。吉野方と人に言われるようになったこの四万数千の大海人軍と、それを支持する全国のあらゆる者が、それを望んでいるというのに。

「いえ、歩くだけならば、あの人にもできるでしょう。そして、先帝の成しえなかったことを多く成し、人を導いてゆくのでしょう」

「そうです。それをこそ、私はたすけたい。あのお方こそ、まことの王なのです」

「それは、違うわ」

 はっきりと、讃良は否定した。史は、我が夫にそれとなく随行してきたような風のこの女を恐ろしいと思った。

「次は、あの人でなくてはならない。あの人にしか、できぬことがあるから」

「それは、何でしょう」

 蝉の声。沈黙になってはじめて現れるそれを、史は煩わしいと思った。被りっぱなしの兜から流れてくる汗も、平素は全く気にならないのに、今はそれがために喚き散らしたいほどに勘に障る。

 苛立っている。自分で、そう思った。つとめて平静であらんとしてはいるが、まだ己のほんとうに深いところまでは手を入れられぬものらしい。

「たとえば、藤白坂で有間さまを吊るしたように。有間さまに何も後ろ暗いことなどないと知りながら、あの人は吊るしたわ。ほかにも――」

 さすがに、大海人がその技でもって葛城の母をも手にかけたことは言わない。

「あの人は、それがほんとうに求めるべきもののためになると知ることができれば、心すら捨てられる。いつでも、あの人は、猫なのよ」

 そして、と讃良は継ぐ。

「わたしは、あの人の、そういうところを、ひどく好いている」

 とろけるように目尻を染めて言うものだから、史もまた赤くなった。その反面、彼の脳のある部分においては、讃良が大海人に何を期待しているのかということについて考察している。そして、ひとつのことに行き当たった。

 ほんとうに求めるべきもののためならば、心すら捨てられる。

 民を損なわぬ方がよいというのも、心。

 人に光を示すのも、心。


 まだ、至らぬというのか。史の自問に答える者はないし、ひとりでに答えを得るには彼は若すぎた。

 心を捨て、彼がすべきこと。

「大友さまとぶつかり、大勢の血を流し、そののちに大友さまを――」

「――殺す」

 讃良が、また笑む。ほとんど息がかかるほどの距離にまで、顔を寄せる。

「そうすることで、あの人は、あるべきでない者があるべきでない場に立ったときにどうなるのかを示す。あの人になら、それができる」

「先帝や我が父が遺したものを継ぐというのは、それを示すことであると?」

「ええ。それが、土を切り、盛り、均すこと」

 葛城らは、国を創るつもりで取り組んできた。しかし、葛城と鎌ほどの者をもってしても、それは完全には成らなかった。史は、たしかに思い違いをしていた。大海人の代で、それが完成すると思っていたのだ。しかし、もしかすると、大海人の残りの生の全てを使っても、葛城や鎌の求めたものを為遂しとげることはできないのかもしれない。

 できるのか否か、それは讃良にとっては問題ではないらしい。

 彼女は、史に、葛城の代でことが終わったわけでもなければ、大海人の代で終わるわけでもないことを説いているのだ。だから、葛城らがそうしたように、今もまだ、災いとなりうる芽を摘みきってしまわねばならぬのだ。

 民を損なわぬように。戦いにならぬように。それは、いい。しかし、それは、国あってのことである。

 国を創るために、戦っているのだ。

 これは、戦いなのだ。

 だから、讃良は、大海人にではなく、史にそれを説きにやってきたのだ。

 その意味を、考えた。

「我が君においても、なお激しきことをすると。我が君もまたなにごとかを遺し、あとに続く者がそれを継ぐと。讃良さまは、そうお考えなのですね」

「ええ」

 なぜ自分にそれを説くのかということについての考察は、讃良の短い返答によって断絶させられた。

「では、誰が」

 誰が、それを継ぐのか。未だ見ぬ誰かがどこからか現れて、勝手に継いでゆくと言うのか。そのようなことを期待して、国というのは成るものなのか。様々な疑問が瞬時に湧き出た。

 はたと、止まった。

 あの笑みである。真っ白い指がやわらかに伸びて、それが桃色の唇を差す。

「わたしが」

 史は、絶句した。讃良が女であるからではない。この時代には女帝という前例はあったし、朱子学もない頃だから女性は政や家のことに口出しをしないというような思考もそもそもない。下手をすれば現代と同等か、それ以上に女性の力の強かった時代である。ゆえに、史はそのようなことで絶句したりはしない。彼が言葉を発することができず蝉が喚くのに任せているのは、もっと別の、単純な思いのためである。

「では、讃良さまは、はじめから――」

「わたし以外に、誰がそれをするのです。わたしには、父のように壊すことはできない。我が君のように、心を捨てて血を求めることはできない。しかし、わたしにも、できることがある」

 耳の中で音がする。己の血の脈の音である。それを聴き、続けて唾を飲み込む音を聴いた。

「闇を見た人こそ、光を知ることができる。その光を、示すこと。父は、言いました。だから、闇でよいと。恐れるなと。人とは、はじめから光なのだと。国とは、それを示すためにあるのだと」

 それが、讃良がすべきこと。ずっと、そう思い定めていたらしい。

「そのためには、あの人に王になってもらわねば。わたしが、血を求めるわけにはゆかぬのです。あなたが考え、策を敷き、あの人に、それをさせてほしいのです」

 讃良は、光そのものになろうとしている。いや、彼女の言葉の通りなら、人とはもともと光であるということを示す王になろうとしている。ゆえに、彼女は血で曇るわけにはゆかぬのだ。

「あなたという人は――」

 我が夫すらも喰らい、あるべきものを求める。讃良とは、ほんとうの獣であるらしい。しかし、喰らうとは、果たして破壊することなのであろうか。

 獣は、好んでそれをしない。彼らがその爪でもって引き裂き、肉に牙を立てて喰らうのは、己の糧とするためである。そして子を成し、育むためである。史は、讃良に、それを見た。

 全てを継いでいるのだ。

 先帝の激しさも、それを支えてきた史の父のことも、そのために心を投げ捨ててきた大海人のことも、常に葛城の傍らにあって彼を導いてきた芦那が葛城の光そのものであったことも。そして、彼らが自らの血に連なる人すらその手にかけ、唐が手を付けられぬような国を創ることを求め、にわかには成らぬと知ってからは唐をうまく吊るし、都を造り、大友を後継に指名し、大海人にそれを滅ぼさせることでこの国にかつてなかった強力な統治をもたらすことを求めたことも、その眼で見、その耳で聴いてきたのだ。


 思えば、葛城とは、よくとてつもない話をするときに讃良に同席させていた。それは、このときのためだったのであろうか。筆者も史も讃良自身もその答えを持たぬが、だが、このとき、まことの王の誕生が約束されたのだ。

「なぜ、私なのです」

 史が、ようやく一巡した思考について述べた。讃良はまた違う音律で笑った。

「あなた、今幾つになりましたか」

「今年で、十四になりまする」

「幼くはないが、若い。世のことをするには、あまりにも」

「しかし、人が二十年、三十年かけて学ぶものを学んでいるつもりです」

「無理はしなくていいのです」

 不思議と、背が軽くなるような気がした。蝉の声も、うるさいと感じない。

「あなたが若いからこそ、わたしはあなたにこのことを話しているのです。分かりますか」

「分かりません」

 正直になってしまっていた。そこに、何の気概も張り合いもない。ただ史という一個の人間があった。讃良はそれに向かって眉を下げたまま、口の端をわずかに吊り上げた。

「わたしが王になる頃には、あなたは今とは比べ物にならぬほど優れた官となると思うのです。だから、今このときのあなたが優れていようがいまいが、何とも思わないのです」

 見ているところが、そもそも違った。近江がどうとか美濃がどうとか不破がどうとか、そういうものをこの女は見ていない。もっとずっと先の、いや、もっとずっと根幹のものをのみ見ているのだ。

 ――これが、王というものか。

 史は、先帝のことを晩年になってからしか知らぬ。

 だが、おそらく、先帝とは、このような王であったのだろう。

 そして、王とは、こういうものなのだろう。

「わたしを、たすけなさい。人が光であることを示す国で。その中心に立つ、わたしの傍らで。そのために、わたしの好きなあの人を、王にしなさい」

 見下ろされている。

 知らぬ間に、平伏していた。

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