牙の立つ先

 戦いが、始まった。いや、これまでにも小競り合いはあった。しかし、これほどまでに明らかな会戦は稀であった。

 場所は、美濃ではない。大和である。

 大和の地を守ることを任じた大伴吹負おおとものふけいという者が、南下して攻めてくる近江方を迎撃した。

 一度勝ったがその軍は傷付き、隙が生じた。そこをまた近江方の別の軍に攻められ、吹負の軍は散り散りになってしまったという。

「まずい」

 と、高市も仲麻呂も口を揃えて言った。ただちに救援に赴くことを進言したが、

「まあ、大和のことです。捨て置きましょう」

 と軍の最高責任者である多品治おおのほんじは取り合わない。

 そのことについての不満を、二人はさっそく大海人らに直訴してきた。


「大和の地は、先帝が立った地。そこを奪われたとなると、あちこちの者の心が揺れてしまうやもしれません」

 というのが、彼らの説くところである。

 たしかに、大和を奪われるのはまずい。大海人らが今拠っている美濃から遠くはないが、間に深い山を挟むがゆえに美濃側から大和方面の動向というのが捕捉しにくい。そのことは、他ならぬ大海人ら自身が名張の地において立証している。

 喉元に、見えぬ剣を突きつけられるような。大和を奪われるというのは、そういうことであった。

「品治どのは、そのことが分からぬのです。戦いをせぬ人であるから、無理はないのですが」

 と腹立ち紛れの皮肉も交えて嘆願するのを、大海人はじっと聞いている。

 なるほど、讃良の言う通りになった。集ったはいいが不和になるのではと懸念した高市と仲麻呂が仲良く品治についての苦情を申し立てに来ているのである。品治という存在は彼ら気概に溢れる主戦派にとって刺激となっているらしく、その上で彼らを競わせたり助け合わせたりすれば、力以上の力を発揮することだろう。

 だが、品治の方にも目を光らせておかねばならない。あの通りの気性だから、ただものを言うだけで高市や仲麻呂のような武をよくする者の勘に障るらしく、あまり行き過ぎると高市と仲麻呂が結託して品治を斬りかねない。

「大海人さま」

 史が、判断を仰いでくる。高市と仲麻呂の言うことが、もっともであるということである。

「お前たちの言うことを、容れる」

 みじかく返答した。

「高市。お前はただちに大和へ赴き、近江方へ備えろ。仲麻呂。お前は散った吹負の軍が再び集まるための旗となれ」

 二人は嬉々として声を上げ、駆け足で去った。


「ほんとうに、がし易くなりました」

 讃良が、くすくすと笑う。四万数千の軍を抱えることとなり、このような多方面作戦が可能となったことを言っているのだろう。

 つい先月までは、千にも満たぬ軍であった。それが、わずかな時間でこれほどまでに膨れ上がっている。史が夜も眠らずその編成について簡を削って何かを書き込んだりしているが、それでも追いつかないほどの軍がこの狭い盆地に溢れていた。

「そうだな。つい先ごろまでの俺たちであれば、高市と仲麻呂の二人を大和にやれば、ここに留まる意味すら無くなってしまうところであった」

「それもそうですが」

 大海人の表情が、変わった。讃良が彼の想像するのとはまた違うことを言わんとしていると感じたのだ。

「品治のことです」

「ああ、お前の言う、嫌われ者か」

「そうです。品治は、とても頭のよい男であるようですね。我が君が己に何を望むのか、あの場ですぐに察し、それに徹している」

「人が増えると、様々な者があらわれるものだ」

「ひとりでに人が沸き出ずるようなことを」

 讃良は、また笑った。たしかに、彼女の言う通りである。人材とは勝手に湧き出るようなものではない。彼らが集うのには、理由がある。

 大海人も聡明であるから、それが自らの尊さのためではないことは分かる。いや、実際に、人がこうして集まるよう世を向けてきた者のことを、ずっと見てきた。

 今となっては、確かめようもない。しかし、大海人は確信していた。葛城は、ある時点からは自分に世を継がせることを見越していたと。そして、自ら亡きあと必ず乱れる世を正し、国を打ち立てさせようとしていたと。

 多品治などがそのよい例であり、高市も仲麻呂もそうである。彼らは、ただ大海人が決起したからそれに従ったのではない。大海人が立つとき、それに従うようはじめからされていたのだ。

 大海人は、思う。葛城と鎌によって地を均し、土を切り盛りされてきたこの国が、彼らの求めた唐の蹂躙を許さず独立性のある一個の国家として存在し、それがあらゆる民を導いてゆくことを為すのは、己なのだと。

 そのために、一度は乱れが必要なのだと。今まさにおこなっている戦いは、それなのだと。

 あるべくしてある。立つべくして立つ。王とは、そういうものなのだ。そうではない者が立つときどのようなことになるのかという前例を、葛城は大友という肉親を用いて世に示そうとしているのだ。

 死してなお。

 この頃になると、忽然と消えた葛城の死を疑う者はない。大海人も、さすがにひょっこりと葛城が戻ってくるような気はとうに霧散してしまっている。

 讃良が、大海人の切れ長の目をじっと見つめている。それと、視線を合わせた。

 讃良の瞳の中に、自分がいるのを見た。その姿はとても小さく、どのような表情をしているのか読み取ることはできなかった。

 しかし、己が今どのような顔をしているのか、知っていた。己のことであるから、当たり前である。しかし、讃良の真っ黒な瞳は、ことさらにそのことを明らかにするような性質を持つようであった。

 自らを見る人の中の己が、強く頷く。

「人とは、ひとりでに生ずるようなものではない。しかし、人は、人を育む。子を成し、育てるのも一つ。教えを授け、育てるのも一つ。導かれ、己で気付いてゆくのも一つ。おれもまた、人との交わりの中で気付くことが多いようだ」

 暗に、讃良のことを言っているのかもしれない。まだ猫であった頃は主の娘ということで彼女には並ならぬ敬意をもって接していたが、葛城の言いつけに従って娶ってから、少しずつ大海人の中で讃良を見る目が変わってきた。

 自分の女なのだ。いつも、自分を見ているのだ。讃良の瞳や声には、そう確信させるだけのものがあった。

 そこで、ふと思った。

 なぜ、自分なのだろうと。

 大友を一度は立て、自分がそれを排してまことの王になるのはいい。葛城がまだ創世をはじめた頃から従ってきたのは自分なのだ。葛城はその早い段階から、わが子が長じて暗愚であればお前はそれを排し、俺の後を襲えと確かに言った。

 そのことに何の疑問もなく、ただ為すべきを為すのみであると思い定めてはいるが、我が娘である讃良を、なぜ。

 たとえば、どこか然るべき者の妻にすればよい。まさか異母兄の大友と娶わせるわけにはゆかぬだろうが、なぜ讃良を自分の妻にしたのだろうか。


 葛城は、鎌の死の直前、大海人に明かした。讃良が、自分と芦那の間の子であることを。じつの兄妹であった彼らの間にできた子であるからそうとして育てることはできず、べつのおんなとの間の子であるとして育ててきたことを。

 その讃良を、なぜ。大海人はどういうわけか、今の今まで、そのことを考えたことがなかった。

 葛城と芦那の気質をよく受け継いでいるのは、ただその子であるからではないことは既に分かっている。彼女自身が葛城らと同じ、獣なのだ。

 それを、自分に付けた理由。

 どうしたの、と言いたげに傾く愛くるしい顔にふたつ浮かぶ、悲しくもないのに潤んだ瞳に映る己は、なにかとてつもないことに気付いたようにして立ち尽くしている。


 この戦いが終わったら。

 どのような形でこの戦いが終わるのかは分からぬが、この戦いが終わったら、まことの王が立つのだろう。

 それは、必ずしも自分であるとは限らないのかもしれない。それは、恐怖にも似た感情であった。

 讃良を抱くと、まるで芦那を抱いているように錯覚することがある。ついに遂げることのできなかった、いや、はじめから遂げられるはずもなかった想いが満たされるような気がすることがあった。

 そうしているうち、自分の下で腰を大きく振り動かしながら嬌声を上げるこの愛くるしい獣がいつの間にか自分に牙を剥いていて、それを喰らうというようなことはありはしないか。

 葛城のことを絶対のものとして、信じきっている。

 だが、葛城は、それが世のために必要と確信するならば、自らの血に連なる者であっても、我が母であっても喰らい、贄にしてきた。

 彼の遺した最後の牙が突き立つのは、大友ではなく、自分なのではないか。

 そういう想念がよぎったとき、大海人は背筋が寒くなるのを感じた。

「どうしたの。汗を、かいておられるの」

 讃良が小首を傾げて問う。

「いや。鎧が蒸れて、暑いのだ」

 そう言ったきり黙り、あとは蝉の声が大海人のそれに取って代わった。

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