紫陽花と雷光

 はじめての実戦は、兵を変えた。ある者は怯え、また別のある者は昂ぶった。高市は自ら引き連れる兵の様子の変化を敏感に察して、観察した。

 恐れて逃げようとする者は捕らえ、全員の見る前に引き出して容赦なく斬り捨てた。突然の夜襲により損害を被り、五百いた兵は半分ほどになってしまっているが、こうなると数の問題ではない。

 一人の怯えが全体に伝播してしまえば、二百五十どころか無になってしまう。

「励め。励んだ者には、わが田を分け与える」

 ただ厳しく罰するだけでなく、褒美というものを設定した。高市が与えられている土地を、惜しみなく分け与えてやると言うのだ。

 この当時、自ら拓いた田は永久に自分のものであった。葛城らが敷いたその法が我が国の生産力を飛躍的に向上させ、文化的、経済的成長を急速に遂げさしめ、唐の介入を許さぬような外交力に繋がっているわけであるが、それゆえにこの時代の土地というものの感覚というのは後代のそれとほとんど変わらなかったから、兵どもはその魅力的な褒美の設定に奮起した。

 いわゆる、信賞必罰。これを、高市は地で行ったわけである。

 不思議なことに、残った二百五十というのは実戦を経る前の五百よりも足並みを揃え、間違っても疲れたなどと口にせぬようになり、進路を阻もうとする豪族などがあるときはたちどころにそれを撃破した。

 高市自身、驚いている。

 ──おれは今まで、ただ己ばかりの武と知ばかりを磨くことに専心してきた。しかし、どうも軍というものは違うらしい。

 軍というのは、将の武と知を兵のものとするもの。それを、高市は知った。

 ──あれほど辛そうにしていた兵が、どうだ。一度の勝ちに乗り、怯えを振り払ってしまえば、もう己が勝つことしか思い描かぬようになった。そのための贄のようにして斬られた者はかわいそうだが、しかし、おかげで軍は軍になった。

 その軍でもって、名張を目指すのだ。数ではない。今自らの後ろに目を血走らせて続くのは、まぎれもなく兵。それでもって大海人をたすけ、この国にまことの王を出現させるのだ。

 そうして一行は街道をゆき、ついに名張に入った。


「これは、どうしたことだ」

 名張に入ったはよいが駅屋は焼かれ、女子供しかいない。寝たきりのままの老人なら男はかろうじているという異常な状態を奇妙に思って土地の女に声をかけた。

「大海人どのの軍は、なぜここにいない。それに、男もいない。これは、どういうことだ」

「大海人どのは、東を目指して発たれました。なんでも、近江の君の兵がこちらに向けて発せられたとか」

「男は、どうした」

「ここに男がいれば、戦いになる。そう、藤原史ふじわらのふひとさまに諭され、皆が吉野の君に従ってこの地を離れました」

 守るために戦うのではなく、戦いを避けるためにこの地を去る。そうすることでこの名張の地はただ近江軍を通過させるだけで荒らされることはなく、なおかつ大海人軍は無傷のまま然るべき場所でそれを迎撃できる。藤原鎌の子である史の作戦能力に舌を巻きながら、大海人が向かったという東の地を目指すことにした。

 その途中、

「近江が来るというなら、叩いておくか」

 と思い、名張を離れ伊賀国の中に突き入り、のこぎりのような山を縫う谷に敷かれた街道を見下ろすべく、山上に布陣した。

「戦えません。我らには、食い物すら残り少ないのです」

 と周囲の者が言ったが、高市は聞かない。先の夜襲のとき敵の裏をかくため、重い荷や車などは捨ててきた。ゆえに食料や矢が無い。

「だからこそだ」

 と高市は不敵に笑った。

「だからこそ、戦うのだ」

 周囲の者は、高市の頭がどうかしてしまったのではないかと思った。しかし、違った。

「食い物がないなら、敵のそれを奪えばよい」

 こうして、腹を減らせるあまりせっかく整った気勢を削がれかけていた兵どもは、ものを食いたい一心でさらに目を血走らせ、近江軍の通過を待った。


 果たして、それは来た。高市が山上に布陣したのが名張を離れた日の夕で、そのまま山上で火も焚かずに夜を越し、日が昇りはしたが谷あいの道はまだ黒いというような時刻、もやに霞む街道に影が浮かび上がった。

「来た。天は、我らを見ている」

 この靄のために、敵には高市軍がどれほどの数なのか分からぬであろう。奇襲にはうってつけの天候というわけである。

 なにか、天が己を後押ししているような、そんな気分が高市にはある。天が己を見下ろし、今ここに軍という生き物を現出させ、それでもってこの地上に立つまことの王をも形作る。その高揚を表現することは、彼自身にも難しいことであろう。

 ただ一つその術があるとするなら、手始めに眼下の靄の中をゆく敵を粉砕することである。来ると分かっていた敵が来ぬからどうしたのだろうと大海人軍が不思議に思っていると、援兵として参じた自分の軍によってそれがすでに粉砕されていたのだと知れば、自分の軍だけでなく大海人軍全体の気勢は騰がる。その勢いが勢いを呼び、人を呼び、それがまた兵となり、やがて近江などではどうにもならぬほどの力となる。そう確信することができる。

 剣。それを、静かに掲げた。急斜面を見下ろし、息をひとつ。

 陽光。それが、眼下の靄をも切り裂くほどの勢いではしる。

「続け!」

 いつも、先頭。そう高市は心に決めている。帷幕の内にあって千里向こうの軍をどうこうするようなことは、藤原史に任せておけばよい。

 なぜ、吉野側が自分に声をかけてきたのか。もともと同情的であったこともあるだろうが、自分がただの平凡な文官であったなら、とくに望んで味方に引き入れたりはせぬだろう。

 知っていたのだ。大海人は、史は。自分が、武の男であると。

 己の身を、陽光から遠ざける。遠ざけて、自ら靄の中に突き入れる。

 そこには、生があった。そして、死も。

 叫んでいた。ほとんど視界の効かぬ中、暗闇を切り裂く雷光のようにして駆け、血を撒き散らした。

 敵が何人いるのか、まるで分からぬ。敵からも、こちらが何人いるのか分からぬのだろう。顔のないそれらの怯えの声が断末魔に変わるとき、血が、死が、生が現出した。その向こうにあるべきものが、確かに見えた。

 腰に佩いた剣のほかに、敵から奪い取った剣も握っていた。それらを翼のように広げ、真っ白い靄を赤く染めた。

 背後に、自分の兵が続いているのを確かに感じた。それらは揃って声を挙げ、自らの存在を示していた。

 まるで、産声。

 たしかに、感じた。今ここに、あたらしきものがあるのだ。これからそれは芽吹き、この産声を天と地の間に響き渡らせるのだ。

 突き抜けた。自分が何をしているのか、分からなくなった。足はもつれ腕は粘り、頭は霞んでいる。

 疲れているのだ、とはじめて思った。近江を脱してからというもの、緊張の連続であった。これまでの十八年の生すべてを重ね合わせたとしても及ばぬほどに、濃い時間であった。どこを斬り、どこを斬られているのか分からぬくらいに、疲れているのだ。

 だが、死にはしない。死の向こうには、何もない。どれだけ人が仏を崇め、その教えに従おうと、生きる者が歩むべき道を拓いてはじめて、自分の生に意味があると思えるのだ。


 食い物がなくては、歩けぬ。それを奪い、喰らい、己の血肉として、東へゆく。ついでに、大海人軍を突こうとするこの軍を殲滅する。高市の着想した作戦は、成功に終わった。

 陽がさらに昇って靄が晴れたとき、この狭隘な谷は三百もの敵の死体で満たされていた。それに折り重なるようにして、味方の死体も。

 残った高市軍は、二百に満たない。食い物や武具を奪ったそれらは、傷ついて目を閉じたまま息をしている自らの将をも荷車に載せ、粛々と東に足を向けた。

 自分たちのために先頭に立ち、その結果傷を受けて眠っている軍神そのもののような将を護るようにして列を組んで歩むその姿は、まさしく軍だった。

 紫陽花ばかりを愛でているような高市のもつ内なる雷光が、彼らの髄を打ったのだろう。

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