月を落とす

「気を張れ。足を、たしかに出せ」

 両側を丘に挟まれるようにして伸びる道をゆきながら、引き連れる兵を鼓舞し、声を高くする者。近江を出て名張を目指す、高市皇子である。

 この当時の軍というのは組織的訓練を経ぬ者ばかりであるから、進軍にも一苦労である。二日歩いただけで、疲労を訴える者があらわれはじめている。

「それ、もう一息だ。日が暮れるまでは歩け。そうしたら、休ませてやる」

 そう言って、馬から降りた。自分だけが馬上から声を上げるばかりでは、兵の辛さは和らがぬ。兵と同じ土を踏み、自分の足で歩いてはじめて、兵に自分の声が届くような気がした。

「日が暮れれば、休む。しかし、その前に荷を改め、武具の具合を確かめる。そうすれば、飯を食おう。眠ろう」

 ただちに休めるわけではなく、何をすれば休むことができるのかを明確にしてやることも大切なのではないかと思い、そう言った。この時代には大陸の兵法書などはあっても、兵のことを実際に経験した者というのはきわめて少ない。高市は、なんとなく頭で考え、こうしてやった方がよいのではないか、と思うようなことを口にし、身体で表しているに過ぎない。たとえばただ咲いているだけの紫陽花に眼を向けたりするような感受性がそうさせるのかもしれぬ。

 得てして、軍才というのは、そういうものであるのだろう。


 戦いになるかもしれぬというので近江の東から甲賀へ、そして伊賀へ抜ける街道を利用する者は少ない。だから、あとにも先にも高市を先頭とした五百があるのみで、あとはせいぜい鳥や野の獣や虫がいるのみであった。

 夕暮れ。街道から外れた林の中に入り、火を焚いて夜営の準備をする。兵はいそがしく動いて言われた通りに荷を確かめ、武具を改めている。これさえ済めば、休める。そういう思いが、彼らの行動を敏速にした。

 夜ともなると蝉も静かになり、ちろちろとそれに代わる何かの虫の音ばかりになる。それにぱちぱちと弾ける火の音が混じるのを聴きながら天の川に光る無数の星を見上げていると、とてもこれから戦いに赴くとは思えなかった。

 名張を目指し、大海人に合流するのだ。そしてその正当性を鳴らし、大友を排する。

 彼の動機は、単純である。彼から見て、大友は王たりえなかった。いかに先帝の子であるとはいえ、人の上に立つにはあまりにでありすぎた。

 それで周囲がよく彼を助け支えればそれでよいのかもしれぬが、彼の場合、先帝からじきじきに後を継ぐよう命じられたことが気負いとなり足枷となり、人に頼りないと思われることを極端に嫌うようになっていた。

 むろん高市は知らぬことであろうが、それには理由がある。先帝である葛城はじきじきに彼を後継者に命じはしたが、その前からずっと面と向かってその凡愚であることを非難し続けてきた。生来、勝ち気な性質を持たぬ大友は、その過程で一種のコンプレックスを植え付けられたと言える。その心の抑圧は、それを跳ね返そうとする行動あるいはそれを避けようとする行動へと人を駆り立てる。

 もし、葛城や鎌がそこまで考えて彼をそういう人格にのだとすれば、恐ろしいことである。

 一体、どの時点から。今となってははるか昔、雲が自分達を追い越すのを眺めながら葛城が、我が子が凡愚であればそれを滅ぼして大海人に己の跡を継ぐように言ったときからか。その時点から、当時伊賀と呼ばれていた葛城の実子は、滅ぼされるために大友皇子にさせられる定めにあったのだろうか。

 あの獣どもはすでにいない。ゆえに、確かめようもない。ましてや、まだ若い高市がそのことを知り、考えることなどできようはずもない。彼を衝き動かすのは、今まさに時代が動いていて、今の己の思考と行動と言動が、自分とこの国の未だ来たらぬ時間のことを決定するかもしれぬという形のない高揚と切迫感と使命感のみである。


「我々がすべきは、――」

 葛城の治世の最中で長じた高市は、この表現を用いることができる。

「――大海人どののもとへ参じることである。そのため、今は早く休め。明日も夜が明ける前にここを発する」

 ようやく休める。兵どもの間に、安堵が走ったその瞬間。

 喚声。そして、断末魔。

 雨。いや、違う。矢だ。陽が落ちてしまっているから、どこから射掛けられているのか分からない。高市は解きかけた鎧を締め直し、昼間の姿を思い返した。

 丘である。街道を挟むようにして両側にせり立った丘。そこに、兵を伏せていたのだろう。こちらの動きが、察知されている。街道から外れた林の中で夜営をしたとしても、丘から見下ろせばその火がこちらの位置を明確に敵に教えることになる。

 迂闊であった。

 いや、高市を責めることはできまい。何度も言うようだがこの時代の人というのは実戦経験に乏しく、よほどの身分と知性と才能と興味を持たぬ限り大陸の書物などに触れる機会もない。進軍中の動きを敵に察知されぬように気は配っていたが、街道を堂々と歩んでいたため、土地の者などはその動きを目にしている。近江側が人を放てば、高市軍が今どこを進んでいるのかすぐに知られてしまうのだ。そしてその行動を予測し、夜営のため進軍を停止するであろう地点にあらかじめ兵を伏せることなど造作もない。

 重ねて、迂闊であったと思った。思った瞬間、高市の思考は別の方向に向かって旋回した。

 切り抜けるのだ。

「恐れるな。たいした数の矢ではない」

 兵の恐怖はとてつもない。自ら焚いた火だけが頼りという暗闇の中、その火めがけて矢が降り注いでくるのだ。

「木立の陰に、身を隠せ。火から、離れろ」

 暗闇というものは人の行動を著しく制限する。身に危険が迫っていればいるほど、人は火からは離れたがらない。しかし、火のそばにいるかぎり矢に打たれ続けてしまいには全滅してしまう。

 兵のうちのいくらかは高市の声に気を取り戻し、指示の通りにした。しかし、中には叫喚の中で高市の声すら見失い、いまだに火にしがみつくようにして身を縮めている者もいる。

「弓をよこせ」

 傍らの者に命じ、弓を手にする。それに矢をつがえ、引き絞る。

 ぱんと火の爆ぜるような音と共に放った矢が兵どもが頼りにしている篝を打ち砕き、闇を作った。二度、三度と同じようにし、兵が群がるところに闇を作った。

 いざ闇に自分が包まれてしまうと、光の中からそれを覗き込むような恐怖はなくなるものである。兵は、落ち着きを取り戻した。そして目当てを失ったために、丘からの射撃もまばらになった。

「進発。弓と矢をそれぞれ負い、荷は捨てろ。武具を解いた者は、再び纏え」

 逃げるのだ、と誰もが思った。この窮地から、恐怖から。しかし、高市はそうは命じなかった。

「俺に、続け」

 それだけを言い、闇の中に一人で駆け出していった。この闇の中で頼るべき火を失った兵どもが、せめてこの若く文武に優れた指揮官だけは見失うまいと、こぞってその後に続く。

 高市は街道には戻らず、逃げもせず、林の中をどんどん突き進む。どれくらいの時間そうしたかは分からぬが、夜が更に深くなったことを示す位置に月が来たとき、足を止めた。

 眼前には、夜を塗り潰すようにして黒々とそびえ立つ丘。射撃のもととなったこの丘の背後に、回りこんできたのだ。今高市がいるのは丘の東側、すなわち大海人の本軍に近い方に位置するから、こちら側では敵は行動はできぬはずである。この丘に登ったのも西の街道から、降りて撤収するのも西の街道へ。そして、奇襲を受けて逃げ、大海人と合流しようと急ぐ高市軍も、西の街道に殺到するはずである。

 敵はきっと今頃街道の両側の丘を降り、大海人のもとに収容されようと算を乱す高市軍を正面から討ち壊すつもりで布陣を終えているだろう。

 丘に登る。そして、見下ろす。街道には点々と松明の火が灯っており、高市の目当てが当たったことを知らせている。

「弓だ」

 静かな声で、また声を発する。そして手にした弓で、月に濡れる闇の中、街道に布陣する敵に向かって一矢、放った。

 豆粒のような火がそれで一つ消え、ほかの火が激しく揺れた。

「俺に、続け。矢を叩き込め」

 兵どもも高市に続いてそれぞれ弓を引き絞り、矢を放つ。それらは唸りを上げて街道に落ち、丘の上にも聴こえるほどの叫びで満たした。

「射ち尽くせ。皆殺しにしろ」

 高市は凄まじい声を上げて指揮をし、街道にひしめき合う敵を葬った。矢が尽きると剣を抜いて声を上げ、丘を駆け下りる。兵が、同じ声を上げながらそれに続く。

 街道は、月明かりと血でべっとりと染まっていた。それを踏みながら、生き残った敵を次々と斬ってゆく。

 恐れて逃げようとする者の背を割り、立ち向かってくる者の首を跳ね、思うままに敵を蹂躙した。

 そして兜を身に付けた者――この時代ではまだ鎧兜というのは希少品で、それを身に着けているということはその集団の首領格であることを示した――を見て取るとそれに向かって突き当たり、剣を交えた。

「愚かなり、高市どの。近江の君に叛き、再び国を乱すなど」

 聞き知った声であった。月を背負っているために、顔は分からない。分かったとしても、どうでもよいことである。

「愚かとかさかしいとか、そういうことではないのだ」

 剣を弾いて放し、その言葉を濡れた街路に置くようにして、すっとその鎧兜の者の脇を通り過ぎた。

 月が、落ちてきた。

 振り返って見ると、今言葉を交わした男の、兜を着けたままの首であった。

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