第二章 ときは壬申
雷電を呼ぶ
名張の駅家は焼かれ、その郡司は血祭りに上げられた。それに従う者を皆殺しにはせず、それがかえって大海人の声望を大きくさせたような感がある。
讃良は娘の頃のように、よかったこと、と無邪気に笑うばかりで大海人としては苦笑するしかないが、なんとなく、やはり
──あの名張では、いちどは坑というような話も出たそうだ。
──なんと。それはまことか。
──それが、吉野の君の計らいにより、赦すこととなったそうだ。なんでも、我々の目当てはひとまず名張に拠ることであり、数百数千の人を坑にすることではない、と周囲をお鎮めなさったそうだ。
──なんと、おやさしい。あの方なら、この国を正しく導く王となられるのかもしれぬ。
そんな声が、世に出ればよい。あわよくば、
──それにひきかえ、近江の君はどうだ。いたずらに慌て、うろたえ、気の休まらぬ様子で周囲にはげしく怒り散らしていると言うではないか。
という声までも出てくれば願ったり叶ったりであろう。
実際のところどうであったかは分からぬが、名張か使いを出したところ、
それらはことごとく、伊賀、伊勢方面の者であった。名張を取ったからといってすぐさま北上して近江を目指さぬあたり、史のはじめに立てた作戦が活きているものと見える。
西の一方だけを開けて、囲い込むように。そのため、現代の行政区分で言う三重県がちょうど滋賀県の南東部を囲うように接する一帯を制するのだ。そのまま日本地図にあてがった指を上に滑らせると、そこにはかの有名な関ヶ原の戦いがあった
このように、この決起は、単に近江にある大友を倒すとか、政権を我が物にするとか、そういうことではないのだ。
もし大海人が権勢欲のためにこれをするなら、はじめから大海人は吉野に引っ込んだりする必要もないであろう。
大友を後継者に指名したのは、葛城である。我が子可愛さではない。彼はおおよそ、自分の子だからどうとか、そういうかわいげのある価値観を持ち合わせないことは既に多くの文字を費やして述べてきた。
やはり、葛城と鎌というはじめの獣は、凄まじい。葛城は、はじめから大海人にあとを継がせるつもりであった。どこかの時点で自分一代ではとても国など仕上がらぬことを知り、それでもどうにかしようと白村江で戦い、それも破れて思い改め、自分が為すべきだと思い定めていた事業を人に継がせることを考えた。
かれが消える少し前、大友に、
「することがない」
と漏らしたというのは、ことが全て成ったという意味ではなく、自分の代では事業を完遂することが叶わぬことを確信し、あとを継ぐ者をも定めたからではなかったか。
少なくとも、大海人はそう思っている。
「もし我が子が凡愚なら、お前はそれを滅ぼしてでも俺のあとを襲え」
かつて雲に追い越されながら言った葛城の言葉が、今こそ大海人となった猫に追いついてきた。
一方で、大海人ほど大友に同情的な者もいまい。大海人は欲しくて近江を欲するのではなく、なにか自分を媒介した別のものが欲しているから近江を目指すような気がしている。
国とは。時とは。王とは。人とは。
形もなく目にも見えず、果ても答えもないものがこの世には無数に存在するということを葛城は人に知らしめた。では、それを知った人は、なにをすればよいのか。
瞑目したままの目が、開かれた。
「高市どのは、やって来れましょうか」
讃良の声。いまなお生きる、一匹の獣。それは葛城そのものであり、芦那でもあった。
「すまん」
大海人はみじかく断り、一定の律動をもって腰を動かすことを続けた。このようなときにもさまざまなことが頭の中を駆け巡り、気の休まる暇もない。ふだんは側にあって子供が蜻蛉でも見つけたような顔をして激烈なことを言ってのけるこの獣も、寝所にあって薄い絹衣を纏っただけの姿で脚を開けば、ただの女になった。
「高市どのが、やって来るかどうか。そのことを、考えておられたのでしょう」
速くなる息に言葉を混ぜて発しようとするさまを見ると、どういうわけか大海人は昂ぶった。
「このようなときは、よい」
政や、作戦の話をするのが、である。
なにがおかしいのか讃良はくすくすと笑い、あとは互いの荒い息だけになった。
大事を控えて交合にふけるなど、なんとなくあさましいような気もする。しかし、仕方がなかった。人なのだから。それができるときくらい、食い、眠り、抱けばよい。
同じ頃、史は大きな絹布に描かれた地図を、獣の脂を燃して灯した灯の下で睨んでいた。
名張の郡司は、まずこちらに靡くはずであった。事前に渡りを付けたときには、
分からぬものだ、では済まされない。自分が懸けた大海人という男の浮沈が、人のその瞬間の思考や、あるいは気分によって左右されるのだ。
史は、思った。むしろ、そこについて働きかけをせねばならぬのではないかと。地図を眺めて考えることも無視できぬことではあろうが、それ以前にもうひとつ、根幹の部分について眼を向け切れていなかったのではないかと。
分からぬものだ、で済ますことができぬなら、分かるようになればよい。そう考え、じっと目を閉じた。
この作戦の基本方針を変えることはない。しかし、これから成そうとしている大事の中にあけびの種のように敷き詰められた人というものを見誤れば、仕損じる。それが、冷たい汗となって流れた。
包囲する。そして、近江の者を西へと追いやる。波が伝ってゆくように立ち上がった人々の前に、大友は手も足も出ぬようになる。
それだけではない。
滅ぼすのだ。大友を。
完膚なきまでに叩きのめし、その首を挙げ、晒し、正統なる王のありかを示すのだ。そして、知らしめるのだ。のちの世の人に。王たるべき者でない者がその座にあれば、どうなるかを。
大海人が継いだものを継ぐことができる全ての人が、歩ける道。そうではあっても、全ての人がそこを歩けるわけではない。選ばれた沓を履いた者だけなのだ。そうでない者がそこに至れば、すなわち国は傾く。それを、先帝は我が子を使って人に知らしめようとしたのか。
名も要らぬ。宝も要らぬ。ただ、自分は
だから、自分のこの才は、自分で得た。そう史は信じている。
そして、それを、世に問いたいと。大海人という王を
だからといって、思考に囚われることはない。史はげんに、絹に描かれた地図を睨む目をはっとさせている。
不破の道。東国や北国に繋がる要の地。そこを抑える。それは、単に近江を覆い、西へと足を向けさせるためではないと気付いた。
むしろ、東からの兵を、集めるためなのだ。当たり前のようにして浮き上がった不破を取るという作戦のもつほんとうの意味に、史は気付いた。
何かが足りぬと思っていた。一方を空けた状態で囲み、西へ逃がしたところで、ほんとうに大友は黙るのか。それを担ごうとする者が西で立ち上がり、寄せてくるようなことにはならぬのか。
その懸念を破るためには、いかに大友が西で兵を募ろうともどうにもならぬほどの力を集めることだ。
それが、不破の関。
ここを抑えれば、勝てる。
史は、自分が笑んでいることに気付いた。あわてて、顔をもとに戻した。そこで、ふと外を見た。
天には、雷鳴。昼間はひときわ暑かったから、そのせいであるかもしれない。それに、今さら目をやった。
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