はじめの火
大海人の軍は六月二十四日に吉野を出立し、彼が近江を離れたときに従っていた者五百がそれに続いた。
この時代の軍人というのは後代のそれとは違い、専門的に軍のことのみをするような者ではない。たとえば白村江の戦いの前に蝦夷平定で功を挙げた阿倍比羅夫なども都にあるときはただの官として政治に携わっていたし、その際に地方の豪族から駆り出されたような者は平素は田の世話をしていたりした。
すなわち、このとき軍として蜂起した五百の者は、近江を出るときにその存在を秘匿する必要はなかった。実際、大海人の近くにいてその身の回りの世話をしたり、大海人の政治的指示を実行するような役割にあった者どもだからである。その点、彼は幸運であった。もしこれがもっと後の時代の頃なら軍というのはその存在の独立性を高めており、隠棲するという名目で吉野を離れた彼は近江からそれを連れて出ることはできず、彼が軍事力を保有するためにはもう一工夫も二工夫もする必要があったであろう。しかしながら先に述べたような背景であるから、吉野の山あいの村落にそのまま入って起居している者がすぐに軍事力となることができた。
それが、名張に入った。
当たり前のように近江を離れるときに持ち込んだ武装を身につけた彼らは、まず名張を治める郡司という役割の者を恫喝した。街道の上にずらりと軍を展開させた上で、使いを出したのである。その使いは、
「先帝が皇太弟、大海人は、先帝の遺志を継ぎ、世をあるべく姿へと導くため、義によって旗を挙げた。貴殿も先帝より命じられし郡司なれば、必ず大海人に従うべくここに報せる」
というような大海人からの通告をもたらした。郡司は驚き、周囲の者と一晩寝ずに話し合った。無論、その間に近江へ人を走らせたりせぬか、大海人側は斥候を北側に放って監視している。
黎明の頃、返答がもたらされた。
「義によるならば、今こそ近江を
というものであった。
「だ、そうだ。どうする」
大海人は色のない声で
「それは──」
名張というのは今回の一連の作戦において重要な場所である。だから、事前に手回しはしていた。そのときには名張の郡司はたしかに大海人に従うという回答を寄越していたにも関わらずこの場になってその目論見が外れた史は、額に汗を浮かべた。先に記した日付は旧暦のものであるから、グレゴリオ暦ならば七月の末の頃であろうが、その暑さのためではないことは明らかである。
なにごとかを必死で考える様子の史から言葉が発せられるのを、大海人はじっと待った。主人がそうであるから、郡司からの回答をもたらした使者も土の上に膝をついたままである。
それらのことが全く目に入らぬ様子の史はきっと、こうならばああなる、そうすればどうなる、と先のことについて思考を旋回させているのであろう。
戻るべき場所は、もうない。すでに、名張の郡司に接触してしまっている。これで逃げ帰ればその報せはたちまちのうちに近江にもたらされ、旗色近江に濃しと見た各地の豪族どもを従えた討伐の軍が吉野に差し向けられるであろう。
引き下がるわけにもゆかぬ。しかし、進めぬ。それを、どう打破するか。
「こうお答えなさい」
沈黙を破ったのは、讃良である。
「──それでは、弓矢と剣でもって、押し通るのみ」
透き通った石英のような声。それを受けた使者は、口をぽかんと空けて見上げた。
ふたたび沈黙。使者に立った男が、やがて窺うように大海人の顔を見た。
大海人はしばらく眼を閉じて、静かに首を縦に振った。
「やるのですね」
目にただならぬ熱を帯びた光を宿した史が念を押すのにも、同じように頷いた。
やるのだ。讃良の言う通りだ。
もう、あとには引けぬ。それならば、進むしかない。進めぬなら、打ち破るまで。そうしてでも、得なければならぬものがある。為さねばならぬものがある。そのために、葛城がまだ健在のうちから吉野に移った。葛城と鎌が何をしてほしがっているか、分かりすぎるほどに分かっていたからだ。
受け入れねばなるまい。それが、およそ人の道から外れたことであったとしても。葛城らが獣として歩き拓いた王の道を歩まねばならないのだから。山科にぽつんと置き去られたあの沓は、自分に残し置かれたものなのだから。
奪うのだ。世の求めに応じ、戦い、血を流し、奪うのだ。
思えば、葛城と鎌は、様々なあたらしいことを人に授けた。政治面でも然りであるが、それ以前に漏刻を用いて時間の存在を知らしめることなど、後の世のあらゆる前例、前提となるであろうものをもたらした。
それを継ぐ大海人は、彼らと同じように、人に知らしめるのだ。
このあとに歩むあらゆる王が歩むべき道を王たりえぬ者が歩むとき、どうなるのかを。
それを示す、はじめの人。葛城も鎌も彼らがもたらした時間の働きによって倒れ、示すことができなかったもの。それを、継ぐのだ。その上で王として立てば、この国はようやく国となる。
大海人は、とても静かである。何の感慨もないような色の顔をぶら下げている。しかし、その胸のうちにはやはりあの獣どもが抱いた雷電の閃きが宿っている。
使者は、讃良の言った通りのことを名張の郡司に伝えて戻ってきた。ただし、無惨な死骸となってである。ここまで強硬な態度に出てくるということは、この名張の郡司はこの地の軍事的重要性をよく理解しており、なおかつ近江の大友に分があると考えているのだろう。
こうなった以上、この報せはもう北に奔ることであろう。史はあえて北に置いていた者を戻し、好きにさせてやった。
今が、機。近江にあってその報せを聴いた者は皆揺れ惑うであろう。その中で、
人がそれに続くには、まず、この名張を何とかせねばなるまい。
強硬に進路を阻み、加担を拒んだ郡司を血祭りに上げ、一瞬にしてこの要所を陥落させねばならない。
史はまだ若い。そのために、深く鋭い思考を持て余すようなところがある。成熟した人間ほどの生物としての経験がないために、どうしても頭の中の結論をもとに未だ起こらぬことをさも事実であるかのように捉えてしまようなふしがある。
しかし、それでも、さすがは鎌の子であり、当人もそれを自認して、だからこそ人並み外れた量の書を読み常人では考えられぬほどの修練を積んでいるだけあって、その軍の身体は鋭く、いざ発せられた軍は瞬く間に名張になだれ込んだ。
そしてあちこちに火をかけ、逃げ惑う名張軍に退路を与えるように見せかけてその実逃げ場のない山沿いの袋小路に追い込み、そこでわずかな戦闘を行って即座に郡司を斬り殺し、死体を駅家の前に吊るした。
大海人は軍同士の戦闘を、やはり静かに眺めていた。赤く燃える駅家が映っている瞳が、傍らの声に応じてちらりと動いた。
「
讃良が、もう一度同じ声を発した。この時代よりも千年近く前、秦の始皇帝が儒教家を生き埋めにしたという故事にも「坑儒」という語が用いられているように、これ一字で人を生きたまま穴に埋めることを指す。現代の我々においてそれは想像すら困難なほど激烈な手段であるが、古代中国においてはしばしば行われてきた手っ取り早い処分方法である。たとえば降伏したはいいがいつ叛くか分からぬような集団の場合はその危険の回避とあらたに人数が増えることによってもともとの軍の費えに差し障りが出る場合などにおける一種の数量的選択としても行われることがあったし、坑儒のようにそれを行うものの思想、思考の表現手段として行われることもあった。そして、自身の怒りや恨みなどを世に訴える手段としても。
そのうちのどの部分において讃良がこれを提案したのかは分からぬが、大海人はさすがにそれを容れなかった。
「それは、王のすることであろうか」
と、自問とも質問ともつかぬ呟きを漏らし、また静かに思考を巡らせた。慌てた史が、早口にそれを止め立てた。
「さすが、この世で一つの王たらんとする我が君と、それを
と讃良もにっこりと笑顔になったことで、彼女の提案は立ち消えになった。
そのような恐ろしい談義が行われたとは知りもせぬ降伏兵らが、大海人の前に引き出されてくる。それを、ただ黙って見下ろしている。
蝉が、鳴き止んだ。そして、風が出てきた。盛る火の音と混じり、獣でもない何かが吠えるようにも聴こえた。
天を、見上げた。ひょっとすると、雨が降るのかもしれぬ。
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