紫陽花を見る男

「おお、これは見事な」

 近江の都で、一人の男が屈み込み、白い歯を見せて笑っている。その視線の先にはひときわ大きな株の紫陽花。

 紫陽花というのはなんとなく大陸からどこかの段階で渡来したように思えなくもないが、原種は我が国にもともと自生しているガクアジサイであるとされる。むろんこの時代はその鑑賞のための品種改良などは施されておらず、大きな株といっても我々がかんたんに想像するような花火がそのまま花になって咲いたような姿ではない。

 しかし、やはり大きな株ともなると、その咲きぶりは見事なものになる。男はそれを見て喜んでいるのだ。

 万葉集では花といえば梅や桃のことで、桜はあまり登場しない。桜が我が国の象徴のようになるのはもっと後、たとえば鎌倉の頃のことであるというから、花を愛でるという価値観は今と変わらぬにしても、そのおもな種などは我々とやや異なる部分があるのだろう。紫陽花は、万葉集にはわずか二種しか登場せぬという。今でこそ新緑の季節の終わりを告げ夏との間を繋ぐ名前のない季節を象徴する花のようにして愛されるこの花も、近江の都ではそうありがたいものではなかった。

 それに目を止めて喜んでいるこの男が、少し変わっているということである。

 大陸から伝わった最もポピュラーな種である梅でもなく、これまた大陸から輸入した価値観による縁起のよい桃でもなく、先帝を支えた偉大な創業者である鎌の愛した藤でもなく、ただの紫陽花。それを見て喜ぶような、不思議な男であった。

「紫陽花がどうかされましたか、皇子みこ

 とそれを見た者が彼を呼ぶということは、彼にもいちおう皇位の継承権はあるということである。その声に振り向いてまた白い歯を見せて笑う顔は、日に焼けていた。毎日戸外で剣を振っているから、そのせいであろう。

「いやな、これほどまでに育つと、花も見事なものになるものだ」

「たしかに。日頃は目に止めぬものでも、これほどになるとまた違うように見えるものですな」

「まるで、まつりごとや国のことのようだ」

 と笑い、男は立ち去ろうとした。

 これが、高市皇子たけちのみこ。吉野にある大海人の一党に同調的であり、この度のことについて連絡を付けようとしていた男である。

「お待ちを、皇子」

 先程から会話をしている男の名は、わからない。高市も、あまり見ぬ顔であると思っている。しかし装束はきちんとした官のものであるから、朝廷に仕えるどこぞの豪族の家の出の者なのだろうと思った。

「お召し出しにござります」

 お召し出し、というのは貴人が自分より下位の者を呼び出すときに用いる。この場合、誰がと特に指定していないから、流れ上それは指定の必要のない者すなわち天皇からであるということになる。しかし、天皇は今はいない。そう呼ぶべき正当な者は、ここより西の山科の山中に沓だけを残して消えたままである。

 それで、高市は自分に何が起きたのかを察した。

「──か」

 みなみのきみ、とは、吉野に引きこもっている大海人のことである。あえてそう言うことで、これからその使者とおぼしき目の前の男が話をしやすいようにしてやった。

「いかにも」

 それだけ言って、使者は眼を紫陽花に再びやった。高市は腕をこまねき、軽くため息のようなものを吐き出した。そうすると衣の上からでも分かるほどにその腕は太く、息を吸って吐くために上下した胸板は盛り上がった。

「──そなたがそう言うということは、南の君は、立たれるのか」

「いかにも。もとより、そのつもりでこの近江を離れられたものなれば」

「やはり、そうか」

 高市は、若い。若く、あの創業の歳月をその目で見ていないからこそ、大友が葛城の後継者となった近江のことを主に見ているからこそ、思う。人が人の上に立つというのは難しいものだ、と。


 大友を責めることは現代の我々にはできまい。そもそも、この国に今の我々が想像するような王であるとか総理大臣であるとか皇帝であるとかいう何かしらの形の国家元首がいた前例がないのだ。

 たとえば有名な卑弥呼や、そののちの大王と呼ばれる者など、人の上に立つ者は無論これまでにあったが、内外どちらにも向かう性質をもつ、いわば正負の走性を併せ持つ種類の国家はこの時点ではまだ完成していないのだから。

 誕生はしていると考えることはできるだろう。葛城が蘇我を倒したとき、いや、あるいはその更に前からすでに、我々の祖先は世界の中の我が国というものを強く意識してきた。しかし、蘇我以前のその姿は地を這って蠢く蟲でしかなく、蘇我がれそれをさなぎにした。

 葛城がしたこととは、その蛹を強く破ることである。国家というものを虫の類に例えるなら、それは完全変態である。幼虫から蛹を経て、幼虫のときとは全く異なる姿と性質を持つようになるものであろう。しかし今はまだ蛹を突き破ったままでその成虫は色が白くはねも乾かず、という状態である。

 これからの時間は、それをする時間になるものなのであろう。


 いや、話が逸れた。高市のことである。

「それで、南の君のもとへは、いつ」

 その目には、なにごとか強い決意の光があった。

「すぐに。そして、皇子は吉野へはゆかれませぬ」

「では、どこに」

「名張へ」

 すでに、ことはそこまで来ているということか、と高市はすぐに察した。そこまで、というのは何かしらの具体的な作戦行動をもって行動する、すなわち彼らの目的を達成する目算があるということである。

 世は、いまだ治まらぬ。王がいないのだ。今のところうまく吊るしているにしても唐との事情は日々変化しているし、いつなんどき大きな事があってもおかしくはない。このまま、大友が王になれば。そして、世が乱れれば。そうなれば、間違いなく唐は先の戦いでの倭国の非をふたたび鳴らし、国を奪おうとしてくるであろう。

 その前に、いよいよ国の姿を間違いなきものにせねば、と思った。大海人は、そのためにいちど近江から退いたのだ。近江にありながら政治的争いによって大友を葬り去ってそれが継ぐはずであったものを簒奪さんだつするのではなく、いちど手を引いた姿勢を見せて世の求めに応じて立ち上がり、武力でもって即座に大友のものを我が物にするという手段に出た。

 真っ先に、藤原史ふじわらのふひとという才知がそのまま姿形を持ったかのような少年の姿が思い出された。更に、瓜に目鼻を付けただけのような顔つきで起きているのか眠っているのか分からぬ目をした大海人の姿も。

 そして、はっとした。その背後に、獰猛な獣のような声を上げる様を伏して見上げたことしかない先帝の姿と、その傍らにあった史の父である藤原鎌の姿を見た。それをよく確かめようとして、やめた。ただの紫陽花であったからだ。

「すぐに。手勢は、五百。よいか」

「お急ぎめさるな。今は、まだ」

「どういうことだ」

「皇子が立たれるのは、世の声が煮えたとき」

 と、史の意を受けたものと思われる男は言う。名張は、大海人がその独力で我が物にする。いかに名張の地の動きがその特性上近江から察知されづらいとはいえ、さすがにそこを奪ったとなれば嫌でも近江に報せが入る。そして、距離は近い。気付けば自分の寝所に敵が入ってきていて、自分の首に刃物をあてがっているようなものである。その心理的衝撃を与えることがまず先決であると言う。

「そのとき、皇子には真っ先に立っていただきたい。真っ先に立ち、そのあとに続けて人が立ち上がるための、はじまりの狼煙ととなっていただきたい」

「南の君が立ち上がったことがまだ近江に知れる前にこちらが先に立ったのでは意味がない、か。たしかに承った」

 大海人が名張を陥落させたという報せがもたらされ、朝廷が揺れ動いたその瞬間、真っ先に立ち上がる。大海人こそが葛城の後継者に相応しいのではないかという声はやはり多い。朝廷が揺れたとき、知略、胆力ともに優れ、先帝が早くから目にかけてそのを授けた大海人に付きたい気持ちはあるが、実際に政を行なっているのは大友だからとして旗幟をあきらかにせぬ者も多いだろう。そういう日和見主義者どもは、文武ともに優れる若き才能の塊のような高市が真っ先に立ち上がって大海人に付くと立ち上がる姿を見て、我も我もとあとに続くことであろう。

 その旗頭に自分が選ばれたとして、高市はたいそう満足であった。そういう種類の顔をふと南西の方に向けると、そこにはやはりふだんは誰も目に止めぬ紫陽花が咲いていた。

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