傍らの妻

 藤原史ふじわらのふひとという若者は、古今稀に見る秀才である。齢十三ながらにして大陸の書を読みふけり、その父である鎌が遺した、我が国ではじめての明文化された法典も完全に頭に入れて理解している。

 鎌がそうであったように、史は特に大陸の軍書を好んで修めた。鎌がその死の前に、軍事のことで葛城の役に立ちたかった。と言い遺したことを知り、それを継ぐつもりでいるのかもしれない。

 大海人は、このその辺で棒切れでも振り回して遊んでいるような面をした少年が一丁前に冠をつけて難しい大陸の書や古の思想の話をするのを特に珍しがりも面白がりもせず、ただ一個の人間として彼の力量を買い、重用していた。


 時は流れる。その中で、多くの者が死んだ。正直、今近江にあってまつりごとをどうこうしている者の中で、あの創業の苦しみを知っている者は少なくなってきている。

 優れた改革者であること。優れた為政者であること。そういうものは、勝手には遺伝せぬものらしい。

唐土かの地がかつて三国に分かれて覇を競っていたとき、蜀国の丞相であった諸葛亮なる者は、我が子の平凡なことを見て、どうやら人の才というものはその一代限りのものであるらしい、と嘆息したそうです」

 と、いつであったか史が得意げな顔をして大海人に語ったことがある。おそらく、大友が近江にあって我こそが次の天皇であるとあちこちに必死で示しているさまを見てそう言ったものであろう。

「わたしは、先帝と共に我が国を建てた藤原鎌の子。だからこそ、人より多くを学び、父をも凌ぐ才を身につけ、それをこの世に己を問いたいのです」

 という気概を同時に示しもした。父があの鎌であるからといって何もせず自分の価値をそれが決めることはなく、ただ己の研鑽によってのみ己を示すことができる、という思考はただの渡来人の子でありもともと何者でもなかった大海人の気にいるところであったが、かといって大海人は史を褒め称えることはなく、

「──気負うな」

 と微笑わらうのみであった。

 ともかく、史はたいへんに明晰な頭脳を持って、なおかつそれを信じられぬほどの研鑽によって澄ませ、そしてあの雷獣の牙を受け継いだ数少ない人間の一人であった。それゆえ、大海人には史を使役するような感覚はなく、

「ともに、創る」

 ことができる者であると考え、信頼を寄せていた。


 大海人に呼ばれてやってきたその史が、燃えるような瞳で絹に描かれた地図を睨んでいる。やがてぱっと眼を上げ、

れます」

 と、まず結論を述べた。大海人は、なにも言わない。

「かねてより渡りをつけていた、あちこちの者。これを一挙に立たせ、覆い包むようにして東、そして南より近江みやこへ。もとより近江は、有事の際は東へと流れる手筈になっていますから、まず己の逃げる先が失われたと知れば、たいそうに狼狽うろたえましょう」

 それで、という眼を大海人が向けているのを見て取って、なお史は言葉を継ぐ。

「彼らが向かうべくは、西」

 と、大陸の兵書にある内容を引き、敵を包囲するときは退路を完全に塞いでしまえばかえって敵は死に物狂いになって手ひどい反抗をしてくる可能性が高まることを説く。

「大友皇子にくみしようという者を挫きさえすればよく、ただひた押しに押すだけでひとりでに近江は天皇オオキミの――」

 とやはり今の天皇に対して用いるべき呼称を用いて大海人を指し、

「――ものとなりましょう」

 と締めくくった。

「彼らとどう戦うかよりもまず、国を損なわぬこと。それを一にと考えるのだな」

 大海人の着眼点は、そういうところにある。作戦の派手さとか妙なることであるとかそういったことではなく、彼が教えを受けた先人達がそうであったように求めるべきものの本質をいつも見ようと心がけているのだ。葛城や鎌のあとを継ぐにはあまりにも器が小さいことを自認しているからこそ、つとめてそうあろうとしている。そういう意味で、この二人は似たところがあるのかもしれない。

「仰せの通り。なにを為すにも、まず人。そして土。人が戦いで死に、地が荒れ果てれば、戦いに勝ったとしても国は滅びましょう」

 猫と呼ばれた頃と変わらぬままの、薄い表情のまま大海人は頷いた。

「よし。お前の言う通りにしよう、史」

 史は嬉しそうに声をあげ、それを畏まった態度で押し殺し、勢い良く板敷きに額を付けた。

「それで、まずは?」

 傍らで微笑みながら聴いていた讃良が、声を上げた。史が得意げに作戦の骨になる部分を力説している間は飛鳥の法興寺の大仏のようになんでもない穏やかさのある顔で座していたものが、ひとたび言葉を発するとどういうわけか大風が吹いたような圧力があった。まずは、というだけの質問が、力説を終えてもうが成就したかのような高揚を感じていた史の頭を冷ました。

「まずは、とは。讃良どの」

「まずは、我が君は、この吉野を発ち、どこへ?」

「それは――」

 史は狼狽を悟られぬよう居住まいを正してから立ち上がり、広げられた絹に描かれた地図の一点で足を止めた。そこは、

「名張」

 という地であった。現代においても三重県名張市の名称がそのまま残っているが、大海人がこのときいた──現代の呼称を用いるならば──奈良県吉野町からは県道二五六号線を北上して国道一六五号線へと出、そのまま山を縫いながら北東にゆけば着く。現代において国道に指定されている道路は無論古くから交通に用いられていた道路で、この一六五号線に相当する街道も葛城の代のときに各地の交通を円滑にするという施策の一環として既に整備されており、その中継地点となる駅家という施設も置かれていた。

 この名張をさらに北に出れば伊賀盆地があり、それを越えればもう近江である。

 伊賀盆地をひとつ挟んだ名張という場所は、当座の拠点とするため距離としては申し分なく近く、東へも南へも──すなわち海──街道が伸びていて軍の進退に都合がよく、かつての都であった飛鳥からも東にすぐという立地であり、なおかつ伊賀盆地がよい目隠しになって行動を秘匿するのにちょうどよい。そこを即座に指定した史の慧眼に、大海人は内心舌を巻いた。

「なるほど。名張の地ならば、近江にも出やすくなりますものね」

 讃良はなにがおかしいのかくすくすと笑い、史の提案に同意した。史はややほっとした様子で、さらに続けて策を口に出す。

高市たけちどのに、今より働きかけまする」

 高市というのは、人の名である。近江にあった頃から大海人に同調的であったその者を使うと言う。史書によれば彼は大海人の長男であったとされるが、ここでは大海人は物語の進行の都合上、讃良との婚姻が初婚であることにしているから、その出自は問うまい。

 とにかく高市というのは近江に多くある葛城の血に連なる者の一人で、皇位をすぐさま継承するほどの出自にはないがそれなりの発言力を近江で持っているという者である。それに、若い。葛城が元号を定め、大化、白雉ときて結局立ち消えになったその白雉五年の生まれとされるから、このときまだ十八歳。武もでき、知もあるそれを、近江にありながら使うと言うのである。

「どのように」

 大海人は、讃良がなにやら執拗に史の作戦に箸を差し入れているように思い、

「兵のことは、史に任せることとした」

 と言ってそれを遮り、史に向かって深く頷いた。全て一任する、思うままにせよ、という意味である。それを受けた史はまた大げさに声を上げてこんどは絹布の上に拝跪はいきし、さっそく己の策の手配のために小屋をあとにした。


「史のこと、思うままにさせてやらぬか」

 二人になってから、大海人は讃良にぽつりと言った。

「ええ。それはもう。史ほどものの分かる者は、そうおりますまい」

 讃良は満面の笑みでそれに応じた。

「では、なぜお前は史の言うことについて、さらにものを訊ねるようなことを言うのだ。おれは、史が考えたことに従い、兵のことをする。その末に敗れたとしても、史を恨むつもりはない。どのみち、おれ一人ではどうすればよいのか分からぬのだから」

「大海人どのの、そういうところが、とてもかわいい」

「からかうな」

 くすくすと笑う讃良がだんだんかつて強く想った芦那に見えてきて、大海人は猫になって眼を逸らした。

「史ほど頭のよい者はおりますまい。史の考えることは、百のうち一つも外れることはないでしょう」

「ならば、よいではないか」

「だからこそ、です」

 粗末な麻の衣の袖を、白い手がついと引いた。

「史は頭がよい。すべて己の頭の中でものを見、建て、為すことができてしまう。それゆえ、少しうるさい者が目の上にいると思い続けることで、をせずしっかりとこの度のことが成るよう努めるでしょう」

「それは」

 史を信頼せぬということである。少なくとも、大海人の理屈ではそうなる。

「もし、史が近江に連なっていれば」

「史が、近江に――」

「高市どのは、近江にありながら、吉野のことをする。それならば、この吉野にありながら近江のことをする者があっても、おかしくはありますまい」

「史が、そうだと言うのか」

「まさか。しかし、史はいつも言うではありませぬか」

 考えつく限りの中で最悪の場合をいつも想定し、計画を練る。そうしてはじめて、順当にものごとは進行するものだ、と大陸の書にはある、と。

「讃良。お前という女は」

「あら」

 讃良が、驚いたような顔をした。

「大海人どのは、ほんとうに今のままで、近江がその手に入るとお思い?わが父や鎌どのが、あなたのような様でいて蘇我を滅ぼし、血を受けた母を殺し、唐を相手に兵のことができたとお思い?」

「それは」

 違う。自分は、あの時代を喰らい、破った獣ではなくなったのだ。

「父は言いました。光であると。国とは、人が歩むべきものを指し示す光であると。そして、その生の全てを使い、それが並ならぬことであることを示しました。あなたは、その父のあとに続き、今のようでいて父の求めたものをほんとうに成せると?」

 言葉こそ激烈であるが、その手は弱々しく大海人の袖を握り、困ったように眉を下げ、懇願にも似た口調でそう言うのである。大海人はなにがなんだか分からぬようになり、

「お前の言うことも、理ではある」

 と同調した。そうすると讃良はぱっと笑みを咲かせ、

「史ではありません。あなたが、王になるのです」

 と甘い香りのする吐息と共に言った。

 なにやら押し流されたようであるが、讃良の言うことは実際間違ってはいない。己が新たな世の柱たらんとするならば、今のようなものの見方では到底足りぬ。

 ふたたび獣になるつもりはない。しかし、あの目が、牙が、爪が欲しいと思った。それを人として使いたいと思った。

 それをより濃く継いでいるのは、自分よりもこの妻なのだとも思った。

 それならば、それをも光とし、人を導く王となるまで。

 重ねて彼は思う。喰らい、吠えるだけなら、獣でもできるのだから、と。

 無論、染み透るように笑っている傍らの妻には、そのことは言わない。

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