霧と血

 大海人には、思うところがある。思うところがなければ、近江を退いて吉野に引きこもったりはせぬ。で王の座をくれてやるほど、彼は穏やかではない。

 だが、ほんとうに自分なのかという思いは拭えない。葛城がその姿を消した──おそらく死んだ──あとも、なぜ自分が、という思いがずっと付きまとっている。

 なぜ、葛城は大友を後継者に指名したのか。なぜ、そうでありながら自分に讃良を娶らせたのか。そして、なぜ讃良が葛城と芦那の子であることを明かしたのか。

 葛城の弟となったそのときから、こういう日が来ることは分かっていた。我が子が凡愚であったとき、お前はそれを滅ぼしてでも王を継げと葛城にじきじきに言いつけられていたからである。

 だが、葛城と鎌が自らのおらぬようになった後のことも周到に準備を重ね、そしていざが来ても、大海人の頭の中にあるのは、なぜ、という思いであった。

 むろん、やる。このまま吉野に引きこもったままその生を終えたのでは、彼は猫として名と意味を与えられた生そのものを否定することになる。

 だから、やるのだ。

 しかし、なぜ自分が。そういう葛藤を笑うように、吉野の雨は続いている。


 ふひとが若さのあまり逸るのを窘め、大層なことを言っても、やはりその心の中はこの雨をもたらす空と同じ色である。

 吉野に随行してきた者は多い。讃良、史をはじめとし、朝廷にあった者のうちから百を超える人間が従っている。その中には、あちこちの豪族と連絡を密に行う者も多く混じっている。

 それらは吉野に入ってすぐ、各地の豪族に連絡を取り始めた。に対する備えというわけである。

 地理的なことを言うと、主に伊勢、伊賀、熊野、それに美濃の豪族が主であった。地図上を指差してみると、それらは葛城が外敵の侵攻がはなはだしい際の撤退先として指定した近江国のうちの鳰の海琵琶湖の東側一帯を半円でもって取り囲むようにして点在している。

 それを使って、何をするのか。問われるまでもなく、分かりきったこと。それゆえ史は逸り、讃良も実行者としての自分を応援し、自分は葛藤に苛まれるのだ。


「大海人どの」

 と、讃良はこの吉野の隠者を呼ぶ。猫、であった頃からすれば、随分な出世である。かつては口数が少なく、何を考えているのかよく分からぬ娘であった。それがいつの頃からかよく気のつくようになり、はっきりとものを言うようになった。そうすると、ほんとうに父親そっくりであった。

 そして、この貴人は、いつも猫を上から見下ろすようにして接していた。奴婢の渡来人の子と、の娘であるから、当たり前である。それがこのところ、大海人を一人の人間として認識しているような様子がしばしば見えるようになっている。

 この当時、夫の地位は妻よりも必ずしも高いとは限らない。男性優位の風潮が強くなるのはもっと後のことで、それが特に顕著になるのはわが国において儒教、それに付随する朱子学の浸透を待たねばならない。だから、讃良は、大海人の妻となってからも、相変わらずの様子であった。

 それが、このところしおらしい。

 ――抱き、みめになったからか。

 と大海人は単純に思うことにしているが、それだけ大海人がひとかどの人間になろうとしているのが分かるのかもしれない。

「なにを考えているのか、分からぬ」

 という人物評は、なにも大海人が幼い頃の讃良を見て下したものだけではなく、その讃良自身もかつて大海人にそう言ったことがある。分からぬのがお互い様なら、抱き、抱かれした間柄というのが二人の距離を縮めたということがあるのだろう。

「大海人どの」

 と讃良が呼ぶその視線と声の色からも、それが窺い知れる。ん、という眼をそれに返してやり、言葉を待った。この癖は葛城の前で板敷に額を擦り付けていた頃から変わらない。

「もう、発つのですか」

 春の雨が、続いている。それが途切れる頃、発つ。讃良は、なぜかそう思っているらしい。葛城が消えたのが、この年の正月過ぎ。大海人はそれと入れ違うようにして近江を離れているから、ここに来てもう半年近くが経っていることになる。

 このような人里離れた山の奥深くの薄汚い小屋に隠棲していても、近江のことは逐一報せを受けられるようになっている。と言うより、近江にありながら勝手に大海人に渡りを付けてくる者がいるのだ。

 ――大海人どのは、争いを嫌い、自ら身を退かれた。ものの道理をよくわきまえた方だ。

 と彼を評する者が最も多く、それが、

 ――だからこそ、あのお方こそが次の天皇オオキミに相応しい。

 という声が一部で上がっている。そして、

 ――あのお方は吉野にありながら、大友皇子おおとものみこまつりごとでは世はまとまらぬと思い定めておられる。ゆえに、必ず立たれる。

 という者が現れはじめている。そういう者どもが早くから大海人のたすけ、あらたな世となったときにできるだけその中心に自らの身を置くことができるようにと大海人に渡りを付けはじめているのだ。

 葛城は、時というものが流れるものであるということを知らしめた。そうであるならば、時というのは大海人が思っていたよりも遥かに速く流れるものであるらしい。

 いや、わずか半年という時の中で、これほどにあちこちから自分に渡りを付けようとする者が現れるということに驚きを禁じ得ないわけであるから、速いのは時の流れる様ではなく目端の利く者の心の移りようであると言えるだろう。


 近江のこと。

 それを取り巻くように位置する各地の豪族。

 そして、地理。かつて都であった飛鳥より持って来させた絹布に史が描いた地図が、いつも目の前に。

 北、南、西、東。この半年で、この天地は無限に続くのではなく、こうして形があるのだということを改めて知った。その限りあるものを統べ、限りある中で人が生きられるようにせねばならない。

 限りあると言えば、時間。鎌は老いて死んだ。芦那は病んで死んだ。葛城も、壮健であった頃はまさか彼がこの世から消えるようなことがあろうとは誰も思わなかった。どのような形であれ、人は必ず死ぬ。

 限りがあるのだ。それを、葛城は大海人に教えた。それを知るのは、獣ではなく、人。ゆえに、正しく統べなければ、人はその限りある生を野の獣のようにただ使ってしまう。

 ここから、大海人の思考は若葉が脈を描くように、具体的なところへと分かれてゆく。

 そのような姿を見れば、唐はまたいつ一挙して兵を起こし、この豊かな国を我が物にしようとするか分からぬ。今のところ白村江の後処理も上手くいっており、互いに使節を取り交わすくらいにはていられているが、かつてのように遣唐使を派遣し、広く交易を行うほどには至っていない。そんな中で隙を見せれば、それこそ飢えた獣のように彼らは牙を剥き出しにして熱い涎をこの国土に振り撒いてくるだろう。

 だから、国というのは、強くあらねばならない。なんとなく産まれ、なんとなく生きるために日々を過ごすなら、獣でもできる。人なればこそ為すことができること。それを求め、叶えるのだ。

 だから、今近江にある。日々移ろうあちこちの豪族の動向や租庸調のこと、唐や新羅のことに泡を吹きそうになりながら、周囲を叱咤して対応している。どう考えても、器ではない。だから、今ここにいる。ここにいて一見世から退いたように見せ、それを俯瞰している。いや、世に大友の姿を見せ付けていると言った方が正しいか。


「まだ、発たぬ」

 讃良の問いに、ようやく答えてやることができた。

「しかし、もうすぐだ」

 それを聞いた讃良は、染み透るような微笑を向け、

「もうすぐ、成るのですね」

 と言った。

「成るかどうかは、分からぬ。おれ一人の世では、やはり成らぬかもしれぬ」

「そのときは――」

 ときどき、はっとするほど鮮やかな表情を、讃良は浮かべる。それを見ると、やはり大海人は猫のときのように飛び下がって平伏したくなる。

「――わたしがいる。史もいる。わたしたちには、あなたよりも多くの時がある」

 やはり、葛城の娘である。実際、讃良は葛城が蘇我を打ち倒したあの年に産まれたから大海人よりも十あまり歳が若いし、史に至ってはこのときまだ十三で、冠を付けるのもまだ早いと言われてもおかしくないほどの歳である。なるほど、万一大海人が志半ばでたおれるようなことがあったとしても、彼らがその跡を引き継ぐことができるだろう。しかし、

「だから、安心して死んでください」

 ともなく言ってのけるあたり、このみずみずしい肌と美しい眉を持つ女は、雷電を纏ったあの獣の娘であった。

「おれは、再び近江に戻るつもりだ」

 はっきりと、それに向かって言い切ってやった。

「しかし、どのようにして戻るか。そのことばかりを思っている」

 葛城と鎌の意を察して引き篭ったはいいが、実際どのようにして彼らから受け継いだ――と大海人は信じている――ものを実現するのか、そのよりよい手段が思い付かぬ。これまでのように、誰かが自分にこうせよ、ああせよ、と命を下すわけではないのだ。

 ぼんやりとした、それでいて激しい熱を持ったものが自らの内にある。その存在に気付いたとき、大海人はただの獣であることをやめた。あの獣どもが獣のようにして喰らい、破ったものを、自分は人として創り上げなければならぬと思うからだ。そのための、足がかり。それを、求めた。

「あちこちにいる豪族どもとは、まだ渡りを?」

 讃良が、こんどは母譲りの声色になって大海人の心に腕を差し入れた。

「ああ。幸い、同心してくれる者が多いらしい」

「まあ」

 こういうときに大げさに感心して見せるところも、そっくりであった。

「では、案外早く事は成るのですね」

「なぜ、そう思うのだ」

「だって」

 そこまで聞いて、芦那にも葛城にも似ぬ、彼女だけの色の声と表情かおが通り過ぎたのを見た。

「兵のことをするのでしょう?」

 兵のこと、というのは、戦いのことである。

「あちこちで心を同じくする者が多くいるなら、それを立たせ、それらでもって近江を揉み潰す。かんたんね」

 この女、と大海人は思った。おそろしいことを、桑の実でもぐほどの気安さで言う。

「なにを驚くの、大海人どの」

「驚くと言うが――」

「どのみち」

 雨が、ふと止んだ。それに取って代わるように、遠雷。山深いと、それに霧も加わることがある。

「どのみち、滅ぼすのです」

 だから、一息に兵を挙げてしまえ、と讃良は言う。

「それしか、ないのだろうか」

「兵に依らず、近江を奪うおつもりでしたの?」

「いや、奪うなどと」

 からからと、讃良が笑った。なぜ笑うのか、大海人には分からなかった。

「我が父のため、こころを持たぬようにして一人を殺めることができる猫が、国のため万を殺めることを躊躇う大海人どのになられた」

 というのがおかしいらしく、いつまでも声を上げて笑うものだから、大海人はだんだん腹が立ってきて、ついには緩んだ板敷を蹴って立ち上がった。

「史を呼べ」

 そして絹布に描かれた地図の中央に立ち、すっと目を閉じた。

 雨がもたらす霧が、肌に流れ付いているらしい。そうすると、かっとなった頭が、一気に冷えてゆく。

 やるのだ。

 あの沓を履く、自らのあとに続くあらゆる王のため。そして、それに続く無数の人のため。そのための血贄となるため、大友は今近江にある。王とは、立つべくして立つもの。ただ王であるから尊いのではなく、尊かるべくして尊いものなのだ。

 それを、人は知るのだ。限りある時の中で、限りある天地に生き、そこで安寧を得ることを与えることができる者こそが、王。生まれながらにしてそうであるのではなく、自分達が拓いた道を歩むことで、あとに続く王がそうあることができる。

 それを、成す。斃れたとしても、讃良がいる。史もいる。未だ産まれぬ、無数の人がいる。それが、必ず成す。

 史がやってくる足音がして、目を開いた。そうすると、柱と屋根だけの建屋から広がる視界を霞ませる霧が、真っ赤に染まっていた。雨が上がり、谷向こうの山に隠れようとする陽が今さらのように顔を覗かせていて、それが霧を空と同じ色に染めているためであった。

 やるのだ。

 どのみち、滅ぼすのだから。力を得、それを降るってひととき世を血で染めることなど、なにほどのことでもない。どうせ夜になれば、全て黒で塗り潰される。そうして少しの時を経れば、また何事もなかったかのように朝は来るのだから。

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