近江国おうみのくにに、新たな都が完成した。四年をかけて造営されたこの大規模な事業は、人々にとって希望の象徴となった。外敵を意識し、より内陸に。九州、中国地方沿岸に置いた防衛のための城塞も機能を始め、守りは磐石である。さらに、もしそれらのことごとくが打ち破られ、いよいよ外敵が都に迫ろうとするならば、都の機能ごと船でもって鳰の海琵琶湖を渡ってしまえば、また再起できる。侵攻軍は無論船で攻めてくるが、この内陸の巨大な湖において浮かべられるのは、もともとそこで造られた船のみなのである。

 全てが、完璧であった。戸籍も新たにし、百官の者の冠位についても細かく修正を加えた。あとは、鎌の言う法典が完成すれば、ひとまず遷都は落ち着いたということになる。

 昔は、よく都を遷した。この物語が始まってからでも飛鳥、難波、また飛鳥、筑紫、戻って飛鳥、大津と遷っている。その度に大規模な土木事業が必要となり、その多くは後の世とは違ってだったから、それが多くなるほど民の不満は募る。しかし、この大津の都の造営のときばかりは、誰もが嬉々として働いた。


 習慣のようにしてそれを眺める葛城が、ある土運びの男に声をかけたことがある。

「おい」

 男は葛城がまさかこの国で最高の権力を持つ王その人であるとは思わぬが、その身なりからしてたいそうな貴人であると見て、土篭を置いて辞を低くした。

「精が出るな」

「はい、そりゃあ、もう」

「土を運ぶのが、それほど楽しいか」

 葛城は、嬉しく思いながら苦笑した。

「ええ。嬉しゅうございます。私の運んだ土が、この国を守る都を造るために使われるのですから」

 男は日に焼けた肌から白い歯を見せて笑い、また汗を流しながら土を運んでいった。

 これまで民とは、ただそこに存在し、生きるのみのものであった。彼らからすれば国というものの存在などあってもなくてもどうでもよく、偉い人が決まりを作ったらしいから従うように、と暮らす村などの父老ふろう(顔役のこと)などから言い聞かされ、そういうものか、と思っていたに過ぎない。

 しかし、葛城がこの国の実権を握るようになってから、徐々に民は国家というものをその目で見、その肌で感じるようになり、いよいよ彼が王となってからさらにそれは加速した。

 わずか数年の間で、彼らは時間というものが天地の間に流れていることを知り、国とは一人の偉い誰かが統べるものではなく、人が寄り集まって作った秩序や規範が統べるものなのだということを知った。そして、法の前には王もまた一個の人として従わねばならず、その意味で王も百官もまつりごとを為す者にしか過ぎぬのだということをも知った。

 だから、彼らは、国のことをわが事として考えることができた。それが、葛城が話した男の言葉と笑顔と汗になって表れている。


 葛城が先王を人知れず葬り去り、王となってから、はや六年。彼はもう既に四十一歳となっており、十二歳上の鎌は五十三歳。はじめ唐を滅ぼすつもりが、これだけの時間をかけて守りを固めることとなった。

 歴史には、しばしばこういうことがある。ある事象が発生したことにより、かえって本来向くべき方に人が向いたり、あるいは全く別の方向へとその運動が加速させられたりする。

 たとえば筆者の好きな幕末の時代において有名な事件として新撰組が討幕派の浪士の会合の場に乗り込んで七名を即死させ、二十数名を捕縛した池田屋事件があるが、ある説によるとそれがために討幕派は有力な活動家の多くを失い、朝廷や京の政局においても立場を失ったため、明治維新が大きく遅れたとされ、また別の説においては、その逆境なくして討幕派はほんとうに幕府を倒すためにその力を爆発させることはなく、永遠に維新は来なかったとされる。

 この時代における白村江の敗戦も、それに似ているように思う。負けたからこそ、彼らは国家としてまとまり、自立の道を歩む歩幅を広げたと見ることができるのだ。


 人を統べるのは、まず、法。

 鎌は、大津の都が完成しても、ずっと自室に篭りきりになり、それをしたためている。のちに近江令と呼ばれる、わが国最初の明文化された法典である。学説によれば実在せぬという話もあるらしいが、ここでは鎌がそれを手がけたものとする。

 この時代、まだ紙というものはないから、鎌は竹簡にそれを書き連ねている。

「どうだ、鎌」

 葛城が、それを覗き込む。

「まだまだ、終わりませぬな」

 鎌がほとんど真っ白になってしまった頭を振り返らせ、皺の深くなった顔を向け、笑った。

「見事な藤だな」

 葛城は、法典のこととは関係のない話題を向けた。

「ええ、よく咲いておりまする」

「お前、藤が好きであったか」

 この新しい都の鎌の屋敷の自室からは、よく手入れされた藤の花がずらりと並んで咲いているのが見える。

「藤は、よい色にござりますれば」

 この当時の人の感覚として、紫というのは高貴な色である。中流の豪族である中臣氏から身を起こし、最高位にまで上り詰めた鎌らしい好みである。こういう露骨なところも、葛城は嫌いではない。

 葛城が思うに、葛城は時間の流れと共に、はじめただの獣のようにして蘇我を憎み、自らが蔑まれることに怒るのみであったものが、知恵を付け、王として大きく成長し、人の見ぬものを見、人のせぬことをし、人の歩かぬ道を拓く者となっている。

 しかし、それを助け続けてきた鎌は、徹頭徹尾変わらず鎌のままであった。ただ己の才と知をこの世に現出させることだけが喜びというような種類のこの男は、欲に溺れることなく、ただ澄み切った目で世を見、人とは、王とは、そして国とは、というようなことを考え、為し続けている。

「この鎌は、すっかり老いてしまいました」

 筆を置き、腰が辛そうにした。

「それは、いい。鎌が、爺になるとはな」

「お戯れを」

 二人が笑うその間に、藤の香りの風がひとつ吹いた。

「しかし、為遂しとげまする。この鎌の命数が尽きる前に」

 置いた筆をまた手に取り、竹簡に向かった。

「鎌」

 葛城は、また妙な顔をした。それを、鎌が顧みることはない。自らが愛し、育ててきた王その人よりも、今はその王が拓き、後に続く人が歩くであろう道の方が大事とでも言わんばかりに。

「そんなことを、言うな。前にも、そう言ったはずだ」

「そうでしたかな」

 鎌は、背中でとぼけた。

「なにせ、爺になったものなれば。物忘れも致しましょう」

 冗談を言っている。鎌に限り、物忘れなど、あるものか。

「太子」

 いつまでたっても太子のままのこののような男に、鎌は背中で笑いかけた。

「都も成りました。そろそろ、即位のことも」

「即位、か」

 天皇になるということである。

 長かった。

 鎌が葛城と出会ってから、二十五年。蘇我を打ち倒してから、二十三年である。なろうと思えばいつでも天皇になれたにも関わらず、ずっとそれをせずのままでいたのは、形だけの王ではなく、ほんとうの王になるため。それが立つべき土壌や地盤を作るのに、それだけの時間がかかった。人一人の力でそれができるほど容易いものではないから、創業の重臣の力も借りた。人心を自らに集めるため、自らの血に連なる兄弟や甥ですらも殺した。そして、自らの母までも。

 彼らを喰らい、破ったその先に続く道なき道を鎌の履かせたくつでもって歩み、拓き、ようやく、葛城は天皇になるのだ。

「このぶんでは、その法典が完成するよりも先に、俺が天皇になってしまうな」

 鎌は、葛城の言う意味が分かった。

 ――俺は、いよいよ天皇になる。俺を作ったのは、お前だ。だから、せめてそれを見届けるまでは、死ぬことは許さん。

 そういうことである。


 葛城の即位の準備は滞りなく勧められ、翌年、葛城は天皇となった。今までならば鎌が陣頭に立ち、それを取り仕切りそうなものであるが、このときは猫や讃良、伊賀などが中心となってそれを取り仕切って手伝い、その間、鎌はずっと同じように自室に閉じこもって法典を作ることに没頭していた。

 葛城と鎌が上の会話をした同じ藤が咲く頃には、鎌の部屋は書き直して打ち捨てた竹簡などで足の踏み場もないほどの有様になっていた。

 即位の日は、さすがに鎌も外に出た。何日ぶり、いや、何ヶ月ぶりのことか、自分でも分からぬほどであった。

「よく、咲いておる」

 風に揺れる藤が、目を洗った。

ふひと

 葛城も舌を巻いた我が子に、声をかけた。

「――ゆくぞ」

 後ろから付き従う史を顧みることなく、鎌はあたらしい太極殿へと足を向けた。

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