死を受け、それを継ぐ

 鎌には、子がいる。ひとりは真人まひとといって葛城が蘇我を滅ぼしたあの事変の二年前に生まれているが、どういうわけかこれを出家させて定恵じょうけいと名乗らせ、唐との行き来をさせていた。物語のこの時点では唐に滞在したまま情勢不安のため帰国できぬままとなっていたが、それが白村江の敗戦を受けて交わされた取り決めにより、ようやく帰国することができた。

 白村江の戦いの後、倭国と唐の間に結ばれた取り決めというのは、概ね、大海人が思った通りになった。

「先の戦いは、百済への旧来の友誼にもとづき、兵を発した。しかし、ものごとの契機を作った豊璋は問題を起こしてどこかに逃げ去った以上、これ以上我々と貴国が矛を交える理由がない。我々はあなた方の厚恩を忘れて戦いに参じたことを深く悔いている。よって、今後は未来永劫、こまめにあなた方の国へ我々の使いをやり、我々に二心のないことを証し、そのたびにあなた方の欲しがる財物を贈る」

 というものである。唐としてはこの時点ではまだ半島の統一は完全ではなく、すぐに倭国をどうこうするというつもりはなかったから、それに応じた。ひとつには、倭国の神経を逆撫でしてあの激しき獣のような兵どもがふたたび海を渡り、国家の存亡をかけるようなつもりで戦いを挑んでくるのを恐れた。

 唐においてもまた、倭国の成長について様々な意見があったらしい。

「危険だ。早々に叩き潰しておくべきだ」

 というような意見や、

「いや、たかが海向こうの小国。ずっと長らく我らに臣従を誓ってきた彼らが、いきなり我らに背くようなことはあるまい」

 と楽観する向き、他には、

「倭国の言うことには明らかな後ろ暗さがある。しかし、万一のことがあっても、あの半島を前線としておけば、どのみち彼らは攻めては来れぬし、むしろあの半島から我らがいつ兵を繰り出すのかということに怯え続けることになるだろう。いかに、腹の中が煮える思いであったとしても、彼らが我らに背くことはそもそも無理なのだから、半島のことが落ち着くまで、放っておけばよろしい」

 という冷静な意見が入り乱れた。それを知ってか知らずか、倭国へ戦後処理のため人をやり、それを歓待して使者を付けて送り返す一連のやり取りの中で、敗戦国であるはずの倭国は、を付け足した。

「今後、かつて任那みまなであった領土はもちろん、百済の地のことにおいても、倭国はいっさい干渉しない。その代わりに、そちらに取り残された兵や役人、その他の一切の倭国人を、できるだけ早く返してほしい」

 というものである。唐の中には、負けたくせに文句を付けてくるとは何事だと激怒した者もいたろうが、それに倭国側は、

「争いとは、人がもたらすもの。あなた方の領土に我々の人がいないということが、我々が今後あなた方の所有する土の上で武器を握ることはないという何よりの証になる」

 と説明した。なんとなく、脅すような空気があるような気がしないでもない。唐ともあろうものが、それを受け入れた。

 結局、倭国は敗戦をしておきながら、表面的な恭順を約束してこれまで通りの朝使を遣わし現代で言うところの賠償金を支払い続けることを約束しただけで、領土を割譲することもなく戦後の処理を終え、なおかつ捕虜の回収の約束まで取り付けた。

 そういう経緯で戻ってきたのが、鎌の長子である定恵である。

 これに、鎌はこれからの外交のことを全て担わせて唐との微妙な距離感を保ち、ほんとうは倭国が唐に臣従する気などさらさらないことを秘匿し、なおかつ唐が気付いたときにはもう倭国に手が付けられぬほどに力を伸ばすための猶予を作ることを任せようとした。

 しかし、それが、帰国後間もなく死んでしまった。

 久しぶりの再会を喜び、これから更に大きな役目を任せようとしていた矢先、長子を亡くしてしまったわけであるから、鎌は悲しんでいるだろうと思い、飛鳥宮の自室に籠ったままの彼を葛城は訪ねた。


 当時まだ部屋を区切るための戸や襖というものが無かったため、廊下を曲がってくる気配でその来訪を知った鎌は、葛城が思っているほどに落胆はしていなかった。

「太子。いかがなされました」

「いや、この数日顔を見せぬので、どうしておるかと思ったのだ」

 葛城は四十を超え、鎌も五十になっている。旧来の付き合いの二人ならではの呼吸というものがあるらしく、鎌はなぜ葛城が自分を訪ねてきたのかを知り、

「子なら、代わりはおりまする」

 と、平然と言ってのけた。

「しかし」

 葛城にも、肉親への情くらいはある。これから大いなる仕事を任せようと思っていた長子が死に、悲しくないはずがないと思ったのだ。

「芦那さまのこと、もうよいのですか」

 鎌の方から、そのことに触れた。葛城が最も愛し、頼りにしていた最大の理解者を失ったことに対してわりあい恬淡としていられることこそ、鎌は意外であった。

「よいもなにも、ない」

 葛城はそう言い、多くは語らなかった。

 筆者もまた、意外な思いである。葛城の性格ならば地に転がって泣き叫び、芦那の死を悲しみそうなものであるが、彼は黙々と彼女の死を見送り、そのあとも平然と過ごしている。いったい、どういう心境であるのか、理解に苦しむ。

 だが、想像するに、葛城は、それだけ芦那を一個の人格として認め、尊重し、たいせつにしていたのではなかろうか。彼は、長年に渡って自分という王を作ってきたのは他ならぬ芦那であると理解している。そして、芦名自身がそれこそが自らの生の唯一の目的であったと思っていたことも知っている。

 おそらく、芦那は、葛城が自分たちの母をも喰らったとき、長年に渡って求めてきたものが完成しつつあるのを知ったのであろう。そして、唐を打ち滅ぼした先に自分たちの求める国があるとして外征に乗り出し、破れてなお未来に光を見出す葛城の姿を見て、確信したのだろう。

 だから、自分自身が死に対して何の抵抗も示さずに受け入れてゆく姿を最愛の兄に見せることができたのだ。

「いつも、そばにいる」

 あの別れの言葉のような一言は、もしかすると、

「王となり、わたしの役割は終わった。あとは、ただあにさまのそばにいて、ずっと長く暮らしてゆきたい」

 と思っていながらにして、それを言えなかった芦那がたった一つ示した、せめてもの抵抗であったのかもしれない。

 思った通りのことを口にしてしまえば、葛城は、ずっと共におれ、死ぬな、と言ってしまっていたかもしれない。そうすると、避けられぬ自分の死を受けた葛城は悲しみ、嘆くだろう。

「お前のおらぬこの世になど、何の意味がある」

 そう、思ってしまっていたかもしれぬ。思えば、それがほんとうになる。葛城とは、そういう男なのだ。

 葛城を王にするためだけに生まれてきた自分が死に、朽ち果てたあとも、葛城という王は続く。葛城という王が死に、この天地の間から消えたあとも、それが敷いた道は、その先へと向かって永遠に続いてゆく。

 芦那が自らに課した最後の役目は、それを自らの死ごときで止めることがないようにすることであった。

 このあとに続く道のため。そこを歩む、まだ産まれもせぬ全ての人のため。

 葛城と彼女の間には、子はないままであった。そういうことになっていた。実の兄妹であるから、子などできてしまえば何かと具合が悪いから、ちょうどよかったのかもしれぬ。

 だが、葛城と彼女が産み、育てたものは、たしかにこの地上に息吹き、育っている。

 葛城には、それを放棄することはできぬのだ。

 だから、芦那は死に、葛城は生きた。

 どこまでも、葛城という男を作るものである。どうやら葛城は、芦那にはとうてい敵わぬものらしい。


、まだお伏せになられるおつもりですか」

 鎌が、葛城が芦那のことを思い出しているのを察し、問いかけた。

「言うな」

 葛城は、端的に答えた。

「では、言わぬことに致します」

「そうしてくれ」

 なぜか、悲しげに笑った。

「鎌。あれが、あのことを知れば、どうなる」

 昔のように、この頭脳の塊のような男に、意見を求めた。

「分かりませぬ。人の、心のうちのことゆえ」

 と、この国で最初の、ほんとうの王の参謀は答えた。

「そうか」

 葛城は、力なく笑った。

「しかし、想像することはできます。どなたに似たのか、はげしきご気性。きっと、己がことを受け入れ、その上で、力強く歩んでゆかれることと思います。どちらにしろ、悪いことにはならぬとは思います」

「しかし」

 可哀想ではないか。あれには、選ばせてやりたいのだ。

 そう葛城が言おうとしたとき、足音がしたものだから、口にはできなかった。

「父上。お召しに応じ、参じました」

 現代で言うところの戸の代わりのようにして使う、よしなどで作ったの向こうで、声がかかる。近江の都の造営はまだ途中であり、山を拓き湖への道を通したり、大規模な事業になっている。その過程で、におの海(琵琶湖)の湖岸に群生しているこういった水生植物を刈り取ることが多く、それを利用したものである。

ふひとか」

 鎌が、簾の向こうの人影に声をかける。史というのは鎌の次男で、葛城も赤子の頃抱いてやったことがある。記憶を辿れば、彼が産まれたのは葛城母が死んだほんの数年前のことであるから、まだ十にもならぬ子供のはずである。

 それが、大人同様の物言いをして簾をめくり上げ、静々と入ってくるのには葛城も面食らったが、

「史。大きくなった」

 と笑いかけてやっても、応じて笑い返したりすることなく、ただ板敷に片膝をついてこうべを垂れ、

「これは、太子。わが父のみの召し出しとあり、気軽に参じましたが、太子がおられると分かっておりますれば、もう少し装束なども改めさせましたものを」

 と機転の効いた挨拶をしたのには仰天した。

「お前、幾つになる」

「は。六になりまする」

 産まれてからまだそれほど時の経たぬ人間が、これほどまで達者な物言いをすることもあるのか、と葛城はたいへん興味深く思った。しかしそれを言えば史を子供扱いすることになると思い、やめた。

「史。気にせずともよい。もともと、お前と二人で話すために呼び出したのだが、たまたま太子がやって来られたのだ」

 六歳の子の父にしては年老いている鎌が、穏やかに笑った。その顔のまま葛城の方を向き直り、

「いえ、なに。定恵のあとを、この史に任せようと思いましてな」

 と言った。鎌にも無論複数の妻があるが、彼は政務に忙しく、色より政という気質の男であるから、歳のわりに子が少ない。死んだ定恵の次の子となれば、この史になるのだ。まさか六歳の子に外交役を任せることはできぬから、鎌は、もっと先、史が長じたあかつきには、父の業を継ぎ、王をたすけよ、と言い含めておくだけのつもりであった。それを、

「定恵のをして、余りある才を持つ子でありますれば」

 と説明した。なるほど、葛城から見ても史には天性の才がある。これほど賢い子など見たことがなく、たとえば葛城の嫡子である伊賀など、彼から見たら未だに凡愚である。

 鎌がこの数日考えていたことというのは、のことであるらしい。この、国創りを唯一の生きがいのようにしている男の頭の中はいったいどうなっているのか、我が子の死よりも、その先にあるこの国の将来のことで一杯であるらしい。

 いや、鎌もまた、もしかすると定恵の死を悲しんだのかもしれぬ。その上で、葛城がそれをしたように受け入れ、先のことに光を見出しているのかもしれぬ。

「鎌。なにを、考えている」

 それを悟った葛城が、目の影を深くした。

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