第八章 うつりゆくもの

ともにある

 飛鳥に戻った葛城らは、都を遷すことに忙しい。九州や中国においては、先に述べた大陸式の防衛用の城塞の建造が進んでいる。

 誰にも触れられぬ国。それを求め、拠るべき場所として、近江の都は造られる。

「だいぶ、進んだ。来年か再来年くらいには、遷れるだろう」

 葛城は板敷きの上にごろりと横になり、芦那に笑いかけた。

「また、今日も土運びの者の指揮を?」

 芦那が、泥まみれ、埃まみれの葛城の姿を見て、くすくすと笑った。

「寝ておれ」

 身を起こそうとしたのを、葛城が優しく制する。芦那は、べつに逆らいもしない。

「彼らを見るのが、好きなのだ」

 この国の王でありながら、近江へと向かう土運びの列や、伐り出した材木を運び出してくる者の列を眺め、激励することを頻繁にしている。彼らは、汚れた格好をしているが、一様に目をきらきらと輝かせて仕事をしていた。それを見ていると、あの敗戦が嘘のように思える。

 何度か、都が造られる現場に赴きもした。そこには百済からやってきた遺民がたくさんいて、大陸式の街づくりや、効率のよい建物の建造方法、土の運搬方法などを教えていた。そこに、倭人も百済人もなかった。あるのは、ただ、未来ゆくさき、それぞれが造ったまことの国で暮らす人々であった。

「法も、定める。人を、よりよく導くような法だ」

 葛城もまた、先のことを思い描くような光を湛え、芦那に笑いかけた。

「だから、もう、眠れ」

 ちょっと、様子を見にきただけである。だから、以前のように、それこそ獣のように芦那を求めることはない。ただ優しく微笑みかけ、立ち去った。その背を同じ表情で見送る芦那。

 はっきりと、目に見えて分かるくらいに、痩せていた。


 このころ、これまで政治の補佐をしていた鎌のような役割を、猫にさせるようになっていた。これにより、猫も、大海人皇子おおあまのおうじとして教科書に名を連ねることとなる。

 葛城は、自らの構想を、猫に伝えた。その中にはこれまで何度か改定を重ねてきた冠位のこともあったし、地方豪族の直接統治を廃し、朝廷の力が隅々まで行き渡るような内容もあった。それら全てが、国の力をばらばらに分散させることなく、一点に集中させる目的のためのものであった。それでこそ、人ははじめて自らの目に映るどの光を目指してゆけばよいのかを知ることができるのだ、と葛城は言った。

 猫にとって、いや、これよりは大海人と呼ぶべきか。彼にとって政治とは、難しいものであった。彼は、葛城のような激しさも、鎌のような怜悧さも持ち合わせていなかった。しかし、それを継ぐことができる者のうちの一人として己が選ばれたのだから、自分にできうることなら何でもするつもりであった。

 大海人にとって、葛城とは、神霊などよりもよほど有り難く、恐ろしいものであった。葛城は、大海人の全てだった。葛城が大海人に名と生を与え、その妹の夫も用意して不自由なく生きてゆける道を与えた。だから、葛城の造った国をもし自分が継ぐならば、自分の役目とは、それを守ることなのだと思い定めていた。

 しかし、不思議なもので、いざこのようにして政局の中心に立ち、ものごとを見ると、これまでとはものの見え方が全く違ってくることも知った。

 葛城の役目は、果たして国を造ることなのであろうか。

 さいきんになって、大海人はそのように思いはじめている。

 もしかすると、葛城の役目は、破壊であるのかもしれぬ。これまで長きに渡って続いてきたやまとを壊し、今まさに国を造ろうとしているが、それは、たとえばそれまであった建造物を解体し、その跡地の基礎を引き抜き、土を被せ直して整地しているようなものなのではなかろうか。

 もしそうであるなら、大海人の役割とは、それを守ることではない。なぜなら、葛城の役割は、ものを壊し、あらたなものを造る地均しをするところまでであり、それが完了した時点ではまだ守るべきものなど何一つとして造られていないからだ。

 建設。

 それが、自分の役割なのかもしれない、とおぼろげながらに思い始めている。これは、大海人が概念的、観念的な型枠から抜け出し、葛城の思うような「一人の実行者」としての王の才が芽生えはじめている証なのかもしれぬ。

 葛城が壊し、道を敷く。その道は、永遠に続いてゆくもの。

 自分は、その道に、より多くの人が集まるように、できるだけ大きく、たくさんの建物を建てる。

 それを守るのは、きっと、自分もまだ知らぬ、あとに続く数々の王なのだろう。そして建物とは旧くなれば、どのみち壊される。しかし、はじめに敷いた道とは、なかなか無くなるものではない。それどころか、年月を経れば経るほど、人が歩き、地は固まり、幅は広がり、強固なものとなってゆく。

 彼らの時代から遥か千三百年以上も後の昭和に生まれ、平成を生き、これから令和を見ようという筆者には分かる。

 大海人の想像は、当たっている。


 また、葛城は腹心らと共に、飛鳥の太極殿にいる。やはり、芦那はいない。

「芦那さまの、お加減は」

 鎌がまず、静かに口を開いた。

「変わらず、だ」

「咳などは」

「このところ、治まっているようだ」

「おばさま、久しくお会いしていないから、早く良くなっていただきたいものです」

 讃良が、遥か高い天井に目をやり、つぶやいた。芦那の加減が悪くなってから、彼女はその周囲に近付くことを許されていない。葛城の命によるものであった。

「太子――」

 葛城は王であるが、まだ天皇ではない。だから、太子である。その母であるさきの天皇は四年も前に死んだから、いったい誰の太子であるのかよく分からぬが、とにかく、葛城はまだ太子であった。

「――大事ありませぬか」

 鎌は、芦那のことを言っているのではない。葛城自身のことを言っているのだ。それくらい、葛城にも分かる。だから、少し眉を下げながらもひときわ声を強くして、

「ああ。大事ない」

 と答えてやった。

「さて」

 葛城は、芦那の話題を、べつのものに切り替えた。

「唐のことだが」

 あの戦い以来、唐は着々と膨張を続けており、半島はその傘下である新羅によって統一されてしまった。百済よりももっと早くに滅んだ任那みまなという国がまだあった時代から倭はこの半島に勢力を扶植し、利権を得ていたが、それが絶たれた。そして今、利権どころか、その半島を足がかりに、唐が倭に攻め入ってくるという懸念も一層強まっているのだ。

「俺はな、鎌」

 葛城は、言いにくいことを言うように、鎌に顔を向けた。鎌がどう思っているのかを、知っているのだろう。

「嫌なのだ。唐などに怯え、その顔色を伺うようなことは」

「それは、ごもっとも。しかし」

 鎌の目が、かつて葛城という絵絹に自ら思う絵を描かんとしていた頃のものになった。

「唐がこちらに攻め寄せて来ぬために最も早い道が、間違いなくあるのです」

 大海人も、讃良も、伊賀も眼を上げた。葛城だけが、逆に眼を伏せた。

「臣従なされませ」

 鎌が、無感情に言った。

「それは、あまりにも――」

 伊賀が、声を上げた。この年で十七になっている。

「かつては、それを討ち滅ぼし、安寧を得んとされていたではありませんか。それを、一度負けたからといって」

「黙れ」

 葛城が、一喝した。

「これは、気のものではない。一人の気でもって為せるほど、国のことは軽くはないのだ」

 ほう、というような眼を、鎌がした。かつての葛城なら床を叩いて悔しがり、絶対に嫌だとをこねていただろう。それが、ずいぶんと大人しくなったものである。

「臣従を、なされませ」

 鎌は、それを色には出さず、重ねて言った。

「まず、あちらからやってくる劉徳高りゅうとくこうを迎え、もてなし、そしてこちらからの使節を付けて送り返すのです」

 劉徳高というのは、あの戦いの戦後処理のことについて談判をする役割の、唐の役人である。それが、近々海を渡ってくることになっている。そこで倭は正式に百済の領地から自国の影響力を放棄し、全てを唐に差し出すことを宣言することとなる。あとは、互いの国で養っている捕虜の交換であるとか、そういう話になるであろう。必ず、今後の交易についての話も出る。そこで、鎌は、倭国は未来永劫、唐に臣従するということを誓ってしまえと言うのである。

「うむ――」

 伊賀を怒鳴りつけはしたものの、やはり葛城の気性でそれを受け入れるのは難しいらしい。頭では分かっていても、やはり、許せぬものがある。

「国を、守るためです」

 鎌は、感情のない声のままである。つとめて、隠そうとしているのであろう。そうでなければ、鎌もまた臣従などもってのほかと床を叩いて声を荒げてしまいそうになるのかもしれぬ。

「猫。お前は、どう思う」

 従者としての猫ではなく、為政者の一人としての大海人の意見を求めた。

 大海人は少し黙り、すぐに目を開いた。

「吊るしておかれませ」

「どういうことだ」

「唐の機嫌を取る。それは、あくまで、我らを攻められぬようにするため、唐をこと」

 臣従しておきながら唐を縛るとは、どういうことか。誰もが、猫の次の言葉を待った。

「先の戦いは、我らの負け。それを受け、唐と友誼を結び、互いに使を交わす。しかし、我らは、あくまで我ら。ひとつの国として唐と渡り合うことができるまで、唐など、うまく吊るしておけばよろしい」

「吊るす」

 葛城は大海人のその言い草が気に入ったようで、膝を叩きながら反復した。

「唐が気付かぬうちに国の力を高め、この世のどこにもない、我らだけの国を。ここには、倭国やまとも百済もなく、ここで暮らす人こそが、我らの国の人。なまじ唐が、我らが腹から臣従しているわけではないということに気付いても、表向きには友誼を結んで、いや、臣従しているわけですから、向こうからそれを破って我らを攻めることはできない」

 大海人の言うことは合理的である。花よりも実を取ろうということであろう。形の上で友誼を結んでいても、心さえ服従してしまわなければ、同じこと。

「進んで唐の下に入ることで、唐から我らを守る、か」

 鎌が噛み締めるように呟いた。

「負けて奪われるのではなく、負けて奪われぬために従う、か。守りの策としては、申し分ない。我らが日に日に力を伸ばしても、どうすることもできぬ唐の連中が歯噛みするのが目に見えるようだ」

 葛城も、鎌も賛同した。これで、決まりである。

「まずは、劉徳高を迎える準備を。できるだけ、盛大にだ。我らが先のような戦いを二度と起こさず、未来永劫、唐と手を携えてゆくつもりであることを存分に見せてやれ」

 葛城はそう言って立ち上がり、奥へと引っ込んでいった。芦那にこのことを教えてやるつもりなのだろう。

「伊賀どの。今日は、ずいぶんと大人しいのですね」

 讃良が、弟の伊賀に声をかけた。べつに他意はない。以前に、戦いのやり方について評定をしたときのような気炎がないことを単純に不思議がったのだ。

 それを、伊賀は皮肉を言われたかのように捉えたらしく、ひどく不機嫌そうな顔をした。

「大海人どの」

 その顔が、大海人の方を向いた。

「さすが、長年に渡って我が父の国作りを見て来られただけのことはある。この伊賀、感服致しました」

 それだけを言い、伊賀も立ち去ってしまった。

 鎌が、それをじっと見ている。大海人は、発言を終えたままの表情でじっと床板を見つめていた。


「芦那」

 そっと声をかけ、芦那の部屋を訪った。

「芦那」

 眠っているらしい。葛城はそっと芦那の隣に座り、夜具の中の手を取った。

 あの戦いの頃から、少しずつ身体が悪くなっている。はっとしてしまうほどに痩せ、もともと白い肌の色は何か危険なものを孕むように透き通ってきている。

 つい数年前まで、このようなことはなかった。だが、今は、芦那にわけのわからぬものが擦り寄ってきているのが、はっきりと分かる。不思議と、葛城はそれに抗おうという気を持っていなかった。

 芦那が、抗おうとせぬからであろう。

「あにさま」

 うっすらと、声を発した。なぜこれほどに芦那の声が弱々しいのか分からない。抗おうという気がないというよりも、信じられぬと言った方が実際の葛城の心持ちには近いのかもしれない。

「眠っておったのか」

「ええ。起きていたのか眠っていたのか、よく分からないけれど」

「そうか」

「なにか、おはなし?」

 そう言って、娘の頃のように微笑んだ。

「いや。なんでもない。お前が恋しくなっただけだ」

「うれしい」

 芦那の痩せた手に、そっと力が加わった。それは、葛城が思わず顔を背けてしまいたくなるほど、弱いものだった。

「ねえ、あにさま」

 つとめて明るく笑い、身を起こそうとした。芦那もまた、自らにやってくるものが何であるのか葛城が知っていると分かっているのだろう。

「この国は、どうなってゆくの」

「案ずることなど、何もない」

「どうなるか、ではない。どうするか。それに尽きるのだ」

 おどけて葛城の口真似をすることすら、切ない。だが、葛城も、つい吊り込まれて笑った。

「だいじょうぶよ、あにさま」

 ぱっと笑った。外は、冷たい雨。これが暖かくなるまでには、まだ少しの時間を要するだろう。

「あにさまの敷いた道が、わたしにも見える」

「俺の、敷いた道が」

「ええ。鎌にも、猫にも、見えている。そのうちに、この国で暮らす全ての人にも、見えるようになる」

「そういうものか」

「ええ、そういうもの」

 芦那がそう言うと、不思議とその通りになるような気がしてくる。葛城は、穏やかな心地で握った手にもう片方のそれも重ねてやった。そうすると、じんわりと熱が生じた。それが自分の熱なのか、芦那の熱なのかは、葛城には分からない。

「だから、だいじょうぶ。皆、あにさまのそばにいる。鎌や猫だけではなく、讃良も、伊賀も。他の百官の者たちも、田の世話をする民も、土を運ぶ人も、木を伐る人も。だれもが、あにさまのそばにいる」

「お前も、な」

「ええ、わたしは、いちばんあにさまの近くに」

 くすくすと声を立てて笑った。

「それならば、俺は何にでもなれる。どこにでも、ゆける。そうだろう?」

「ええ、その通り。いつだって、わたしとあにさまは、ともにある」

 もう、眠れ。そう言って、最も愛おしい人とのわずかな時間を閉じた。


 それからしばらくして、芦那は眠ったまま目覚めなくなった。

 葛城は泣き喚くこともなく、淡々とそれを葬った。

 三年半もの間、ずっと放ったままになっていた自らと芦那の産みの母であるさきの天皇の葬儀を執り行い、彼女らが生まれ、愛した飛鳥の地の東外れ、少しだけ小高くなっている丘にある墓に、共に入れてやった。

 自らの道のために葬った母と、それを助けた最愛の妹。それらを同じ墓に入れることに、どのような意味があるのか。現代の我々には、想像することしかできぬ。

 当の葛城自身も、その意味をぼんやりと考えながら、石室の蓋が閉じられるのを眺めていたような気がしてならない。

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