雷光と猫
その娘が、
それを、左大臣に就けた。このとき新設された、朝廷を主宰する
そういう配慮をしなければならぬほどに、葛城のやり方は激しかった。この場合、やり方と言うのは、たとえば入鹿の墓のことを指す。あれほど手をかけて入鹿が生前に
その絵を、鎌が描いた。そして、自らは、
これは、便利な役職である。大臣達と同等に近い権力を持ちながら、明確な職掌は、定められていない。そして、特例的に設置されるものとし、原則として鎌一代のみのものとした。
すなわち、鎌は、あらたな国家機構を明確化させつつ、それを自在に付け外し出来る立場に自らを就けたのだ。
そして、周到なことに、
「それらを、皇子の名で、なされませ」
と葛城に言ったのである。
「この度のあたらしい国造りは、全て、皇子のお力あってのもの。それを、世に知らしめることになりましょう」
葛城が頼みとする稀代の策士が言うから、葛城もその気になった。
そして、鎌は、更に新たなものを、この国にもたらす。
「年号を、定めましょう」
「年号」
無論、葛城も知っている。
これ以前は、天皇の即位を元年とし、代が変われば呼称も変わる王位記念法という方法で年を数えるしかなく、しかし、彼らがどのようにして年を数えていたのかは、よく分からぬ。天皇、大王が死した後、
はっきりしているのは、前漢の頃から大陸で用いられていた年号というシステムを、我々の祖先が、このとき始めて取り入れたということである。大陸においては清の代に廃止されてしまったが、わが国においては、鎌のこの一言以来、ずっと続き、筆者がこれを書く今、平成となっていると思えば、人により賛否はあるにせよ、なにやら感慨深いものがある。
「大きく化けると書いて、
鎌は、だんだんこの無邪気な皇太子が、可哀想にも思えてきた。しかし、情では世は動かせぬと思い、やはりこの獣を、自らの作品とする作業に熱中した。
だが、鎌は知らぬ。この産まれたばかりの獣が、まだ仔でしかないことを。仔であるから、今は無邪気に鎌の創作について感嘆の声を上げ、全て従い、受け入れている。
それが成体となり、ほんとうの姿を現しとき、鎌は、どうするのだろうか。
「狡兎死して、走狗
という古い言葉がある。兎を獲るため可愛がられていた犬も、兎を獲り尽くしたあとは不要となり、食うために殺されるということを例えに引き、事が成ったのち、その功臣は悲運を辿るということを示す。破壊や建設における功が大きければ大きいほど、新たな世において報酬は大きくならねばならず、王から次第に疎んじられ、遠ざけられ、しまいにはあらぬ疑いをかけられて殺されるということを示す。
鎌は、この度の事変において、最も重要な「走狗」であった。そして、彼自身が宣言する通り、狗の飼い主は、名目上、葛城。
つまり、葛城が、皇太子から
「こいつは、あぶない」
一度でも葛城がそう思えば、鎌はたちまちのうちに無惨に殺されることであろう。
だからこその、葛城の、「次の王であることを約束された人」という皇太子の地位。そして、鎌の、「政治において、例外的に巨大な実行力を持つ人」という内臣の地位。鎌は、まだ葛城という獣が仔であることを知らぬながら、少なくとも己の立つ地面くらいは、しっかりと
ところで、このくらいのとき、葛城は拾い物をした。それは、猫のような少年だった。
葛城が所用のため、法興寺を訪れたときのことである。所用と言うのは、軽皇子あらため今の
寺の西、鎌と始めて出会った
「おい、
それを見た葛城は、声をかけた。
返事はない。
「どうした」
近付いた。
猫のようだ、と思ったのは、少年が近付いてきた葛城に向かって、いきなり飛びかかってきた、その身のこなしのことである。
咄嗟に、葛城は身を退き、それをかわした。
葛城の首があったところに、刃物の光が通った。
葛城は無遠慮な男で、外出するとき、特に理由がなければ、一人である。恐らく、この少年は、そういう貴人を狙った、野盗か何かの類いであろう。
通りすぎようとする光を、葛城は掴んだ。
少年があっと声を上げたときには、思いきり腕を捻り上げ、刃物を奪い取っている。それを打ち捨てながら少年を蹴飛ばし、尻餅をついたところで、鉄剣を抜き、首筋に当てた。
「何故、このようなことをする」
少年は、答えない。顔まで、猫に似ていた。
「答えよ、猫」
と、さっそく葛城は、この少年にあだ名を付けた。
「おれの父も、母も、死んだ」
そう少年は言った。葛城が眉を潜めたのは、言葉の訛りが、渡来人の子らしいものであったからだ。この頃、渡来人と言えば、まず蘇我の庇護を受けているものと思ってよい。文字や計算に長け、優れた技術を持つ彼らを取り込むことで、朝廷の倉の管理おこなう、というところから蘇我の隆盛は始まったのだ。だから、蘇我の没落を受け、食い扶持を失った家があり、失意のうちに父も母も死んだ。そういう風に、葛城はこの猫の境遇について解釈をした。
葛城とは不思議な男で、蘇我、こと入鹿に対してはあれほどまでに激しい怒りと憎悪をむき出しにしておきながら、それに遠く連なるであろうこの猫に対しては、
「おお、おお、可哀想に」
と言って剣を引き、自ら膝を折って視線を合わせ、肩に手をやった。
「お前、一人で生きてゆかねばならぬのだな」
猫は、戸惑ったような、怒ったような視線を、葛城に投げ掛けている。
「俺も、同じさ」
葛城の眼が、ふと悲しいものになった。
「お前などと、同じにするな」
猫は、精一杯の反発を示した。
「そうか。なにが、ちがう」
「おれには、妹がいる。おれがどうにかせねば、あいつも死ぬ」
猫は言った。だから、生きるのだ。と。
その猫のしなやかな身体が、いきなり持ち上がった。
「なにをする。離せ」
叫びながら手足をじたばたとさせても、葛城は気にも止めない。
「やめろ。おれを、どうするつもりだ」
そう言われて、葛城は、何故自分が猫を担ぎ上げているのか考えた。考えたが、特に理由はないと思った。だから、肩の上から、猫を地に投げ捨てた。ついでに、腰に帯びた剣をもう一度抜き、投げ与えた。
「お前は、妹のため、生きると言った」
「そうだ」
「俺にも、妹がいる」
猫は、投げ与えられた剣をどうしてよいのか分からないらしく、葛城と剣とを交互に見ている。
「だが、俺には、誰かのために生きる理由がない。ただ、俺を、あるべき場所へ。それをのみ思い、生きている」
これは、葛城の、そもそもの行動理念である。蘇我が君臨しているのが論理から外れたことで、天皇の子である自分や他の皇子すら、蘇我の一存で付けたり外したり出来るような世に
「俺とは、そういう男だ。だから――」
まっすぐに、刺すように、打ち付けるように見据えてくる視線を、猫は畏れた。
「――お前は、俺より、尊い」
猫は、この緋色の衣を纏った貴人が、狂っているのかと思った。たいてい、こういう場合、金品を置いて逃げ去るか、供の者が前に出てきて猫をさんざんに打ち据えるかのどちらかなのだ。しかし、今、猫の眼の前にいる男は、憐れみでもなく、蔑みでもない、強い力のある視線を、投げ掛けているのだ。
このような男、狂っているに決まっている。そう、猫は思うしかない。
「その剣で、俺を刺せ。それで、お前が妹のために生き続けられるなら、よいことだ」
本気で言っているのかどうか、筆者にも分からない。猫は、剣に手をやることもなく、ぶるぶると震えている。
「どうした、猫」
葛城は、両腕を力なく、だらりと垂れたまま、猫から視線を外し、立ち上がった。
「やらぬか」
そこへ、足音。音のする方へ眼をやりたいのに、何故か猫は葛城から眼を背けることが出来ない。陽光を背負い、影と輪郭のみになった葛城から、音は発せられない。静かに、猫が剣を取るのを待っているらしい。
「
複数の男の声がする。
「いかがなされた!」
「なんだ、鎌ではないか」
鎌、と呼ばれた男の方を葛城が向いたとき、顔の角度が変わり、一瞬、陽光を吸い込む眼の光が見えた。
ああ、そうか。と猫は思った。
――憐れみでも、蔑みでもない。この人は、悲しいのだ。
葛城は、この状況について鎌から説明を求められ、困っているらしい。猫が野盗であると言えば猫は殺されるし、それに自ら剣を与えたとなれば、自分が怒られる。だから、
「なに。行きずりの子を、からかったまでよ」
と言い、地に転がった剣を拾い、また腰に戻した。
「さて、行こうか。寺には、もう皆揃っているのか?」
「揃っております。あまりに、皇子が遅いので、様子を見に来たのです」
「悪かった、鎌。怒らんでくれ」
そう言って、彼らは法興寺の方へと連れ立って歩いていった。
槻の広場に、猫は一人残された。
風が。
風が、吹いてきた。
そして、雲も。
夏のことだから、先程までうるさいくらいであった陽は、すぐさま分厚く黒い雲に覆い隠された。
雨が。
大きな雨の粒が、猫の頬に、音を立ててぶつかった。
だんだん強くなるそれを全身に受けながら、猫は立ち上がった。
駆けた。
駆けると、やはり猫だった。
法興寺の西門をくぐる。
彼らの姿は、既にない。
ただ、灰色の雨が降るのみであった。
いちばん大きな本堂の前に、猫は座った。
水溜まりなど、気にも止めない。
結局、打ち合わせを終え、葛城らが本堂から出てきたのは、日が暮れてからであった。
雨は、まだ降り続いている。日が暮れてなお雨は強くなり、ときどき、雷光が走っている。
「お前」
葛城が、それを見下ろした。
その雷光の青白い光の下に、雨に打たれたまま、地にぴったりと頭を付け、平伏している猫の姿だった。
「わたしを、お連れください」
ありったけの声で、猫は鳴いた。
「
やはり、渡来人の子なのだ、と葛城はなんとなく思った。
「わたしを、お側に」
猫は、天を破らんとする雷鳴よりもなお強く、言った。鎌らは、顔を見合わせ、何が起きているのか測りかねているらしい。
葛城は、本堂の段を降りた。
猫と同じ地に立ち、同じ雨に打たれた。
「許す。
声は、雷鳴よりも、猫のものよりも、なお強い。
地面に這いつくばる猫を見下ろし、不敵に笑った。
「—―猫よ」
ぱっと顔を上げた猫。
葛城と、眼が合った。
また、雷光。
それすら葛城の眼は吸い込んで、また光を放った。
やはり、それは悲しいものだった。
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